十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

えびでんす?かいざんす!

 

昔、といっても私が真面目に糖尿病に取り組みはじめた(天が私の心臓に爆弾を仕込んだからねえ)のは、もう五年前。当時は「糖質制限スゲー!」な民間療法が盛んで、私も入院の数年前に実施し、血糖値が劇的に下がって、これは良い、と思ったものだ(あっ今では医者の指示に従ってる。生兵法は怪我の元)。当時の糖尿病学会のPRが酷くて、「糖質制限にはエビデンスが無いから要注意!」と主張してたのだが、公式の食事療法だって実はエビデンスが欠けているのでは?と感じるようなお寒い状況だった。なら血糖値が下がる方法を選択しちゃうよね。その後、研究が急激に進んだのはエビデンス・ベースの考え方の普及と、糖質制限に対する学会の危機感の賜物だろう。

さてエビデンスだ。
最近流行だが、用語を意図的に誤用してる例があるから要注意。(流行語にありがちな話なんだが…)
例えばこれ。(この書は数々の成功理論をエビデンスで検証する、というのがウリ)

 

リンカーンガンジーミケランジェロマーク・トウェイン。彼らはいずれも16歳になる前に親を失っている。早い時期に親を亡くしながら目覚ましい成功を遂げた(または悪名高く影響力がある)人物は非常に多く、そのなかには15人のイギリスの首相も含まれる。

「英国の首相=めざましい成功者」ではないだろう。多くの無能首相もいたはずだ。本書では結構、米国大統領のネタを振っている著者だが、ここで触れてないのは合致するデータが無かったから?と思われても仕方ない。
こーゆー漠然としたネタを軽々しくエビデンス、といって欲しくない。不正確なデータ処理に基づく駄言だと思う。
以下は別の書からだが、こんな統計もある。

 

テストで良い点をとったので褒められると、次のテストでは点数が下がり、テストで悪い点をとったので怒られると、次のテストでは点数が良くなるというデータがある。不思議だが統計上の事実だ。

 

では、方針として褒め教育は誤りで、厳しく叱る教育がやはり正しいのか?統計に誤りが無いのなら、この事実からはそういう意味しか受け取れないように思ってしまう。
タネ証しをすると、引用した状況は当然のことで、不思議でも何でもない。
褒められるくらい良い点とは、実力以上の点が取れたからだろう。次のテストでは実力どおりの並の点(つまり前回より低い点)となる確率が高いのは当たり前だ。
逆に怒られるほどの悪い点とは、普段以下の点だったからだろう。上記同様、次は平常点、つまり前回と比べ点数が上がる確率が高い。
以上、『論理パラドクス』三浦俊彦(二見文庫2016)より。

 

上の例は統計は正しいが単純に解釈すると誤るというものだが、データにバイアスをかけてシレッと発表する悪質な手法も蔓延している。(昔、ブルーライトの記事で、実は異常な光量のもとでのグラフを使ってるので心配する必要は全くない、という例が紹介されてた記憶があるが、今探したら無かったデマだったのかなあ)
いずれにしても、エビデンスと称するものを鵜呑みにしちゃうと簡単に騙される。騙して得になり、バレてもテヘペロで済むレベルなら、悪質とわかっていても遠慮なく使っちゃうのが現代人だ。(某国の官僚諸君も最近はそんなのが多いねえ) 日本の社会は性善説、モラル頼みで成り立ってたと思うが、そろそろ米国のように懲罰的賠償金を科す必要があるのかも知れない。

 

最後はパラドックス小噺。
今回も上記『論理パラドクス』から思いついたネタ。
13サンチョ・パンサの絞首台のパラドックス」の部分的新解釈。理屈は概ね同じだが、最後のだけ同書と見解が異なる。設定はかなり変えています。

 

サンチョはキホーテと別れた後、ある地方の太守になった。サンチョの評判は非常に高く訪問客があまりに多いので閉口したが、ある日思いついた。
「今後、わしの家の前に架かる橋を渡って我が家の方に来るものは必ず用事を事前に宣言せよ。用事が果たせた場合は往復の自由を保証するが、偽りの用事を述べた場合は縛り首だ」
これで皆、訪問すべき用事を作らなければなければならなくなり、冷やかしの訪問は激減した。
ある日、今まで見たこともないような美女が現れ、サンチョに挑戦した。
「これから橋を渡るけど、私の用事が果たせるかしら?」
「つまり、わしの意思で実現出来る用事なのかね?」鼻の下を伸ばすサンチョ。
「さすが名太守のサンチョさまね。あなたに縛り首にされるために橋を渡ります」
サンチョが驚いている間に女はさっさと橋を渡ってしまった。
「馬鹿な!」
実は女は以前サンチョが処刑した悪党の愛人で、理不尽な太守を懲らしめようと無謀な行動に出たのだった。
サンチョが女を縛り首にすれば、女は用事を果たしたことになる。となると本来は往復の自由を保証しなければならなかった。矛盾だ。
逆に女を縛り首にしなければ、女の用事は偽りとなってしまい、本来は縛り首がルール。これまた矛盾。
グルグル、グルグル、サンチョの目が回る。
だがサンチョは気がついた。果たせなかった用事が、厳密に言えば「偽り」ではない場合もある。(500エスクード借りる気で来ても、相手が貸さない場合、偽りの用事とは言えない。自分の意図の実現が自分以外に委ねられている場合は大抵そうだ) そして、偽りではない場合、罰はくだせない。
だが、それでは女を無事に返すことになる。何ともシャクに障ることだ。
うんうん唸ってサンチョは言った。
「女よ。賢く美しいお前を殺すには忍びない。なので橋のルールのうち「縛り首」のところを「わしとの結婚」に変えたい。となると「往復の自由」に「結婚せず自由に」という含みを持たせる必要があるな。どうだろう、これで基本的な条件は変わらんと思うが。出来ればお前を妻に迎えたいのだ」
女は用心しながら必死で考えた。この条件でも論理的には以前のものと同値で、肝心なところに変わりはないので私は自由に往復出来るはずもし万一論理に穴があっても結果は莫大な領地を持つ太守の妻だ。そうなったら散々に財産を搾り取ってやる。(少なくとも殺されはしないはず) デブの薄ら馬鹿と侮っていたが、意外とこの男、賢い
「では私の目的も「あなたと結婚するために」と変えましょう」しおらしく答える女。
「それで良い。では判決だ。橋を渡って自由に帰るが良い」
女は意気揚々と橋を戻り、対岸についた。完全勝利、と思った瞬間、太守の手兵が現れ、船を使って女を無理矢理サンチョの元に連れ戻した。
「人でなし!約束が違う!」
ジタバタする女に満面の笑みのサンチョ。「全てはルールのうちだよ。最初はお前の用事が偽りである、とまで言い切れないから、罰としての結婚は出来ない。逆にお前の宣言通り結婚してしまえば、お前の用事は成立するが、「結婚しない自由の保証」とは矛盾する。それで何もせず橋の向こうに帰した。だが対岸に戻ってしまえば、二人はお互いの望みどおり結婚するのが当然だ。これで当初のお前の目的も果たし全てが満たされるのだ。愛の力は偉大なり」
そんな話を得意顔でしているうちに、大勢の女たちが出鱈目な理由を宣言して橋を渡り、サンチョの門前に到着してしまっていた。
新しいルールを守れば女たち全員と結婚しなければならない。サンチョは泣く泣くルールを撤回し、美女を諦めざるを得なかった、ということだ。

 

前掲書に記された13問の条件文が相当に変。(「正しく用事を申告したら橋を無事渡ることが許され、正しくないことを申告したら橋を渡ったとたんに絞首刑」この日本語だと大抵の場合、絞首刑の時点で用事が正しいかどうか判断できないよね。それに「正しい」なんて難しい価値判断を含む語を使っちゃってどうするの?

本当のオリジナルは『ドン・キホーテ(1605)の中のエピソードで

サンチョ・パンサの元に次のような相談が舞い込んでくる。「ある橋を渡って向こう側に行くには、その目的を報告しなければならず、それが嘘だった場合には絞首刑に処せられることになっている。ところがある男が『私は絞首刑になるためにやってきたのだ』と言ったため、どうしていいかわからなくなった」

 

これに対しサンチョ・パンサは、そのまま通行させてやれと答えている。その根拠は「判断に迷ったときは慈悲深くあれ、と私は旦那様にいつも言われていた」というもの。(wiki「ワニのパラドックス」の項より)

 

私が真っ先に気になったのは、どーしたら目的が嘘だと言えるのか、どのタイミングで嘘と判断するのか(すぐに果たせない用事もあるだろう)、というところ。
処世訓としては400年前の格言が素晴らしくて感動的だ。

2020.07.27(シミルボン公開)