十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載56(第1部第37章の2)

Rue Mouffetard, vue prise de la rue de Valence, 撮影 Charles Marville, 1865年ごろ


ではこれが、本当に、今まで逃げおおせていた、殺人犯の共犯者なのだろうか?… ≪37-52≫

聞いていた身体的特徴と目前のものとの共通点は、漠然としたものだった。それを信頼するのは、あまりに無謀で間違う危険性があるので、別の状況ならルコックは躊躇しただろう。 ≪37-53≫

しかし、この場合は、多くの状況証拠と高い蓋然性がアプサント親父の見解を裏付けていたため、若い刑事は即座にそれを受け入れた。 ≪37-54≫

この待ち合わせは、一連の出来事の論理的帰結ではないか。被告とマリアンブールホテルの金髪の女将との偶然の出会いから、あらかじめ予見され、告げられていた結果ではないか!… ≪37-55≫

「メは」とルコックは考えた。「まず、ミルナー夫人が持っていたお金を全て受け取った。そして、共犯者にこの界隈の安酒場で待つように、と彼女に伝達を命じたのだ。奴が迷って、探し回っていたのは、特定の酒場を指定出来なかったからだろう。奴らが仮面を脱がないのは、メが我々の追跡を振り切ったという確信が持てないのと、一方で共犯者の方もミルナー夫人が尾行されていたのではないかと警戒しているのだ」 ≪37-56≫

共犯者、その男が間違いなくそうだとして、そいつはメやルコックが採用したのと同様の変装をしていた。シミだらけの古い労働着(ブルーズ)を羽織り、頭にはよれよれの雑巾みたいなフェルト帽をかぶっていた。少しやり過ぎだった。その不穏な風貌は、店の怪しげな、または凶悪な顔ぶれの中でもひときわ目についた。 ≪37-57≫

彼らが待ち合わせ場所に選んだのは、犯罪者のたまり場だった。まともな労働者と呼べる者は四人程度しかいない。飲み食いしている連中は大抵、法の手が及んでいる手合いのようだった。まだマシな部類は、これら立派な顔ぶれの大半を占める、場外のならず者たちだろう。そいつらは皆、コリン風ネクタイと、油張り防水布のキャスケット帽で見分けがつく。 ≪37-58≫
※ cravate à la colin、casquette de toile cirée: (以下、未確認のGemini註釈) 19世紀半ばから後半のパリの労働者やアパッシュの間で流行した、独特の結び方(または柄)のネクタイと、オイルコーティングされた防水布の帽子のこと。当時のストリートファッションである。

だが、それにもかかわらず、上流社会の一員であると強く疑われているメは、まるで自分の家のように馴染んでいた。 ≪37-59≫

彼は「定食」と酒一リットルを注文すると、文字通り貪り食って、スープと牛肉を大口を開けて胃袋に流し込み、袖の裏で口元を拭っていた。 ≪37-60≫

ところで、奴は相席の男と会話を交わしているのか?料理の湯気とパイプの煙で曇った窓ガラス越しだと、全く判別がつかなかった。 ≪37-61≫

「中に入らなければ!… 」とルコックはきっぱりと宣言した。「近くに座って、話を聞いてやる」 ≪37-62≫

「何考えてる!… 」とアプサント親父は言った。「もし奴らにあんたの正体がバレたら!」 ≪37-63≫

「奴らには見破れないさ」 ≪37-64≫

「ひどい目に遭うぞ!…」 ≪37-65≫

若い刑事は気にも留めないという仕草を見せた。 ≪37-66≫
※ un geste insouciant: ここは手のひらを広げたり肩をすくめたりするポーズが定番。

「良く知ってる」と彼は答えた。「僕を片付けるためにナイフだって使いかねない。でも大したことじゃない!命を危険に晒さない治安局捜査官なんて、ただの汚いイヌだよ。ジェヴロルなら躊躇しないだろ… 」 ≪37-67≫

古手の狸オヤジは、若い相棒の洞察力に勇気が伴っているか確かめたかったのかもしれない。彼は納得した。 ≪37-68≫

「先輩、あなたは」とルコックは付け加えた。「奴らが突然出て行っても<尾行(ツケ)>られるように、ここで頑張っていてくれ… 」 ≪37-69≫

すぐに彼はドアのノブを回して押し開け、それから二人の客が座っているテーブルのすぐ近くに座り、耳障りなしゃがれ声で、酒半壜とつまみ一皿を注文した。 ≪37-70≫
※ une chopine: 古い液体計量単位(約0.476リットル)「半壜」

被告とフェルト帽の男は話していたが、偶然隣り合わせた見知らぬ者同士の様子であり、待ち合わせて再会した友人の感じではなかった。 ≪37-71≫

彼らは隠語で話していた… それは、現場の雰囲気を強く匂わすために小説で散りばめられるようなチャチなものではなく、犯罪者の巣窟で使われている本物の隠語、意味が絶えず変化し、多様であるため、ちゃんとした言葉に翻訳不可能な下品で卑猥な言葉だった。 ≪37-72≫

「なんて見事な役者ぶりだろう!… 」と若い刑事は思った。「なんと完璧で、なんという知識の豊かさだ!… もし僕が絶対に確信していなかったら、きっと騙されていた!… 」 ≪37-73≫

フェルト帽の男が主導権を握って喋っていて、フランスの刑務所について、専門書を探しても見つからないような些事を語った。 ≪37-74≫

いろいろな重罪刑務所の所長の性格とか、あそこの規律はこちらよりどれだけ厳しいとか、ポワシーの食事はフォンテヴローの十倍もマシだ、などと話していた。 ≪37-75≫
※ Poissy
※ Fontevrault: (以下、未確認のGemini註釈) 元修道院を改造した悪名高い監獄

ルコックは食事をすぐ済ませると、ブランデー半セプティエを注文し、壁にもたれ、目を閉じて、うたた寝をしているように装いながら、話を聞いていた。 ≪37-76≫
※ septier: (以下、未確認のGemini註釈) 当時の古い容積単位。300ml程度。半セプティエは小グラスだろう。

次はメが話す番だった。判事に話して聞かせたような、殺人の時から脱獄までの自分の物語を語った。警察や司法が自分の身元に対して抱いた疑惑の件も含まれており、その疑いには大笑いさせられたぜ、と話していた。 ≪37-77≫

もっとも、ドイツに帰るものが稼げれば自分は万々歳なのだ、と彼はこぼした。だが、金がなく、どうやって工面したら良いのかもわからない。包みにして持っている衣服を売り払うことさえ出来ないでいるんだ、と言った。 ≪37-78≫

すると、フェルト帽の男は、困っている仲間を見殺しにするような薄情な真似はしない。この通りに話のわかる商人を知っているから案内してやろう、とメに持ちかけた。 ≪37-79≫

メはただ一言「行こう!… 」と言って、勢いよく立ち上がった。そして、彼らは歩き出し、ルコックがすぐ後ろを追った。 ≪37-80≫

彼らは、フェラ・ムーラン通りの向かいまで早足で下り、そこから狭くて薄暗い通路に入った。 ≪37-81≫
※ une allée: (以下、未確認のGemini註釈) この界隈(ムフタール周辺)のalléeは、建物の1階を貫通している薄暗い「通路」や「エントランスの奥へと続く私道」を指すことが多い。

「走って、先輩」とルコックはすぐにアプサント親父に言った。「走って、この建物に裏口が無いか、管理人に聞いてきて」 ≪37-82≫

建物の出入口はムフタール通りに面したものだけだった。捜査官たちは待った。 ≪37-83≫

「気づかれたか!」と若い刑事は呟いた。「賭けてもいい。被告が僕を見分けたか、マリアンブールホテルの小僧が僕の特徴を共犯者に伝えたのかも!…」 ≪37-84≫

アプサント親父は黙っていた。例の二人組が薄暗い通路から姿を現した。メは手のひらで二十スー硬貨を数枚弾ませていたが、ひどく不機嫌に見えた。 ≪37-85≫
※ pièces de vingt sous: 一フラン貨幣

「いかさま師め…!」と彼はぶつぶつ言った。「故買屋どもが」 ≪37-86≫

服が二束三文で買い叩かれたとはいえ、親切なフェルト帽の男へのお礼をするのが筋だった。メは一杯奢らせてくれと持ちかけ、二人は一緒にリキュール飲み屋に入った。 ≪37-87≫
※ liquoriste: (以下、未確認のGemini註釈) 当時、主にリキュールやブランデーなどの強めの蒸留酒をその場で飲ませた蒸留酒販売店(居酒屋の一種)

そこでトルニッケ遊びをやって酒を奢り合い、一時間ほど過ごした。そして店を出たかと思うと、今度はそこから百歩ほど進んだところの立ち飲み屋に移った。 ≪37-88≫
※ jouant des tournées au tourniquet: (以下、未確認のGemini註釈) tourniquetは当時のフランスの酒場(主に大衆的な店)のカウンターによく設置されていた、矢印を回転させる簡易的なルーレットのような遊具。これを使って「次に誰が全員分の酒(tournée)を奢るか」を決める。いわば『奢り奢られのルーレット勝負』のこと。

その立ち飲み屋が店じまいで追い出されると、仲の良い二人は、夜間営業の店に避難した。そこからも追い払われると、彼らは別の店へ、そしてまた別の店へと駆け込んだ... ≪37-89≫
※ débit: (以下、未確認のGemini註釈) 当時、一般の酒場が閉まった後も特例で深夜営業(あるいは夜通し営業)を許されていた、タバコ屋兼用の簡易的な居酒屋や深夜営業の酒売り場を指す。

そんな風に、壜から小さなグラスへと変えながら、午前一時頃に彼らはサン・ミシェル広場に到着した。 ≪37-90≫
※ de bouteilles en petits verres: 最初はワインをボトル(bouteille)でダラダラ飲んでいたのが、夜が更けるにつれてより度数の高い強い酒(ブランデーやリキュールなど、小さなグラス)へと移行していったことを意味するのだろう。
※ place Saint-Michel

しかし、そこでは、さすがにもう飲めなかった。全てが閉まっていた。 ≪37-91≫

そこで二人は相談し、短い議論の末、腕を組んで仲の良い友人同士のように、フォブール・サン・ジェルマンへと向かった。 ≪37-92≫

飲んだ相当な量の酒が効いてきたようだった。彼らはふらつきながら、盛んに身振りを交え、二人同時に大声で喋っていた。 ≪37-93≫

リスクを覚悟の上で、ルコックは彼らを追い抜き、会話の断片を聞き取ろうとした。すると「美味いヤマ」とか「豪遊の元手」という言葉が彼の耳に入った。 ≪37-94≫

まったくのところ、このような見かけの二人を「高貴な者たち」であると頑なに信じ続けるには「不条理ゆえに我信ず」と叫んだあの神懸かりの男のような強い信念が必要だった。≪37-95≫
※ Je crois, parce que c'est absurde: Tertullianus(155-220)に帰されているラテン語の文句Credo quia absurdumのこと。

アプサント親父の信頼は揺らいでいた。 ≪37-96≫

「雲行きが」と彼は呟いた。「怪しいぞ!」 ≪37-97≫

「心配しないで!… 」 と若い刑事は答えた。「正直、この狡猾な二人組のやり口が、僕にもさっぱり理解出来ないけど、良いじゃないか!二羽の鳥がやっと揃ったんだから、きっと上手く行くよ、うん、きっとね。一羽が飛び立っても、もう一羽は残る。それで、ジェヴロルにも、どちらが正しかったか、はっきりわかるさ!… 」 ≪37-98≫

そのうち、酔っ払い二人の足取りが徐々に遅くなっていった。 ≪37-99≫

フォブール・サン・ジェルマンの壮麗な邸宅を眺める目付きから、彼らが非常に悪いことを企んでいると推測できた。 ≪37-100≫

そしてついに、ヴァレンヌ通りに入り、ラ・シェーズ通りのすぐそばまで来ると、広大な庭園を囲む低い塀の前で立ち止まった。 ≪37-101≫

フェルト帽の男が熱弁をふるっていた。その身振りから、この庭園の敷地に建つ本邸の正面玄関がグルネル通りに面しているのだと、メに説明しているようだった。 ≪37-102≫
※ rue de Grenelle.

「まったくもう…!」ルコックは唸った。「どこまで茶番を続けるつもりだ?… 」 ≪37-103≫

だが彼らの寸劇は、家宅侵入の場面にまで至ったのだ。 ≪37-104≫

相棒の肩を借りて、メは壁のてっぺんによじ登り、直後に、庭に着地した音が聞こえた… ≪37-105≫

フェルト帽の男は、往来にとどまり、見張りを続けていた… ≪37-106≫

※ 初出紙の連載第57回目(1868-7-23)の終わり

(つづく)
 
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ムッシュ連載55(第1部第37章の1)

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(左) Hotel de Cluny in 1850 - by Achille Poirot - Paris

(右) View of the Musee De Cluny in Paris, Series " Villes De France, Paris VIII" 952. Oilette postcard, 1917

 

XXXVII


マリアンブールホテルの女将はメにお金を渡していた。葉巻の購入が有無を言わさず証明した。 ≪37-1≫

しかし、打ち合わせはあったのだろうか?追跡をかわすために打つべき一手一手を細かく決める時間があっただろうか? ≪37-2≫

この点に関しては、非常に高い確率であったのだろうと推測出来たが、そちらも間違いなかった。裏付けたのは被告の態度だった。 ≪37-3≫

ふたたび彼の様子は一変していた。それまでは追跡や逮捕をあまり気にしていないように見えたのに、今では不安で落ち着かない感じだった。長いこと、公然と胸を張って歩いていたのに、突然怖がっているように、壁際に沿って俯いて歩き、身体を小さくして、出来るだけ目立たないようにしていた。 ≪37-4≫

「明らかに」とルコックはアプサント親父に言った。「あの男の恐怖心が増したのは、希望が見えてきたからだ。オデオン劇場では完全に意気消沈し、自首しかねない雰囲気だったが、今では秘密を守ったまま僕たちから逃げ切れると確信している」 ≪37-5≫

被告は、そんな様子で大通りに沿ってヴァンドーム抜道まで来た。そこを通り抜け、タンプルへと向かった。 ≪37-6≫
※ passage Vendôme: 有名なパサージュ(建物の中のアーケード)
※ le Temple: タンプル塔(1808年取り壊し)があった界隈(タンプル街やタンプル市場周辺)を指す。

間もなく、アプサント親父と若い同僚は、彼が立ち止まるのを目撃した。名物のしつこい女商人が声をかけたのだ。彼女たちは、この辺りの通行人を全て獲物と見なしていて、服を脱がせて安く買い叩くか、商品を着せて高く売りつけるか… 自由自在だ。 ≪37-7≫

女商人は商品を売り込み、メは少しばかり抵抗していた。結局、折れて店の中に消えた。 ≪37-8≫

「奴はやっとのことで」とアプサント親父は呟いた。「自分のボロ着を売る場所を見つけた… だが意味がない!… もう金があるじゃないか」 ≪37-9≫

若い刑事は険しい表情で首を振った。 ≪37-10≫

「奴は役に忠実なんだ」と彼は答えた。「そして何よりも、服を着替えたいと強く望んでいる。脱獄に成功した囚人が真っ先に頭に浮かべることじゃないかな?」 ≪37-11≫

彼は口を閉ざした。メが再び出てきた時には、頭からつま先まで変身していた。 ≪37-12≫

今の彼は、厚手の青い亜麻布のズボンに、黒い羊毛の船員の仕事着のようなものを着ていた。首には格子柄のネッカチーフを巻き、頭には潰れた二重底のキャスケット帽を、気取って、耳に載せるように少し後ろへ傾けてかぶっていた。 ≪37-13≫
※ 洋服は難しい。以下、Geminiを参考にして適当に日本語を当てた。
※ grosse toile bleue: 「青い亜麻布」
※ vareuse: 「船員の仕事着」
※ foulard: 「ネッカチーフ」
※ casquette à double fond mou: 「潰れた二重の底のキャスケット帽」

実のところ、その身なりは、ルコックより安心させる印象を全く与えないものだった。人里離れた場所でどちらに出会いたいかと問われたら、迷ってしまうだろう。 ≪37-14≫

彼の方では、その変身に満足している様子だった。慣れ親しんだ服を着て、より快適で自由を感じているように見えた。 ≪37-15≫

彼が周囲に走らせた視線には警戒の色が含まれていた。視界に入る人々の中から、自分を監視し、秘密を暴こうとしている者を見つけ出そうとしているようだった。 ≪37-16≫

しかし、彼はラシャの衣装を捨てたわけではなかった。平布に包んで、腕に抱えていた。彼は買ったのであって、交換したのではない。現金を使ったのであって、増やしたのではない。捨てたのはシルクハットだけだった。≪37-17≫
※ chapeau de soie à haute forme: 「シルクハット」

ルコックは、店に入って質問したかった。しかし、それは軽率だと気づいた。メが頭のキャスケット帽を深くかぶり直したのだ。その動作の意図は疑う余地がなかった。 ≪37-18≫

次の瞬間、彼はタンプル通りを駆け出した。本当の追跡劇が始まった。間もなく、猟犬二人は、鹿のように敏捷な獲物を視界に捉え続けるために、経験と嗅覚のすべてを駆使しなければならなくなった。 ≪37-19≫
※ limier: 警察の犬、という意味もあるようだ。後段の鹿の比喩や嗅覚という表現を活かして「猟犬」とした。

メは多分イギリスとドイツに暮らしていたのだろう。なぜなら、その国の言葉を現地人のように流暢に話したからだ。しかしそれだけでなく、彼は間違いなく、長年暮らす生粋のパリジャンと同じくらいパリを知り尽くしていた。 ≪37-20≫

それは、彼がためらいもなくグラヴィリエ通りへ飛び込んだ様子や、タンプル通りとボーブール通りに挟まれた、入り組んだ、奇妙に穿たれた小さな路地の迷路の中を、確かな足取りで駆け抜けた様子からも明らかだった。 ≪37-21≫
※ rue des Gravilliers
※ rue Beaubourg

ああ!彼はこの界隈を隅々まで知り尽くしており、人生の半分をここで過ごしてきたかのようだった。出入口が二つあって通り抜けられる家、特定の中庭を使えば出られる抜道、いくつもの通りに繋がっている長く曲がりくねった暗い回廊を熟知していた。 ≪37-22≫
※ les maisons à deux issues: (以下、未確認のGemini注釈) 当時のパリには、表通りから入って別の一画の裏通りへと抜けられる建物が数多くあり、犯罪者や逃走者の格好の隠れみのになっていた。

彼は二度、刑事たちを振り切るところだった。フレピヨン抜道では、彼の命運は紙一重のところだった。身を潜めた空の樽の後ろの暗がりで、あと一分間じっと動かなかったら、二人の捜査官は立ち去っていただろう。 ≪37-23≫
※ passage Frépillon: パサージュ・フレピヨン(旧称passage de la Marmite)とフレピヨン通りは、Saint-Martin-des-Champs地区(現在の第3区)に位置していた。1860年代のパリ改造事業の際、フレピヨン通りは吸収されて現在のrue Voltaを形成し、パサージュの方はrue Réaumurの開通とともに最終的に消滅した。

追跡は、とてつもなく困難になってきた。夜が訪れ、同時に、春の初めの晴れた日に必ず出る、かすかな霧が立ち込めた。街角のガス灯は、霧の中で赤く燃えていたが、周囲を十分に照らさなかった。 ≪37-24≫

さらに悪いことに、その頃はこの忙しい街路が最も混雑する時間帯なのだ。職人たちは作業場から出て来るし、主婦たちは夕食の買い出しに走って来る。あらゆる建物の前に、百人もの住人がいて、巣箱の周りに群がる蜜蜂のようにやかましかった。 ≪37-25≫

メは、自分を執拗に追う者たちを迷わすために、あらゆるものを利用した。人だかり、馬車の渋滞、道路工事、全てを利用し、驚くべき機転と稀有な手際で、誰にもぶつかることなく、誰からも文句を言われることなく、影のように人ごみをすり抜けていった。 ≪37-26≫

彼はついにグラヴィリエ通りを抜け、広い道路へと向かった。 ≪37-27≫

狭い範囲で詰められた後、広い空間での勝負を試みるのだろう。策略で戦ってきたが、今度は速度と持久力で戦うつもりだ。 ≪37-28≫

セバストポル大通りに着くと、彼は左折してセーヌ川の方に向かい、一気に加速した... ≪37-29≫

肘を体に密着させ、呼吸を保ち、体育の教官のような正確さで歩調を刻みながら、猛烈な速さで走り抜けた。 ≪37-30≫

止めるものは何もなかった。彼は振り返りもせず、走り続けた... ≪37-31≫

そして、乱れず一定の凄まじい調子のまま、セバストポル大通りを下り、シャトレ広場と橋々を渡り、サン・ミシェル大通りを駆け上がった。 ≪37-32≫
※ la place du Châtelet
※ le boulevard Saint-Michel

クリュニー美術館の近くには、数台の辻馬車が停まっていた。その一番前の列にメは立ち止まり、御者に何か言葉をかけ、車道側から乗り込んだ。 ≪37-33≫
※ musée de Cluny: 1832年12月、考古学者であり美術収集家でもあったAlexandre Du Sommerardはクリュニー館を購入し、そこに自らの大規模な中世およびルネサンス期の収蔵品を展示しました。彼が1842年に亡くなると、このコレクションはフランス国家が買い上げた。建物は1843年に博物館として一般公開され、Alexandreの息子Edmond Du Sommerardが初代館長を務めた。

辻馬車はすぐに物凄い勢いで走り出した。 ≪37-34≫

しかし、その中に被告はいなかった。彼は馬車の中を通り抜けただけで、前払いした架空の場所へと御者が走り去る間に、メは次に歩道側から別の馬車に乗り込むと、その馬車を全速力で停車場から出発させた。 ≪37-35≫
※ traverser: 最初「左から右に通り抜け」としたが付加しすぎだと思ってやめた。ルコックが追う方向(南向き)だと、クリュニー美術館は左側。歩道も左にある。

おそらく、数多くの策略と、多大な努力と、そしてこの最後の仕掛けにより、おそらくメは自分が自由になったと信じていたに違いない... だが違った。 ≪37-36≫

※ peut-être: 「おそらく」は原文でも繰り返されている。

彼を乗せた辻馬車の後ろに、板バネに身を預けて息を整えている男がいた… ルコックだ。 ≪37-37≫
※ s'appuyant aux ressorts pour se délasser: (左) Le Fiacre avant les pneus, Eugène Atget 1910 (右) 不詳 1860-1900

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※ 辻馬車の構造を見ると後ろにしがみつくのは難しそうなのだが…

一方、哀れなアプサント親父は、追跡半ばの司法宮の前で、疲れ果てて息も絶え絶えに脱落していた。若い刑事も、彼と合流するのは無理だろうと思っていた。矢印をチョークで描くことさえ出来なかったからだ。 ≪37-38≫

※ tombé à moitié chemin, devant le Palais-de-Justice:「司法宮の前」なのでセバストポル通りからシテ島に渡ってサン・ミッシェル通りに入る手前。アプサント親父は≪37-32≫でもう脱落していたのだ。

メは御者にイタリア広場まで行くよう指示し、さらに、広場のど真ん中で急停車するよう念を押した。そこは彼がシュパン後家とともに拘留されていた例の派出所から百歩離れたところだった。 ≪37-39≫

そこに着くと、彼は辻馬車から飛び降りた。そして周囲に素早く鋭い視線を送り、不審な影がないかを探した。 ≪37-40≫

何も見当たらなかった。若い刑事は、馬車の急停止に驚いたものの、車輪に轢かれる危険を冒して車体の下にうつ伏せになる時間があった。 ≪37-41≫

それでますます安心したのだろう。メは運賃を支払い、ムフェタール通りの方向へと足を向けた。 ≪37-42≫
※ rue Mouffetard

飛びあがるようにルコックは立ち上がり、骨に向かう猛犬のようにしつこく追跡した。外側大通りの巨木が落とす影に差し掛かったとき、抑えた口笛の音が耳に響いた。 ≪37-43≫

「アプサント親父!… 」彼は驚きと喜びで声を出した。 ≪37-44≫

「俺だよ」とおやじは答えた。「それに元気だぜ、あそこでボロ馬車に拾ってもらったからな。おかげでさ、あの... 」 ≪37-45≫
※ un sapin

「ああ!もういい!」ルコックは遮った。「もういい... 見張って」 ≪37-46≫

メは、明らかに決めかねる様子で、この界隈にある数多くの酒場をうろついていた。何かを探しているようだった。 ≪37-47≫

安酒場のうち三軒の窓に次々と顔を押し当てた後、四軒目でついに決心し、店に入っていった。 ≪37-48≫

ドアが閉まる前に、二人の刑事はガラス窓に張り付き、目を凝らして中を覗き込んだ。 ≪37-49≫

被告が店の中を横切り、一番奥のテーブルに座るのを見た。そこには、がっしりとした体格で、赤ら顔で、もみあげに白髪が交じった男が、すでに座っていた。 ≪37-50≫

「共犯者だ!… 」とアプサント親父は呟いた。 ≪37-51≫

※ 初出紙の連載第56回目(1868-7-22)の終わり

(つづく)
 
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ムッシュ連載54(第1部第36章の3)

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Rue de Saint-Quentin, Paris 撮影Hippolyte Blancard 1890年ごろ。


「ショールと帽子を身につけたら、出かけます!」 ≪36-115≫

ミルナー夫人は若い刑事にそう言った。 ≪36-116≫

四十歳を過ぎているが、未亡人で、金髪、そして、その地区の警察署長も認めるほど、まだとても魅力的だった... 彼女は、濃紺のベルベットの帽子のリボンを、無造作な感じで結ぶだけで十分以上もかけていた。 ≪36-117≫

ルコックは、漆喰の瓦礫のなかで、メが今にも到着するかと恐れ、背筋に冷や汗が走るのを感じた。 ≪36-118≫

自分はどれくらい奴の先を行ってるのか?... おそらく三十分、いやもっと短いかも!... なのに、まだやる事の半分しか終わっていない。 ≪36-119≫

ラファイエット通りからの人影が、サン・カンタン通りに出て来るたびに、彼はひやひやしていた。 ≪36-120≫
※ la rue Lafayette

やっと、この麗らかな春の日に、すっかり着飾った婀娜っぽい女将が姿を現した。 ≪36-121≫

身支度にかかった時間を挽回しようとしたのだろう。彼女はほとんど小走りで通りの端へと向かった。 ≪36-122≫

彼女が見えなくなると、若い刑事は隠れ場所から飛び出し、マリアンブールホテルに嵐のように駆け込んだ。 ≪36-123≫

バイエルン出身の小僧フリッツは、数時間の間、ホテルを一人で守るよう指示されていた。そして… 確かに守っていた。 ≪36-124≫

彼は女将の安楽椅子にゆったりと腰掛け、足を別の椅子の上に伸ばしていた。もうほとんど眠りかけていた。 ≪36-125≫

「起きろ!...」とルコックは叫んだ。「起きろ!」 ≪36-126≫

その声で、トランペットが鳴るのを聞いたみたいに、フリッツは仰天して飛び起きた。 ≪36-127≫

「見ろ」と若い刑事は身分証を見せながら続けた。「俺はパリ警視庁の捜査官だ… 厄介なことになるぞ。良くて監獄までお散歩だ。嫌なら、俺の言うことを聞け」 ≪36-128≫

確かな留守番の小僧は全身を震わせた。 ≪36-129≫

「従います… 」と彼は口ごもった… 「でも、何をすれば良いんですか?」 ≪36-130≫

「大したことじゃない。すぐに男が一人ここに現れる。黒い服に長い顎髭の奴だ。今から俺が言うことを、一言一句そのまま伝えろ。ヘマをしたら、ワザとじゃなくても、ただじゃおかないぞ」 ≪36-130≫

「任せてください、旦那」とフリッツは言った。「記憶力はとても良いんです...」 ≪36-132≫

刑務所行きというだけで、もうすっかり震え上がっている。彼は心の底からそう言っているように見えた。こうなれば何でも思いのままだ。 ≪36-133≫

ルコックはこの状況を利用して、コツを弁えた簡潔で明快な話し方で、ホテルの小僧にやってもらいたいことを説明した。 ≪36-134≫

しかも、金槌が板に釘を確実に打ち込むように、非常に頭が固い相手にも、こちらの意向を叩き込める口調で言ったのだ。 ≪36-135≫

説明を終えると、 ≪36-136≫

「さて」と彼は付け加えた。「目と耳で確かめたい!… どこか隠れるところは?」 ≪36-137≫

フリッツはガラス窓のついたドアを指さした。 ≪36-138≫

「捜査官殿、こちらの暗い小部屋なら」と彼は答えた。「ドアを少し開けておけば聞こえるし、ガラス越しに全て見えますよ」 ≪36-139≫
※ cabinet noir: 窓のない小部屋のことだろう。

ひとことも言わず、ルコックが部屋に飛び込むと、ホテルの玄関の鈴が訪問者の到着を告げた。 ≪36-140≫

メだった。 ≪36-141≫

「このホテルの女将に話がある」と彼は言った。 ≪36-142≫

「女将といいますと?」 ≪36-143≫

「六週間前、ここに泊まったときに、受け付けた女だ...」 ≪36-144≫

「わかりました」とフリッツが言葉を遮った。「会いたいと言うのはミルナー夫人ですね。でも遅すぎました。もうこの宿は彼女のものではないのです。先月、一財産築いたので、この宿を売り、故郷のアルザスへ帰ったんです」 ≪36-145≫

被告は足を踏み鳴らし、荷馬車が泥沼に嵌った時の御者も真っ青な悪態をついた。 ≪36-146≫
※ un juron à faire frémir un charretier embourbé: (以下、未確認のGemini注釈) 19世紀のフランス(やヨーロッパ)において、「荷馬車の御者(charretier)」、特に「泥沼に嵌まって動けなくなった御者」は、この世で最も下品で激しい罵詈雑言・呪いの言葉(juron)を吐く人々の代名詞だった。

「俺はあの女に文句があるんだよ」と言う。 ≪36-147≫

「では新しい主人を呼びましょうか?... 」 ≪36-148≫

隠れ場所から、若い刑事はフリッツの手際に感嘆せずにはいられなかった。完璧に純真な表情で、ぬけぬけと嘘をついている。そこはドイツ人が南欧の人々よりもはるかに優れている点だ。南欧人は、たとえ真実を話していても、嘘をついているように見えるのだ。 ≪36-149≫

「ふん!… 今の主人が来ても邪険にされるだけだ」とメは叫んだ。「俺が来たのは、一度も使ってない部屋に払った前金を返して欲しいからだ!」 ≪36-150≫

「前金は返金しない決まりです」 ≪36-151≫

被告は、不明瞭な脅し文句を唸った。「ぼったくり」と「訴える」という言葉が辛うじて聞き取れた。そして、ドアを乱暴に閉めて出て行った。 ≪36-152≫

「どうです!… 僕の対応は適切でしたよね?」とフリッツは、小部屋から出て来た若い捜査官に得意げに尋ねた。 ≪36-153≫

「ああ、完璧だ」とルコックは答えた… ≪36-154≫

だが彼は通路を塞いでいた少年を、強靱な腕でくるりと回して傍にどけ、メの後を追って飛び出していった。 ≪36-155≫

漠然とした不安が彼の喉を締めつけた。 ≪36-156≫

被告には驚きも動揺も全く無いように見えた。共犯者の忠実なしもべ、ミルナー夫人を頼りにホテルにやって来たのに、その女が去ったという知らせは、奴を恐怖に陥れるのが当然のはずだ。 ≪36-157≫

では 策略を見抜いたのか?... どうやって?... ≪36-158≫

普通に考えて、この件で被告は予め警戒するよう言われていたのだ、と確信した。そのため、ラファイエット通りでアプサント親父に追いついたルコックは最初に尋ねた。 ≪36-159≫

「メは途中で誰かと話してた?」≪36-160≫

「えっ!… 」とおやじは驚いて答えた。「よくわかったな」 ≪36-161≫

「ああ!… やっぱり!… 誰と話してたの?」 ≪36-162≫

「いやあ、べっぴんさんだよ!金髪でぽっちゃりした女だ」 ≪36-163≫

ルコックは怒りで顔が真っ青になった。 ≪36-164≫
※ vert de colère: フランス語の定番表現。 ⁠vert⁠(緑)は「怒りや嫉妬、憎しみで、胆汁がひっくり返ったようなおぞましい顔色」

「こん畜生!…」と彼は叫んだ。「運がなかった。 ミルナー夫人の所に先回りして、メが会えないように、口実を作ってあの女を家から追い出したのに、二人は出会ってしまった!」 ≪36-165≫

アプサント親父は絶望的な仕草を見せた。 ≪36-166≫
※ un geste désespéré: 頭を抱える、天を仰ぐ、などのジェスチャーか。

「ああ!… 知っていたら…!」と彼は言った。「でも、メが通行人と話さないようにしろ、とは言われてなかったから…」 ≪36-167≫

「気にすんなよ、先輩」と若い刑事は口を挟んだ。「不運はどうにも出来ないからね... 」 ≪36-168≫

自称旅芸人はモンマルトル周辺にたどり着いた。二人の治安局捜査官は話すのをやめ、人混みの中で見失わないように、歩みを速めて、相手との距離を詰めなければならなかった。 ≪36-169≫
※ faubourg Montmartre: 19世紀後半のこの時代には、非常に賑やかな繁華街・下町になっていた。

適切な距離を確保できると、 ≪36-170≫

「さて」とルコックが口を開いた。「詳細を聞かせてよ。二人が出会ったのはどこ?... 」 ≪36-171≫

「サン・カンタン通りのすぐ近くだ」 ≪36-172≫

「どっちが相手を見つけて近づいたの?」  ≪36-173≫

「メ」 ≪36-174≫

「女は何か言った?びっくりして叫んでた?」 ≪36-175≫

「二十五歩も離れてたので何も聞こえなかった。だがすっかり驚いている女の動きがよく見えた」 ≪36-176≫

ああ!ルコックが自分でその場面を目にしていたら、もっと貴重な情報が引き出せたのかもしれない! ≪36-177≫
※ inductions: 帰納法を強調すべき?と一瞬思ったが「情報を引き出す」に留めた。

「長く喋っていた?」と彼は続けた。 ≪36-178≫

「十五分の半分くらい」 ≪36-179≫
※ Moitié d'un quart-d'heure: 「七、八分」が自然だけど、ワザと直訳調。十五分単位は結構多い。

「ミルナー夫人がメに金を渡してたかわかる?」 ≪36-180≫

「どっちかな、よくわからん。もの凄い身振り手振りで、喧嘩してるみたいだったよ」 ≪36-181≫

「なるほど。監視されているとわかっていて、こちらを惑わすためにワザとそうしたんだろう… 」 ≪36-182≫

アプサント親父は、障害物の前で馬が止まるように、突然歩くのをやめた。ある考えが浮かんだのだ。 ≪36-183≫

「あの女将を逮捕して、聞いてみたらどうだ?… 」 ≪36-184≫

「意味ないよ!... セグミュラ殿だって十回はあの女に詰め寄り、質問攻めにしたけど何も引き出せなかった。ああ!曲者女め!… 今回聞いたって、メに会ったので十フランの前金を返せと言われたと答えるだけさ」≪36-185≫

若い刑事は諦めた仕草をした。 ≪36-186≫
※ un geste résigné: 両手を広げて肩をすくめる、が普通らしい。がっかりと息を吐く、もありか。

「覚悟を決めるしかない」と彼は続けた。「共犯者とまだ連絡がついていないとしても、間もなくそうなる。そうなれば、僕たちは非常に厄介な羽目に落ちいるだろう。桁外れに手強い二人の男が我々から逃れるためにどんな策略をひねり出してくるのか?僕には想像もつかない。一つ言えるのは、あいつらは絶対ありふれた手口なんか使わないよ!… 」 ≪36-187≫

ルコックの推測に、アプサント親父は身震いした。 ≪36-188≫

「うわっ!...」と彼は叫んだ。「あの野郎を再びぶち込むのが一番マシだな」 ≪36-189≫

「ダメだよ!...」と若い刑事は答えた。「絶対ダメだ!... 僕は奴の秘密を見破りたい、そして必ず見破ってやる。二人もいて男一人を<尾行(ツケ)>られなら、僕たちは一体何なんだ?あいつはお伽話の悪魔のように消えるのか。奴はどう動くだろう。もう計画も、そしてお金もあるんだ。間違いない。絶対どちらも持ってるよ、先輩。片手を賭けてもいい」 ≪36-190≫

その時、まるでルコックの疑問にわざわざ回答するかのように、被告はタバコ屋に入り、そして出てきた。口に葉巻をくわえて。 ≪36-191≫

※ 初出紙の連載第55回目(1868-7-21)の終わり

(つづく)
 
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ムッシュ連載53(第1部第36章の2)

The Théâtre de l'Odéon c.1830


ルコックが古着屋にいたのは五分足らず。だが、外に出てみると、メとアプサント親父は姿を消していた。 ≪36-58≫

しかし、彼は心配しなかった。 ≪36-59≫

パリを駆け巡るこの人狩り計画を、年上の同僚と練り上げたとき、若い刑事は、あらゆる障害を必死に想定し、あらかじめ解決策を考えていた。 ≪36-60≫

まさに今のような状況も考慮のうちだった。監視者二人のうち一人がその場に留まらざるを得なくなったら、もう一方は、昔話の「親指小僧」の冒険から拝借した手を使って、遅れた者が追いつけるように手配しなければならない。 ≪36-61≫
※ Petit-Poucet: ペロー版「親指小僧」(1697)には、森に捨てられた小僧が小石やパンを撒いて帰りの目印にする、というエピソードあり。グリム『ヘンゼルとグレーテル』中のエピソードと似たようなもの。

決めていたのは、メの追跡を続ける者が、一定の間隔を置いて壁や商店の雨戸にチョークで矢印を描く、というやり方だ。矢印の先が、人差し指で指すように、遅れて来る相棒に進むべき道を示すのだ。 ≪36-62≫
※ volets: 19世紀後半のパリの商店(devanture)は、木製や鉄製の「雨戸(volets)」を組み合わせて店を閉めるのが一般的。

つまり、ルコックが進むべき方向を知りたいときは、周辺の店先に目で尋ねるだけで良かった。 ≪36-63≫

確認は難しくもなく、時間もかからなかった。 ≪36-64≫

古着屋の三軒先の雨戸に、見事な矢印が描かれていて、その先端はサン・ジャック通りの上り側を指し示していた。 ≪36-65≫
※ le haut de la rue: (以下、未確認のGemini訳注) パリではセーヌ川から遠ざかり地形的に高くなる方向を指す。反対語はle bas de la rue.

若い刑事はその方向に駆け出した。 ≪36-66≫

彼は先を急いでいた。不安で胸が掻きむしられていた。 ≪36-67≫

ああ!朝にはあれほど自信があったのに、先程、手ひどい一撃を喰らったのだ! ≪36-68≫

古着屋の証言は、なんと恐ろしい警告だったことか!… ≪36-69≫

というより、既に確かな事実だった。殺人犯の、あの謎めいた捕まえどころのない共犯者は、起こりえないような脱獄についてさえ、用意周到、救出の手だてまで考えていたのだ。 ≪36-70≫

あの男の洞察力は、細部まで見通しており、催眠千里眼の奇跡を遥かに超えるものだった。 ≪36-71≫
※ somnambules lucides: (以下、未確認のGemini訳注) 19世紀当時、催眠術(メスメリズム)のトランス状態で、過去や未来、遠く離れた場所のことを見通すことができるとされた「千里眼(透視能力)を持つ霊媒師・催眠被術者」のこと。

「小包には何が入っていたのだろう?」とルコックは考えた。「衣服… 間違いなく変装用のもの。現金、偽の書類、偽造パスポート?… 」 ≪36-72≫
※ passe-port: (以下、未確認のGemini訳注) 19世紀のフランス(特に第二帝政期〜第三共和政初期)では、パスポートは海外だけでなく、国内の別の町へ移動する時にも原則として義務付けられていた。「国内パスポート(passe-port à l'intérieur)」と呼ばれ、労働者や一般市民が別の都市へ移動して仕事を探したり旅をしたりする際、警察の検問や宿屋でこのパスポートを提示する必要があった。持っていないと「不審者」や「浮浪者」としてその場で逮捕されかねなかった。

スフロ通りに差し掛かったところで、いったん足を止め、壁に尋ねて方向を確認した。 ≪36-73≫
※ rue Soufflot

ほんの一瞬で済んだ。小さな時計屋の戸口に描かれた、長い矢印がサン・ミシェル大通りを指していた。 ≪36-74≫
※ boulevard Saint-Michel

若い刑事はまた駆け出した。 ≪36-75≫

「共犯者の古着屋での仕掛けは失敗した」とルコックは続けた。「だが、一度の失敗で諦める男ではない… きっと別の手を打っている。どうやって見抜いて裏をかけばいいのか!… 」 ≪36-76≫

被告はサン・ミシェル大通りを横切って、ムッシュー・ル・プランス通りに入ったようだ。アプサント親父の矢印は雄弁だった。 ≪36-77≫
※ rue Monsieur-le-Prince

ルコックはムッシュー・ル・プランス通りを道なりに進んだ。 ≪36-78≫

「だがさっきの様子で安心出来た」と彼は呟いた。「古着屋から出た時のメのふらつき、自分に渡すものが無いと知ったときの奴の狼狽。今後の手筈を奴に伝えた共犯者は、それが失敗に終わったことまでは報せようがなかった。つまり、今や、あの被告は自分の力だけが頼りなんだ... 共犯者との共謀の鎖は断ち切られ、粉々に砕けた。二人で事前に打ち合わせたことは、もう残っていないのだ。策定済みの作戦も、今後の計画もない... だから二人が再び接触するのを阻止すればいい。それが全てだ!」 ≪36-79≫

あらかじめ、メを監獄から別の刑務所に移しておいて本当に良かった。もし彼が勝負に勝てるとしたら、その勝利は不信感が生んだ予防策の結果にほかならない。共犯者があの手配を試みたのは、被告が刑務所を移される前日のことだったのだろう。そう推測すれば、なぜ彼に失敗を知らせられなかったかが説明出来る... ≪36-80≫

矢印から矢印へと追ううちに、若い刑事はオデオン劇場までやってきた。もう印(しるし)はなかったが、回廊の下にいるアプサント親父の姿を見つけた。 ≪36-81≫
※ l'Odéon

年配の治安局捜査官は、本屋の陳列壁の前に立って、絵入り新聞の挿絵にすっかり見入っているようだった。 ≪36-82≫
※ l'étalage d'un libraire: 本屋のショーウィンドウが適訳か。だが英語はあんまり使いたくない。

※こんなイメージではないかなあ。撮影年代不詳。

若い刑事は、着ている衣装にふさわしく、パリの悪ガキたちのダラダラとした歩き方を大袈裟に真似て、同僚のそばに近づいた。 ≪36-83≫

「どうだい!… 」と彼は尋ねた。「で、メは?」 ≪36-84≫

「あそこだ」とおやじは、うらぶれた劇場の柱廊を目で示した。 ≪36-85≫

実際、被告は石の階段に座り、膝に肘をついて、顔を両手で覆っていた。自分の絶望の表情を通行人から隠さねばならないと思い詰めているようだった。 ≪36-86≫

間違いなく、この瞬間、自分はすっかり手詰まりだ、と悟っていたのだろう。パリのど真ん中で、一文無しで、一人きり。これからどうすればいい? ≪36-87≫

彼は自分が間違いなく監視され、探られ、一歩一歩尾行されていることを自覚していた。共犯者に連絡を取ろうとするわずかな動き、消息を知らせようと少しでも行動すれば、そこから秘密が露見するだろうと、痛いほどわかっていた。その秘密は、彼にとって命より貴重であり、これまで大きな犠牲を払いながらも、驚異的な活力と冷静さによって、何とか守ってきたのだ。≪36-88≫

非常に不幸なこの男に、今まで彼は敬意を抱き、賞賛せずにはいられなかった。長い間黙って男を見つめていたが、やがてルコックは年上の相棒の方を振り向いた。 ≪36-89≫

「被告は」と彼は尋ねた。「ここに来るまで、何をしてた?」 ≪36-90≫

「五軒の古着屋に入ったが、まったくの無駄さ。絶望的になって、通りかかった『古着回収』に声をかけた。古いぼろ服を肩に担いでいるやつだったが、結局、折り合いはつかなかったよ」 ≪36-91≫
※ chineur: 19世紀パリで、家庭を回って古い衣服やガラクタを買い集めたり交換したりする移動式の「古着回収・物乞い業者(屑屋に近い)」を指す。

ルコックは首を振った。≪36-92≫

「アプサント親父、この話の教訓は」と彼は言った。「理論と実践の間には深い溝があるということだ。 最も経験豊富な連中も、この被告を哀れな男、下賤な旅芸人だと思い込んでいた。奴が自分の人生の不運や災難を巧みに語ってみせたもんだからね... だがいざ外に出て自由になったとたん、この自称ボヘミアンは、自分が着ている服をどうやって金に換えたら良いか、まったくわからない。舞台上で幻影を見せた役者は消え去り、生身の男が残った… ずっと裕福だったから、世間を何一つ知らない男が!… 」 ≪36-93≫

言葉はそれ以上続かなかった。メが立ち上がったのだ。 ≪36-94≫

ルコックはそこから十歩も離れておらず、細かいところまで男を観察できた。 ≪36-95≫

不運な男は死人のように青ざめ、態度から深い落胆が伝わってきた。目から迷いが読み取れた。 ≪36-96≫

おそらく男は、逃亡の際に頼りにしていた方策が絶たれた今、自ら獄卒の手に身を委ねたほうが賢明なのではないか、と考えているのだろう。 ≪36-97≫

しかし、全身を侵していたこの麻痺状態を、彼は振り払った。目には鋭い光が戻り、威嚇と挑戦を込めた仕草をした後、オデオン劇場の階段を降り、広場を横切って、アンシエンヌ=コメディ通りに入った。 ≪36-98≫
※ rue de l'Ancienne-Comédie

今や足取りは力強く、明確な目標を持つ男の歩みだった。 ≪36-99≫

「いったいどこに行くんだ?… 」とルコックの横で必死に足を動かすアプサント親父が呟いた。 ≪36-100≫

「僕は知ってる!」と、若い刑事は答えた。「その証拠に、僕はこれからあんたから離れ、奴に食わせる一皿を用意しに行くよ。しかし、僕が間違ってるかもしれない。全てに備えるために、あんたは行く先々で矢印を残しておいてくれ。もし、この男が僕の予想するマリアンブールホテルへ向かわなかったら、僕はここに戻ってあんたの後を追うよ」 ≪36-101≫

空の辻馬車が並足で通りかかった。彼は馬車に乗り込み、御者に、最短経路で、大急ぎで北駅まで連れて行くよう命じた。 ≪36-102≫

自分の芝居の準備には、時間ギリギリだと自覚していた。そのため、馬車が走っている途中で、御者に代金を支払い、セグミュラ殿から託された書類の中から、必要なものを探した。 ≪36-103≫

鉄道駅の正面に着くと、馬車が止まりきる前に、ルコックは飛び降りた。そのまま一気にホテルまで走った。 ≪36-104≫

最初の時と同じように、金髪のミルナー夫人が、ムクドリの籠の前の椅子に上がって、ドイツ語の同じ文句をしつこく教え込んでいた。鳥も同じようにしつこく「カミーユ!… カミーユはどこ?」と答えていた。 ≪36-105≫

ホテルに入ってきたのは悪ガキだと知ったので、美しい未亡人はわざわざ椅子から降りて応対しようとはしなかった。 ≪36-106≫

「何の用?」彼女はあまり歓迎しない口調で尋ねた。 ≪36-107≫

ルコックは、自分のひどい身なりを態度で補おうと、できる限りきちんとお辞儀をした。 ≪36-108≫

「奥様、僕は」と彼は答えた。「司法宮の執達吏の甥なのです。さっき、仕事が無いので、叔父を訪ねたところ、叔父はリウマチで身動き出来ない状態でした。そこで、代わりにこの書類を届けてくれと頼まれたのです… 大至急、予審判事のもとに出頭せよとの召喚状です」≪36-109≫

この言葉には、ミルナー夫人を椅子から離れさせる効果があった。彼女は書類を受け取り、目を走らせた… そこには間違いなく、この風変わりな使者が告げたことが書いてあった。 ≪36-110≫

「そうかい」と彼女は答えた。「ショールを肩にかけてから、行くよ…」 ≪36-111≫

ルコックは、わざとらしい笑顔を作り、お辞儀を繰り返しながら後ずさりで退出した… しかし、敷居を越えるやいなや、心の底からの満足感を示すニヤケ顔になった。 ≪36-112≫

金髪の未亡人に、同じ手口で借りを返してやった。彼女が騙したから、彼も彼女を手玉に取ったのだ。 ≪36-113≫

罠は仕掛けられた。彼は道路を渡り、サン・カンタン通りの角にある工事中の家を見つけると、そこに隠れて待つことにした… ≪36-114≫

※ 初出紙の連載第54回目(1868-7-20)の終わり

(つづく)
 
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バイブ翻訳: グラミチさんの引用

紙の本で引用を調べるのは大変じゃった… と古老はいうのだった

aiちゃんは引用を教えてくれるかな?
これ、興味があったけど、実験したことがなかったよ。
最近、ハマってるグラディス・ミッチェル『ウォンドルズ・パーヴァの謎』(原題The Mystery of the Butcher's Shop 1929)に良い例文があったので、試してみよう。
以下、いつものようにaiちゃんの回答は削除なし、修正なし。

【例文1】Gladys Mitchell "The Mystery of the Butcher's Shop" (1929) 
フェリシティはジムとオーブリーが争っているような音を聞く。部屋に行くとオーブリーしかいない。
翻訳と解説お願い。
‘Where’s Jimsey?’ asked Felicity, surprised. Aubrey carefully closed the French windows before giving her any answer. ‘Gone to bed,’ he replied laconically. ‘Who were you shouting at just now?’ ‘Me?’ ‘Don’t be silly! Who was being unkind to you?’ ‘No one, dear child. I am the rose of Sharon and the lily of the valley. Nobody is ever unkind to me.’ Felicity stamped impatiently. ‘Naughty,’ said Aubrey, unperturbed. He bent and picked up the spade, which was lying across the splintered top of a small occasional table.

Gemini(無課金)】(太字強調は私)
アガサ・クリスティやドロシー・L・セイヤーズと並ぶ、英国ミステリ黄金期の作家グラディス・ミッチェル。その記念すべきデビュー作『肉屋の店外の謎(別題:肉屋の恐怖)』の一場面ですね。
まずはご提示いただいた場面の翻訳をお届けします。
### 【翻訳】
「ジムジーはどこ?」フェリシティは驚いて尋ねた。
オーブリーはすぐに答えず、慎重にフランス窓(テラスに続くガラス扉)を閉めた。
「寝たよ」彼はぶっきらぼうに答えた。
「さっき、誰に向かって怒鳴っていたの?」
「僕が?」
「とぼけないで! 誰にひどいことを言われていたの?」
「誰も。ねえ、お嬢さん、僕は『シャロンのばら、谷のゆり』さ。僕にひどいことをする人間なんて誰もいないよ」
フェリシティはもどかしそうに足を踏鳴らした。
「お行儀が悪いね」オーブリーは平然と言った。彼は腰をかがめ、小さな飾りテーブルの砕けた天板の上に横たわっていたショベルを拾い上げた。
### 【解説:この場面のポイント】
この短いやり取りには、ミステリとしての「怪しい伏線」と、オーブリーという人物の「異質なキャラクター性」がぎゅっと詰まっています。
#### 1. 緊迫した状況を隠す「嘘」と「ショベル」
ジムと激しく争っていたはずなのに、オーブリーは「(ジムは)寝たよ」と平然と嘘をつきます。しかし、部屋の状況はその言葉と完全に矛盾しています。
 * **フランス窓を慎重に閉める:** 外にいる(あるいは逃げた、連れ出された)ジムの存在を隠そうとする隠蔽工作の動きです。
 * **砕けたテーブルとショベル:** 部屋の中に「ショベル(あるいはシャベル)」があり、テーブルが粉々に砕けている。これは明らかに、さっきまでここで**ショベルを武器にした激しい暴力沙汰(あるいは殺傷行為)**があったことを示しています。
#### 2. オーブリーの不気味なキャラクターと引用
フェリシティに問い詰められたオーブリーは、動じるどころか、旧約聖書『雅歌(がか)』第2章1節の有名な一節を引用します。
> *「私はシャロンのばら、谷のゆり」*

本来は美しさや純潔さ、あるいは神の愛を象徴する非常に詩的で優雅な言葉です。これを、**部屋を破壊し、おそらく直前に誰かを殴り倒した(あるいは埋めに行こうとした)直後の男が口にする**というギャップが、彼の精神的な不気味さや、どこか現実離れした冷徹さを引き立てています。
ジムジー(ジム)の身に何が起きたのか、そしてなぜ部屋に土を掘るためのショベルがあるのか――読者に「一刻も早くこの先を読みたい!」と思わせる、グラディス・ミッチェルらしい不穏で引き込まれるサスペンスシーンです。

【私のいちゃもん】
言わんでも良いことを付加して、結局間違える。ジェミ公の悪癖がモロに出ている。
1. デビュー作じゃない。
2. オーブリーは殴る側じゃないのに勝手に話を進める。
3. 勝手に不気味、冷徹と囃し立てる。
引用はちゃんと理解して、教えてくれるね。

 

【例文2】Gladys Mitchell "The Mystery of the Butcher's Shop" (1929) 
寝る時間。母親ハリンゲー夫人と息子オーブリー(15歳)の会話。
翻訳と解説お願い。
At the top of the stairs, Mrs Bryce Harringay paused. ‘Good night, Aubrey dear. Now do try to be down in time for breakfast to-morrow morning. Remember – “Punctuality is the politeness of princes.” So charming of them, I always think. So you will make a special effort, won’t you?’ ‘Righto. Good night, mater. Sleep well. Oh, do you want me to come and goggle under the bed for you?’ ‘Well –’ said Mrs Bryce Harringay hesitatingly. It was a strong woman’s one weakness, this fear of burglars under the bed. ‘Righto,’ said Aubrey good-naturedly. He preceded her into the room and switched on the electric light, for the wealthy Rupert possessed his own electric plant and paid his own electrician to look after it. Having looked solemnly under his mother’s bed, Aubrey stepped across to the window and, pulling back the edge of the blind which Mrs Bryce Harringay’s maid had already drawn down, he peered out.

Grok(月5000円課金ちゅう)】(太字強調は私)
日本語翻訳
階段のてっぺんで、ブライス・ハリンゲー夫人は足を止めた。 「今夜はこれでおしまいね、オーブリー dear(愛しい子)。明日の朝食にはちゃんと時間通りに降りてきてね。忘れないで——『時間厳守は王子の礼儀である』って言うでしょう。あの言葉、いつも素敵だと思うの。あなた、特別に頑張ってくれるわよね?」
「わかったよ。おやすみ、mater(母上)。よく眠ってね。ああ、ベッドの下を覗いてあげようか?」
「ええと——」とブライス・ハリンゲー夫人はためらいながら言った。 強気な女性の唯一の弱点、それがベッドの下に強盗が潜んでいるのではないかという恐怖だった。
「わかった」とオーブリーは気さくに言った。彼は母親より先に入室し、電気のスイッチを入れた。この裕福なルパート(父親)は自家発電設備を持っており、専属の電気技師を雇って管理させていた。
母親のベッドの下を真面目な顔で丁寧に覗き込んだ後、オーブリーは窓のところへ歩いて行き、すでにメイドが下ろしておいたブラインドの端を少しめくって、外をじっと見つめた。

解説
1. 場面の雰囲気
これは典型的な1920年代後半の英国上流中産階級の家庭の日常を描いた軽妙なシーンです。Gladys Mitchell(グラディス・ミッチェル)は、当時のイギリスミステリの黄金期に活躍した女性作家で、ユーモアと風刺を交えながらも、しっかりした推理を展開する作風で知られています。
この場面はミステリの導入部で、コミカルで愛情あふれる母子関係を強調しています。殺人事件(肉屋の店での謎)が起きる前の、日常の穏やかな夜の描写です。
2. 登場人物の性格
    •    Mrs. Bryce Harringay(母親) 典型的な「強がりだけど可愛い弱点を持つ」上流階級の夫人。 「Punctuality is the politeness of princes.(時間厳守は王子の礼儀である)」という格言を好んで引用する、少し気取った教養のある母親です。しかし、ベッドの下の強盗を本気で怖がるという人間らしい弱さを見せ、読者に親しみを持たせています。
    •    Aubrey(オーブリー、15歳) 思春期の少年らしい、素直で面倒見の良い好青年。 「mater(母上)」という古風で上品な呼び方を使いながらも、非常に気さくで実践的(ベッドの下を覗く、窓の外を確認する)。母親をからかいながらもちゃんと面倒を見る、愛すべき息子です。
3. 当時の社会・時代背景
    •    自家発電設備:1929年時点では、まだ地方の大きな屋敷でしか一般的ではなかった贅沢品。自家用発電機を持っている描写は、ハリンゲー家がかなりの富裕層であることを示しています。
    •    メイドがブラインドを下ろす:使用人が当然のようにいる上流家庭の生活様式。
    •    「goggle under the bed」:当時の典型的な「強盗恐怖症」をコミカルに描いた表現。「goggle」は「目を丸くして覗く」という少しユーモラスな言い回しです。
4. ミッチェルらしいユーモア
この作家は、キャラクターのちょっとした癖や弱点を愛情たっぷりに描くのが上手いです。この短い会話だけで、母親の「気取り屋だけど怖がり」という可愛らしさと、息子の優しさと現実的な性格が生き生きと浮かび上がります。後の本格的なミステリ展開との温度差も効果的です。
このシーンは、事件が起きた後の緊張感と対比させるための、日常の温かさを演出する役割も果たしています。

必要であれば、この後の続きの翻訳や、さらに詳しいキャラクター分析などもお手伝いします! おやすみなさい(寝る時間とのことなので)。😊

【私のいちゃもん】
勝手にルパート(おじ)を父親認定する。グロ公もやり過ぎが多い。
格言の元ネタに踏み込まないのが不満。あとは妥当だね。

 

【例文3】Gladys Mitchell "The Mystery of the Butcher's Shop" (1929) 
フェリシティはオーブリーにパーティの客をもてなしてよ、と言う。オーブリーの返事。
翻訳と解説お願い。
‘Your guests are all right,’ said Aubrey, with youthful optimism. ‘The major is still clinging tight to lovely Lulu – no, honestly, though, talk about “the face that launched a thousand ships” – she is a glorious kid, isn’t she? Young, too, you know. Not more than eighteen. Can’t be. She is bucked at having the old lad on her hands all the afternoon! And the mater is busy having a row with old Jim, and Mrs Bradley is hobnobbing with the doctor, and Margery has gone home to feed her rabbits, but she’s coming back immediately, and I – here am I!’ He put his black head on one side and smiled at her.

ChatGPT(無課金)】
「お客さんたちは大丈夫だよ」と、若者らしい楽観ぶりでオーブリーは言った。
「少佐はまだルルっていう可愛い子にぴったり張りついてる――いや、ほんとさ、“千隻の船を進水させた顔”って言うけど、あの子はすごい美人だよな? しかも若いんだ、ほんとに。せいぜい十八ってとこだよ。絶対それ以上には見えない。午後じゅう、あの老いぼれを押しつけられてるのを、むしろ面白がってるくらいさ! それから、ママはジムのおやじと口論中だし、ブラッドリー夫人は医者とよろしくやってるし、マージェリーはウサギに餌をやりに帰ったけど、すぐ戻って来るって。そして――ぼく? ほら、ご覧のとおり、ここにおります!」

そう言って彼は黒い頭をちょっと傾け、彼女に笑いかけた。

ポイントはいくつかある。

まず

“the face that launched a thousand ships”

はもちろん Helen of Troy のこと。
「絶世の美女」の決まり文句で、元はマーロウの『フォースタス博士』の有名な一節。

だからオーブリーは、ルルを見て「ヘレン級の美人じゃないか」と軽薄に持ち上げている。

次に、1920年代英国らしい俗語。

* bucked
    「喜んでる」「得意になってる」。
    ここでは、
    the old lad on her hands all the afternoon
    (午後じゅう老人の相手をさせられてる)
    にもかかわらず、ルルはむしろ楽しんでいる、というニュアンス。
* the old lad
    「あの年寄り」「あのおっさん」。
    少佐を軽く茶化している。
* mater
    パブリックスクール〜大学生っぽい俗語で「母親」。
    ラテン語 mater から来た上流青年語。
* having a row
    「口論している」。
* hobnobbing with
    「親しげに歓談している」「よろしくやってる」。
    少し皮肉っぽい。

最後の

and I – here am I!

は、かなり芝居がかった軽口。

「そしてぼくは?――ご覧の通り、ちゃんとここに控えてます!」

みたいな、女性相手に愛嬌を振りまく若い男の調子。
続く

He put his black head on one side
も、「子犬みたいに首をかしげて愛想を見せる」感じで、オーブリーの軽薄で魅力的な青年像を出している。

【私のいちゃもん】
チャッピー良いじゃん。
合ってるかどうかは不明だが、ニュアンス面を細かく解説してる。
引用も無難にこなしてるよ。素晴らしい。
鵜呑みにせずに、英英辞典を引いてニュアンスを確認するだけで十分使える下訳だね。

---

最近、イチオシのClaudeはどうかな?
例文1から例文3まで、続けて提示した。

Claude(無課金)例文1】
翻訳

「ジムジーはどこ?」フェリシティは不思議そうに訊いた。オーブリーは答える前に、慎重にフランス窓を閉めた。「寝た」と、彼はそっけなく答えた。「さっき、誰に向かって怒鳴ってたの?」「僕が?」「ばかなこと言わないで! 誰があなたをいじめてたの?」「誰も、ねえちゃん。僕はシャロンのばら、谷のゆりだよ。誰も僕をいじめたりしない」。フェリシティは苛立たしげに足を踏み鳴らした。「行儀が悪い」と、オーブリーは動じることなく言った。彼はかがんで、小ぶりのオケージョナルテーブルの割れた天板の上に横たわっていたスペードを拾い上げた。

解説

“Jimsey”

ジムの愛称・幼児語的な呼び方。姉妹間で使う砕けた呼び名。「ジムジー」と表記しましたが「ジムジ」「ジムシー」などの選択肢もあります。

“laconically”

「ぶっきらぼうに」「素っ気なく」。ただ短く答えるだけでなく、意図的に情報を絞っているニュアンスが含まれます。この場面の伏線として重要な副詞です。

“I am the rose of Sharon and the lily of the valley”

『雅歌』(Song of Solomon)2章1節からの引用。

“I am the rose of Sharon, and the lily of the valleys.”(欽定訳聖書)

日本語訳では「わたしはシャロンのばら、谷のゆり」(口語訳)。オーブリーが自分を無垢で美しく、誰からも愛される存在として気取って言い張っている、明らかに白々しいレトリック。フェリシティの追及をはぐらかすための道化ぶりです。

聖書の文脈では女性の声ですが、オーブリーがそれを男性である自分に適用しているのも、わざとらしい道化として機能しています。訳文では原典の雰囲気を残しつつ、読者が聖書の言葉と認識できるよう、既存の邦訳(「シャロンのばら、谷のゆり」)をそのまま流用しました。

“No one, dear child”

“dear child”は日本語では難しい表現で、年長者や保護者が子供に使う言い方ですが、ここではフェリシティへの軽くあしらうような、半ばからかいの口調です。姉に対して使っているとすれば少々生意気な含みも。「ねえちゃん」は少し崩しすぎかもしれませんが、この揶揄のトーンを出すための訳です。別案として「お嬢さん」「きみ」などもあり得ます。

“Naughty”

足踏みした行為を子供扱いして咎めている一言。フェリシティへの揶揄を続けつつ、話題をそらす機能も果たしています。

“occasional table”

四本脚の小ぶりな多目的テーブル。英国の室内家具の定番で、応接間などに置かれる装飾的・補助的な小テーブルです。「オケージョナルテーブル」はカタカナのまま通用しますが、訳注として「小卓(こたく)」「サイドテーブル」なども選択肢です。

天板が割れていること、スペードが床に落ちていること

この二点が最大の手がかりです。フェリシティが「誰かと争っていた」と思った物音の痕跡であり、ジムジーの「寝た」という説明と明らかに矛盾する。オーブリーが何事もなかったように振る舞いながら、さりげなくスペードを拾い上げる動作に不穏さが凝縮されています。ミッチェルらしい、説明せずに証拠だけを並べる叙述です。

Claude(無課金)例文2】
翻訳

階段の上で、ブライス・ハリンゲー夫人は足を止めた。「おやすみ、オーブリー。明日の朝は朝食に間に合うよう、ちゃんと下りてきてちょうだい。いつも言うでしょう――『時間を守ることは王侯の礼節』って。本当に素敵な言葉だと思わない? だから、特別に頑張ってみてね?」「了解。おやすみ、おかあさん。ゆっくり休んで。あ、ベッドの下を覗いてあげようか?」「そうね――」とブライス・ハリンゲー夫人はためらいがちに言った。ベッドの下の泥棒が怖い――それが、この気丈な女性の唯一の弱点だった。「任せといて」とオーブリーは気さくに言った。彼は母より先に部屋へ入り、電灯をつけた――裕福なルパートは自家発電装置を持ち、専属の電気技師を雇って管理させていたのだ。母のベッドの下を厳かな顔で覗き込んでから、オーブリーは窓の方へ歩み寄り、ハリンゲー夫人の侍女がすでに下ろしていたブラインドの端を引き戻して、外を覗いた。

解説

“Punctuality is the politeness of princes”

ルイ18世に帰せられるフランスの格言 “L’exactitude est la politesse des rois” の英訳。「時間厳守は王たちの礼節」が直訳ですが、英語圏では “princes” 版も流通していました。ハリンゲー夫人が「素敵な言葉」と感心しているのは、格言の出典を知らず(あるいは深く考えず)、言葉の響きだけで満足しているという上流気取りの自己満足を軽くからかうミッチェルの筆です。

“So charming of them, I always think”

「them」は “princes”(王侯たち)を受けています。「王侯方が時間を守ってくださるなんて、本当に素敵だこと」という意味で、格言を文字通りに受け取って王侯を褒めているという、夫人のおっとりとしたおかしみが出ています。

“mater”

ラテン語で「母」。パブリックスクールの男子生徒が使う典型的な俗語で、“pater”(父)と対をなします。15歳のオーブリーが使うのはいかにも当時の上流家庭の少年らしく、日本語では「おかあさん」と訳しましたが、「おかあさま」や「母上」の方が雰囲気が出るかもしれません。作品全体での敬語トーンに合わせてご調整ください。

“goggle under the bed”

“goggle” は目を見開いてじろじろ見ること。「ベッドの下をぎょろっと覗く」という意味で、オーブリーが自分の行動を少々おどけて表現しています。翻訳では「覗いてあげようか」と平易にしましたが、「覗き込んであげようか」「目ん玉かっぽじって見てあげようか」など、おどけた語感を足す余地があります。

“It was a strong woman’s one weakness”

語り手による軽妙な地の文コメント。「気丈な女性の唯一の弱点」という構造は、古典的なユーモア技法(大仰な前置きで小さな恐怖を提示する)です。ミッチェルの語り手が登場人物を愛情を込めてからかうときの典型的な筆致。

“He preceded her into the room”

「母より先に部屋へ入った」。年少者が先行するのは通常は無作法ですが、ここではベッドの下を確認するという保護の役割を担っているため自然な流れ。この小さな仕草がオーブリーのキャラクターを端的に示しています。

自家発電装置

1929年当時、地方の邸宅では電力会社の供給が不安定または未整備な地域もあり、裕福な家庭が自前の発電機を持つことは珍しくありませんでした。ルパート(夫人の夫?兄弟?)の財力の描写として機能しつつ、後の場面で電灯の有無が伏線になる可能性も否定できません。

ブラインドを引き戻して外を覗く

前の場面のスペードと割れたテーブル、そしてジムジーの不在に続く三つ目の不穏な行動。オーブリーは母の前でもまだ「外」を気にしている。何かを確認しているのか、あるいは誰かの様子を窺っているのか――ミッチェルはここでも説明せず、動作だけを積み上げます。

Claude(無課金)例文3】
翻訳

「お客さんたちは大丈夫だよ」とオーブリーは若者らしい楽観で言った。「メジャーはまだしっかりきれいなルルにくっついてるし――いや、正直、『千艘の船を動かした顔』って言うじゃない――彼女、すごい美人だよね? 若いしさ。十八以上じゃないよ、絶対。午後ずっとあのおじさんの相手をさせられて、さぞかし嬉しいでしょうよ! で、お母さんはジムおじさんとやりあってるし、ブラドリー夫人はドクターとおしゃべり中だし、マージェリーはウサギに餌をやりに一度帰ったけどすぐ戻ってくるし、そして僕は――ここにいるよ!」彼は黒い頭を傾けて、フェリシティに向かってにっこり笑った。

解説

“the face that launched a thousand ships”

マーロウ『フォースタス博士』(1592年頃)の有名な一節。ヘレネーを指す台詞です。

“Was this the face that launch’d a thousand ships / And burnt the topless towers of Ilium?”

オーブリーが15歳でこれをさらりと引用するのは、パブリックスクール教育の産物であると同時に、少年らしい色気づきを古典的修辞で着飾っているおかしみがあります。「千艘の船を動かした顔」という訳は原典の響きを残しつつ日本語として通じる落としどころかと思いますが、訳注を添えてもよい箇所です。

“the major”

“major” は陸軍少佐。英国の地方社交界では軍の肩書きを持つ人物が頻繁に登場します。固有名詞ではなく称号なので「メジャー」とカタカナにするか「少佐」と訳すか迷うところですが、オーブリーが親しみを込めて(やや揶揄気味に)使っているニュアンスから、ここでは「メジャー」としました。

“the old lad”

少佐を指すくだけた表現。“old” は年齢というより親しみ・揶揄の両方を含む英国的用法で、「あのおじさん」としましたが「あのご老体」「おじさま」なども候補です。

“She is bucked at having the old lad on her hands all the afternoon”

“bucked” は俗語で「嬉しい、元気が出た」という意味。ただしここはオーブリーの明らかな皮肉で、「午後ずっとあのおじさんの相手をさせられて、さぞご満悦でしょう」という逆説的な言い方です。ルルが少佐を持て余しているのを面白がっている。

“having a row with old Jim”

“row” は口論・言い争い。前の場面でジムジーが「寝た」とオーブリーが嘘をついていたことを考えると、ここで母がジムと「やりあっている」という描写は読者への静かな引っ掛かりとして機能します。

“Mrs Bradley”

言わずと知れたこのシリーズの探偵役、ブラドリー夫人。パーティの客として自然に溶け込んでいる描写で、まだ「探偵」として前景化していない段階です。

“He put his black head on one side”

黒髪であることが明示されます。「頭を傾ける」という仕草は愛嬌を演じるときの典型的な動作で、前の場面からずっとオーブリーが何かを隠しながら魅力で場を制御している構図が続いています。この笑顔の裏に何があるのか、という緊張感がここでも静かに維持されています。

どれも非常に良い感じ。
buckの解説はチャッピーと違うけど、くろーちゃんの方が本当っぽい。
うーん。やっぱりClaudeを信用しちゃうなあ…

さて、結論だ。

引用はどのAIもそつなくこなしてくれる。まあどれも初歩レベルの引用なんだけど、翻訳で恥ずかしいのは初歩レベルの引用に気づかないで流しちゃうこと。

そういう点で、AIは役に立つ下訳者と言えるだろう。

まあでもくろーちゃんもヘンテコになる時があるんだよ。
だから鵜呑みにせず、ちゃんと確認しながら使おうね。

ムッシュ連載52(第1部第36章の1)

Rue Saint Jacques, du boulevard Saint Germain. Paris Ve. 1866. 撮影Charles Marville

 

XXXVI

 

ルコックはやっと息がつけた。 ≪36-1≫

それまで彼は、何か些細なことを忘れたか、見逃していて、歯車がすっかり狂ってしまったのではないか、と必死に記憶を探っていたのだ。 ≪36-2≫

謎めいた被告が、あつらえられた危なっかしい自由を拒んだのではないかとさえ疑いはじめていた。 ≪36-3≫

馬鹿げた心配だった!... メは、軽はずみにではなく、じっくり考えた上で脱走したのだ。 ≪36-4≫

鍵の甘い収容区画で一人、忘れ去られていると気づいた時から、扉を少し開けた時までの間に、あれだけの力量と驚異的な洞察力を持つ男なら、これほど重大な決断がもたらすあらゆる結果を分析し、計算し尽くしていたはずだ。 ≪36-5≫

したがって、仕掛けられた罠に飛び込んだのは、全てを考慮した結果に違いない。 ≪36-6≫

おそらく無謀と言えるが、騙された間抜けではない。承知の上で闘いを受け入れたのだ。 ≪36-7≫

「だとすれば」とルコックは考えた。「この闘いを受けたからには、何処かに逃げ出せる勝機があると踏んでいるんだな」 ≪36-8≫

それは若い刑事にとって深刻な懸念だった。しかし同時に、胸躍る興奮の素(もと)でもあった。彼は身の丈以上の野望を抱いており、野心家は皆、博打打ちなのだ。 ≪36-9≫

被告と自分の勝負は、ほぼ互角だろうと彼は見ていた。この先は、刑務所も、獄卒も、判事もいない。司法の巨大機構など一切関係ない。 ≪36-10≫
※ geôliers: 牢の番人。

二人はパリの街路に、ただ二人きりで対峙していた。同等の警戒心を武器とし、同じような手段しか持たず、相手から隠れるには似たような用心を巡らすしかない。 ≪36-11≫

なるほど確かに、ルコックにはアプサント親父という味方がいた。しかし、メが例の捕まえどころのない共犯者と合流出来ないという保証など、誰が出来るのか? ≪36-12≫

したがって、これは正真正銘の決闘だった。その結末を決めるのは、二人の対峙者の勇気、機知、そして冷静さだけだ。 ≪36-13≫

このような考えが、若い刑事の頭の中を稲妻のように駆け巡った。 ≪36-14≫

彼は素早くシャベルを放り投げ、警察庁から出てきた巡査に駆け寄り、ポケットに用意していた手紙を渡した。 ≪36-15≫

「急ぎで予審判事のセグミュラ殿に届けてくれ」と彼に言った。「これは公務だ」 ≪36-16≫

巡査は、司法官と通じている悪ガキに質問しようとした。しかし、ルコックはすでに被告の足跡を追って飛び出していた。 ≪36-17≫

メはそれほど遠くに行ってなかった。 ≪36-18≫

彼は、ポケットに両手を突っ込み、頭を高く上げ、自信に満ちた態度で、ごく平然と歩いていた。 ≪36-19≫

今脱走した刑務所のすぐ近くで走り出すのは非常に危険だと考えていたのか?むしろ、わざわざ脱走が許されたのだから、すぐにまた逮捕するはずがない、と思っていたのではないか? ≪36-20≫

やがて、まさに後者の発想で、彼が行動していることが明らかになった。自分が監視されていると承知していて、絶対に安全な立場だと確信しているのだ。 ≪36-21≫

シャンジュ橋を渡ってしまっても、全く急ぐ様子はなく、散歩を楽しんでいるみたいに、悠然と落ち着き払った足取りで、フルール河岸を進み、シテ通りに入った。 ≪36-22≫
※ quai aux Fleurs
※ rue de la Cité

彼には、脱獄犯だと疑わせるようなところは何一つなかった。マリアンブールホテルに預けたと言い張っていた例のトランクが手元に戻ったあとは、取り調べに呼び出されると、必ず一番上等な服を着るようにしていた。 ≪36-23≫

その日、彼は黒いフロックコート(ルダンゴト)、ベスト、ズボンという出で立ちだった。すれ違う人々はその姿を見て、聖月曜日に着飾った暮らし向きの良い労働者だと思ったに違いない。 ≪36-24≫
※ redingote: 19世紀の二重で背にスリットの入った男性用コート(フロックコート)。
※ la Saint-Lundi: 月曜日、あるいは続く数日間、自主的に怠けるという民衆の慣習のこと。当時の職人や労働者には、日曜日だけでなく月曜日まで仕事を休んで酒を飲んだり遊んだりする悪習があった。聖人の日でもないのに、勝手に休むので、祝日っぽくSaintが付いている。

しかし、セーヌ川を渡ってサン・ジャック通りに来ると、彼の様子が変わった。 ≪36-25≫
※ rue Saint-Jacques

かつてはよく知っていたはずの場所で、目印を探している人のようだった。それまでの足取りが確かだったのに、覚束なくなっている。男は顔を上げ、右や左を見て、看板を探しながら歩いた。 ≪36-26

「間違いなく何かを探している」とルコックは思った。「だが、何だ?… 」 ≪36-27≫

答えはすぐにわかった。古着屋を見つけると、メは明らかに急ぎ足でその店に入った。 ≪36-28≫

「そうか!そうか!… 」と若い刑事は呟いた。「賭けても良いが、この自称旅芸人は元学生だったに違いない。この辺りで余分な服を売って、ショミエールに踊りに行ったことがあるのだろう… 」 ≪36-29≫
※ la Chaumière: 19世紀前半から半ばにかけて、パリのモンパルナス周辺に実在した、学生や労働者に大人気だった有名なダンスホール。1847年に従業員だったFrançois Bullierが買い取って、新しいBalを開業したようだ。仏wiki "Bal Bullier" 参照。

彼は向かい側の屋根付き大門に身を隠し、煙草に火をつけるのに手こずっているふりをした。アプサント親父は近づいても怪しまれないな、と判断した。 ≪36-30≫
※ porte cochère: (以下、未確認のGemini訳註) 馬車がそのまま中庭に入れるような「大きな屋根付きの門」

「おいおい!… ルコック殿」と彼は言った。「俺たちの獲物が、上等な服を粗末な仕事着に替えようとしてるぜ。差額を要求すりゃ、いくらかにはなるだろう。今朝、あんたはこう言ってたよな、『一文無しのメ… 僕らにとって最高の切り札だ!』」 ≪36-31≫

「うるさい! 文句を言わずによく見てろよ。誰が奴に金を渡すと言うんだ?服の商人は、通りがかりから買い取る時には、相手の自宅まで出向いて支払うもんなんだよ」 ≪36-32≫

そう言われて、アプサント親父は離れて行った。彼はこの理屈に納得したが、口にした方のルコックは違った。 ≪36-33≫

若い刑事は、心の中で自分自身を激しく罵っていた。 ≪36-34≫

またもや不注意。失敗だ。敵の手に武器を渡していた。 ≪36-35≫

非常に賢いつもりが、どうしてこの事態を予測できなかったのか?被告の手中に、みすぼらしい囚人服だけしか残さないようにするのは、とても簡単なことだったのに! ≪36-36≫

しかし、店に入った時と全く同じ格好で出て来たメを見たとき、 身を切るような後悔は和らいだ。アプサント親父に話した、自分でも信じていなかった幸運が味方してくれたのだ。 ≪36-37≫

被告は、通りへ踏み出した最初の数歩でよろめいた。その表情が示していたのは、溺れる者が唯一の希望を託した脆弱な板が沈んでいく時に感じるような、絶望の極みだった。≪36-38≫

しかし、何が起こったんだ?ルコックはそれを知りたかった。 ≪36-39≫

彼はある独特の加減で鋭く口笛を鳴らした。追跡は相棒に任せた、と知らせる、あらかじめ決めていた合図だった。同じような口笛の返事が聞こえたので、彼は店に入った。 ≪36-40≫

店主はまだ勘定台にいた。ルコックは無駄話などしなかった。身分証を見せて、簡潔な調子で情報を求めた。 ≪36-41≫

「ここから出て行った男は何の用だった?...」 ≪36-42≫

商人は困ったような様子を見せた。 ≪36-43≫

「訳ありの話なんで」と彼は口ごもった。 ≪36-44≫

「いいから話せ!」とルコックは、その男の困惑ぶりを意外に感じて命じた。 ≪36-45≫

「ああ!つまらん話でね。十二日くらい前かなあ、小脇に小包を抱えて入って来た男が、アタシの『地元』のツテで頼みたいんだが、と知り合いの名前を言ったんだ」 ≪36-46≫

「あんたはアルザス出身?」 ≪36-47≫

「そうだよ、旦那!… そこでアタシはそいつと一緒に、近くの飲み屋へ行って、奴が素敵なワインを一本注文した。乾杯してから、そいつは私に、従兄弟が取りに来るまで、持って来た小包を預かって欲しいと言って来た。間違いが起きないように、その従兄弟はアタシに特定の言葉の組み合わせ、つまり合言葉を言うことになってるから、ってね!アタシはきっぱり断った。ちょうど先月、親切につけ込む似たような件で、アタシは盗品隠匿であげられそうになったんだよ!いやあ、あんなにびっくりして、あんなに悔しがる顔は初めてだったね。そう!こっちを説得しようと、奴はあらゆる手を尽くした。少しの手間でたっぷり貰えるんだぞ、とかなんとか… でもそれこそ怪しいじゃないか。で、突っぱねたんだ…」 ≪36-48≫

彼はそういって、一息ついた。しかしルコックは大至急、先を知りたくて焦っていた。 ≪36-49≫

「それから?...」と彼は厳しく迫った。 ≪36-50≫

「それから?もちろん!その男はワイン代を払って出ていった。すっかり忘れてたけど、さっき別の奴が来て、従兄弟の預けた小包はないかと尋ね、口ごもりながら、いきなり妙なセリフを言い始めた。例の合言葉だろうね。それで、そんなもの無いよ、と答えると、奴の顔が洗濯物みたいに白くなった。こりゃ気絶するぞ、と思ったくらいだよ。そして、前に感じた怪しさが蘇った。その後、奴が服を買わないかと言ってきたので… 間に合ってるよ!って答えたのさ」 ≪36-51≫

すべてがはっきりした。 ≪36-52≫

「では、二週間前に来た、その従兄弟はどんな感じだった?」と若い刑事が尋ねた。 ≪36-53≫

「かなりがっしりした、太った赤ら顔の男で、白いもみあげがあったね。ああ!あいつなら会えば絶対わかるよ」 ≪36-54≫

「共犯者だ!」とルコックは叫んだ。 ≪36-55≫

「何だって?」 ≪36-56≫

「気にしなくて良いよ。ありがとう!… 急いでるので、また今度、じゃあね!…」 ≪36-57≫

※ 初出紙の連載第53回目(1868-7-19)の終わり

(つづく)
 
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ムッシュ連載51(第1部第35章)

(上) Les Tuileries 1850年ごろ。手前がチュイルリー宮殿、すぐ奥がルーブル宮殿。左横の大通りがリヴォリ通り。司法宮は画面中央右のシテ島の手前側にある。
(下) Le pont au Change、画Angelo Garbizza (1777-1813) 1800年ごろか。左側の建物は司法宮。現在の橋は1858-1860に架け替えられたもの。

 

XXXV


セーヌ県裁判所所属の予審判事が、ある刑務所(ただし、司法宮と直接繋がっている「監獄」を除く)に収監されている被告を尋問する場合、手続きは次の通りである。 ≪35-1≫

判事は、執達吏に「出監命令書」を渡す。その有無を言わせぬ簡潔な書式だけで、予審司法官の絶対的権限が十分に感じられる。≪35-2≫
※ ordonnance d'extraction: 身柄を護送する命令書。

書式は次のとおり。 ≪35-3≫

「×××拘禁施設の長は、本命令の持参人に、×××事件の被告、姓名×××を引き渡し、司法宮の我が執務室まで連行し、我が面前に出頭させるべし。その後、当該拘禁施設に再び収監せよ」≪35-4≫
※ Le gardien: ここでは、予審判事の命令の受任者なので、ただの「看守」ではなく組織のトップを指す。
※ maison d'arrêt: 「拘禁施設」とした。刑務所、拘置所、監獄の総称なのだろう。

それ以上でも、それ以下でもない。署名と公印で、誰もが直ちにこれに従う。 ≪35-5≫

しかし、この命令書を受け取った時点から、再収監の瞬間まで、拘禁施設の管理者は責任を免除される。何が起きても、彼は無関係と主張出来るのだ。 ≪35-6≫

そのため、全くどうでも良いコソ泥一人の移送でさえ、どれほどの煩わしさ、どれほどの儀式、どれほどの警備が必要なことか。 ≪35-7≫

指定された被拘禁者は、オルロージュ河岸やサント・シャペルの中庭に常駐している、あの陰鬱な護送車の一台に乗せられ、その者の収容区画に厳重に閉じ込められる。 ≪35-8≫
※ la Sainte-Chapelle: 元は王宮礼拝所。フランス革命時には一部が破壊された。本書の当時は修復中で1863年工事終了。独立した宗教施設ではなく、司法宮を構成する建物群の一部となっている。「連載40」の平面図の右下。

この馬車は彼を司法宮まで運び、そこでは、尋問の順番が来るまでの間、昔から「ネズミ捕り」と呼ばれる陰鬱な一時拘置所の独房に、彼を放り込んでおくのだ。 ≪35-9≫
※ prison d'attente: 「ネズミ捕り」はあくまでも一時的な待機場所のようだ。

被告が馬車に乗り込むのは、必ず拘禁施設の敷地内であり、馬車から降りるのも、必ず全ての出入口が閉鎖され、警備が万全な中庭である。 ≪35-10≫

乗車の際も、降車の際と同じく、囚人は刑務官たちに囲まれる。 ≪35-11≫
移動中は、看守たちが数人、各収容区画を隔てる通路に配置され、他数人は御者近くの席で目を光らせている。 ≪35-12≫

さらに、パリ衛兵騎馬隊が、ずっとこの馬車を護衛しているのだ。 ≪35-13≫

そのため、最も大胆で知恵の回る悪党どもでさえ、この移動中の動く牢屋から脱出することはおよそ不可能だとすっかり諦めている。 ≪35-14≫

当局の統計によると、この十年間で脱走未遂はわずか三十件しか記録されていない。 ≪35-15≫

この三十件のうち、二十五件は話にならないほど他愛のないもので、四件は、実行者が期待を抱く前に発覚した。たった一件、白昼にリヴォリ通りで起こったグルディエの事件だけが、成功しかけた。彼は、走り去ろうとする馬車から五十歩逃げたところで、巡査に捕まった。 ≪35-16≫
※ Gourdier: 調べつかず。架空と思われる。
※ rue de Rivoli: 司法宮のあるシテ島から近い、パリ中心部を東西に貫く大通り。

しかしながら、このような全ての状況を考慮した上で、メの脱獄計画は成り立っていた。ルコック自身が率直に認めていた通り、子供騙しのように単純な計画である。拘禁施設から出る際、メの収容区画の扉をわざと閉め損ねておくのだ。馬車は「ネズミ捕り」に積荷の悪党どもをすっかりぶちまけると、いつものように河岸に回り、帰りの時刻まで待機するが、中に残った彼を忘れて放置するという段取りだった。 ≪35-17≫

Voiture à cheval, Le Dépôt, Palais de Justice, île de la Cité. Paris, 撮影Albert Brichaut, 1860年頃。中央の扉は監獄に続いているのだろう。馬車は護送用のもの。御者は馬車の上に座っている。先の方にぼやけて見えるのは警備員たちか?囚人を監獄に収容した後の情景だろうか。

被告がこの手落ちをすぐに利用し、逃げ出すだろうという賭けは、百に一つも外さないものと思われた。 ≪35-18≫

かくして、ルコックの意向に沿って、全てが準備され、手配された。彼が指定した日は、復活祭休暇明けの最初の月曜日だった。 ≪35-19≫

書式通り出監命令書が作成され、極めて詳細な指示とともに、機転の利く看守長に交付された。 ≪35-20≫

自称旅芸人を移送するために手配された護送車が、司法宮に到着するのは正午頃になる予定だった。 ≪35-21≫

だが九時を過ぎたばかりだというのに、パリ生粋の悪ガキどもの一人が、警視庁の辺りをぶらついていた。海の泡からヴィーナスが生まれたという神話を信じてしまいそうになるほど、本当に下水溝の汚れたあぶくから湧いて出たように見えた。 ≪35-22≫

身につけているのは、粗末な黒いウールの作業着に、酷くぶかぶかの格子柄のズボンで、それを腰あたりの革ベルトで締めている。ブーツを見れば、郊外の泥の中で猛烈に駆け回ったことが明らかで、鳥打帽は非常に薄汚れていたが、真紅の絹スカーフだけはお洒落に結ばれていて、きっと恋人の贈り物なのだろう。 ≪35-23≫

※ blouse

顔は死人のように青白く、目に隈があり、目つきは胡散臭く、髭の剃り跡はまばらだった。こめかみに張り付いた黄ばんだ髪は、うなじの上あたりで水平に切り揃えられ、下は綺麗に刈り上げられている。あらかじめ死刑執行人の手間を省いてるみたいだった。 ≪35-24≫
※ épargner de la besogne au bourreau: (以下、未確認のGemini訳註) ギロチンにかけられる死刑囚は、刃が首にきれいに落ちるように、執行人によってうなじの髪を短く刈り上げられた。

彼の歩き方、腰の振り方、肩の動きを目にしたり、タバコを持つ様子や、歯の隙間から唾を吐く様子を見れば、あのポリット・シュパンでさえ、その男を自分の友達、仲間(カマロ)、兄弟分(ジグ)として手を差し伸べただろう。 ≪35-25≫
※ ⁠camaro⁠: (以下、未確認のGemini訳註) ⁠camarade⁠(仲間)の崩れたもの。
※ ⁠zig⁠: (以下、未確認のGemini訳註) zigouilleは気心の知れた奴、相棒、兄弟分。

四月十四日、その日は快晴で、空気は暖かく、地平線の辺りでチュイルリー宮殿のマロニエの梢が緑色に輝いていた。この厄介者は、生きているだけで満足し、何の仕事もしていないことに幸せを感じていたに違いない。 ≪35-26≫
※ 14 avril: 十九世紀で「四月十四日」が復活祭明けの月曜日となるのは1873、1879、1884だけ。復活祭の一週間後の月曜日でも1806、1817、1828、1890だけ。本書の作中現在と想定される1850〜1868の範囲には全く該当がない。

※ Tuileries: 1871年火災で壊滅。現在のチュイルリー公園。司法宮からは500mほど西側。

朝早くから、後ろ暗い人々の足跡が残るオルロージュ河岸を、男は行きつ戻りつしていた。通行人と、セーヌ川で河砂を浚う人たちの両方をチラチラ見ている。 ≪35-27≫
※ pieds honteux: (以下、未確認のGemini訳註) 「多くの恥ずべき足」裁判所や警視庁、あるいは監獄に呼び出されたり、釈放されたり、身内の面会に来たりする「世間に顔向けできない後ろ暗い人々(容疑者、前科者、その家族など)」の足跡のこと。
※ ⁠tireurs de sable⁠: (以下、未確認のGemini訳註)「砂を引く者」、セーヌ川の底から建築用などの砂を浚って売りさばいていた業者(川泥棒まがいもいた)。

時々、男は道路を渡って、身なりがきちんとした、眼鏡で長い顎髭の立派な老紳士に何か話しかけていた。絹の屑糸(フィロゼル)で編んだ手袋をはめた、小金持ちの隠居の風貌で、眼鏡店の方を特に興味深そうに見ていた。 ≪35-28≫
※ ⁠filosèle⁠: 絹の屑糸、紡績絹糸。高級な革手袋ではなく、少し安価な絹糸で編んだ手袋をしていた、という描写。

何度か、治安局捜査官が報告に行くため近くを通りかかった。すると、隠居か悪ガキのどちらかが相手に駆け寄り、何気なくものを尋ねるのだった。 ≪35-29≫

治安局の男は答えて通り過ぎたが、仲間二人の方は合流すると、笑いながらこう言った。 ≪35-30≫

「よし!… また一人、俺たちに気づかなかった」 ≪35-31≫

彼らには喜ぶ正当な理由、自慢する切実な動機があった。 ≪35-32≫

交互に声をかけた捜査官十二人から十五人のうち、この二人が同僚のルコックとアプサント親父だと見抜いた者は誰もいなかったのだ。 ≪35-33≫

それでも、間違いなくその二人だった。不測の事態があるかも知れないこの狩りは、野蛮人の追跡のごとく気配を消して、執念深く追い続けることになるはずなので、彼らは武装し、万全の準備を整えていた。 ≪35-34≫
※ sauvages: 野蛮人が追跡するイメージは、クーパー『モヒカン族の最後』(1826)のものと思われる。この小説はフランスでは19世紀を通じて非常に人気があった。デュマ『パリのモヒカン人』(1854-1859)もその小説にあやかっている。

若い刑事の心づもりでは、この大胆な試験の意味は重大だった。 ≪35-35≫

普段の仕事仲間であり、様々な衣装で化けている連中を見抜くことに長けた人々が、彼とアプサント親父の変装に騙されたのだから、メも間違いなく騙されるはずだ。 ≪35-36≫

「ああ!皆が俺だと気づけなくても全然驚かんよ」とアプサント親父は繰り返した。「俺自身が見分けられんのだから! いつも変装したって憲兵風が抜けなかった俺を、人の良い隠居に仕立て上げたのは、あんただけだよ、ルコック殿!」 ≪35-37≫

しかし、使える技かどうかと考える時間はもうなかった。 ≪35-38≫

若い刑事は、護送車が、シャンジュ橋の上を大急ぎの速歩で近づいてくるのを見た。 ≪35-39≫
※ au grand trot: 馬の大急ぎの速歩。
※ pont au Change: 司法宮のすぐ目の前、セーヌ川の右岸とシテ島を繋ぐ橋。

「気をつけろ、じいさん」と彼は相棒に声を潜めて言った。「あいつが来る!… 持ち場へ急げ。指示を思い出して、注目!…」 ≪35-40≫
※ vieux: じいさん。変装に合わせてワザと乱暴に言っているのだろう。ルコックがアプサントをこう呼ぶのはここだけ。ジェヴロルは≪8-42≫で一度、乱暴な感じでvieuxとアプサントを呼んでいる。

河岸のそこら辺には、板塀で半ば囲まれた資材置き場があった。アプサント親父は、塀に貼られた広告の前に行き、その一つを眺めた。ルコックは、置き忘れられたシャベルを見つけて、手に取り、砂をならし始めた。 ≪35-41≫

急いで行動したのは正解だった。 ≪35-42≫

動く牢屋が河岸の角を曲がって来た。 ≪35-43≫

二人の捜査官の前を通り過ぎ、鉄のきしみを大きく立てて「ネズミ捕り」へと続くアーチの下へと吸い込まれていった。 ≪35-44≫

メはあの中だ。 ≪35-45≫

ルコックは、御者近くの席に座る看守長を見て、それを確信した。 ≪35-46≫

馬車は十五分を優に超えて中庭に留まっていた… ≪35-47≫

再び馬車が姿を現したとき、御者は座席から降りて馬たちの手綱を引いていた。 ≪35-48≫

彼は重たい馬車を司法宮の横に寄せ、馬たちの背に毛布を被せてから、パイプに火をつけ立ち去った... ≪35-49≫

長い時間が経過し、観察する二人は不安になり、苦痛を実際に感じるほどだった。何の動きもなく、何の気配もない... ≪35-50≫

しかし、ついに、馬車の扉が、非常に慎重に、そっと半開きになった。そして、青ざめ、おびえた顔が現れた... メの顔だ。 ≪35-51≫

素早い視線で、囚人は辺りを見回した。誰も通っていない。 ≪35-52≫

すると、猫を思わせるしなやかさと正確さで、彼は地面に飛び降り、音を立てずに扉を閉めた。そして、シャンジュ橋の方に歩き出した... ≪35-53≫

※ 初出紙の連載第52回目(1868-7-18)の終わり

(つづく)
 
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