十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

紅茶を受け皿で

シミルボン投稿日 2022.03.05

ジョン・ディクスン・カーの傑作ミステリ『連続殺人事件』(1941)の新訳が出ました。旧訳(井上 一夫 1961)も素晴らしいのだけど、時代の流れは仕方ないですね。なおタイトルは新訳の方が原題The Case of the Constant Suicidesを反映しています。

連続殺人事件 (創元推理文庫 118-10)

↑こちらは旧訳

ミステリとしての評価はWebサイト『ミステリの祭典』をご覧ください。

ミステリの祭典:連続殺人事件

このサイトで、ある評者の方が、印象的な情景をめざとく見つけてくれました。

行儀を知っていると見せつけるような、貴婦人めいたおしとやかな手つきで、エルスパットは注意深く受け皿に紅茶を注いで飲んだ。(p112)

エルスパットというのは、この小説に登場するスコットランドの老婦人。

紅茶を受け皿で飲むシーン、ジョージ・オーウェルのファンならきっとおぼえておいででしょう。

BBCの喫茶室オーウェルはすぐさま紅茶を受け皿にあけて、大きな音をたててすすりはじめた。

このエピソードを覚えていた小野二郎さんが、アイルランドの小さな喫茶店でおばあさんが実際に紅茶を受け皿にあけて、受け皿から飲むのを見た時の驚きと、そこからお茶の作法を探求してゆくさまが、ある意味感動的なエッセイでした。

この作法が登場する小説に気づいたのは初めてだったので、感慨深いものがありました。(かつて、私もこの小説を旧訳で読んでいるのですが、この場面はスルーしていました…)

JDCの原文は

Carefully, with ladylike daintiness which showed she knew her manners, Elspat poured tea into the saucer, blew on it, and drank.

新訳は blew on it (フーフーやって)を抜かしちゃっていますね。
旧訳だと

行儀作法は知ってるよというように、エルスパットは淑女然としたおしとやかな手つきで、そっとお茶を受け皿につぐと、ふーっと吹きさまして、飲んだ。 (p110)

さすが井上先生、全く乱れのない文章です。

でもあらためての疑問。何故このような、変テコなマナーになったのか?その由来は?
小野さんの探求では、このマナーは

労働者階級のやりかた紅茶の中味を受皿に移し、猛烈な音をたてて吹いてさましてから飲んだ

というもので、昔のティーカップには取っ手がなく、単なる茶碗型のティーボウルで、お茶の熱いのを冷ますために、そこから別の深皿に移して飲むのが習慣だったらしい、と探求を終えています。

小野さんの著書は1981年のもの。ならばその後の研究でもっといろいろわかってるのでは?と考え、Webでいろいろ調べてみることにしたのです。

探すと実際に受け皿から飲んでる絵や写真が結構見つかり、非常に興味深い。

by Louis Marin Bonnet, dated 1774, one of a series on English customs
これはコーヒーの情景だが、コーヒーにも同様の作法があったようだ。TVシリーズ『大草原の小さな家』にもそういう場面があったらしい。(まだ詳しく調べてません…)
面白かったのは、ノーベル賞受賞後の詩人タゴールのエピソード。

[https://www.srichinmoylibrary.com/tce-39#fnrefdrfz:title="Tagore's peculiar way of drinking tea"]

日本人たちとの会合で、詩人が出された紅茶を受け皿にそそぎ、受け皿から飲んだところ、周りの日本人たちが皆真似して同じ作法で飲み、ある一人が「どうしてタゴールさんはそういう飲み方をされるのですか?」と聞いたら、タゴールの方では「我々の伝統的マナーです。でも皆さんはどうして私の飲み方を真似されたのでしょう?」と不思議そうに聞く。「それは貴方がとても偉大だからですよ」実に日本人らしい行動ですね!

もちろんマナーという日常的で記録に残りづらいものなので、文献的にしっかりしたものは見つからず、Web上では色々な人が適当にいろいろな説を表明していました。

(1)
・西洋人は猫舌なので皿で冷ます必要があった現在でも一番、主流の説。でも昔の紅茶は高価で上流階級の嗜みだったのだから、冷めるまで優雅に待てば良かったのでは? (なお米国の逸話“Why do you pour your tea into that saucer?” Washington asked. “To cool it,” Jefferson replied. “Just so,” said Washington.は由来が怪しそう。でも、この逸話が広まってるのは、こういうマナーが米国でも当たり前だった時代を反映しているのだろう。英Wiki “Saucer” 参照)

 

(2)
・昔はティーポットが高価だったので、カップに直接茶葉を入れ、上澄みを受け皿にそーっつと注いで飲んだお茶自体が高級品で裕福な階級が楽しんでいたのだから、茶漉し具やポットを用意できないはずはない。 上の絵のような角度でやったら茶葉も皿に入っちゃうよね

 

(3)
・陶磁器は高級品だったので、見せびらかしのため、二種類の容器を使って飲んだのだならば現代のティーカップとソーサーのように使えば良く、皿に注ぎ直す必要性はないよね。

 

などなど

諸説ある中で、多くの説は、元々はオランダ人が実施していた作法で、飲み方はカップ(当時は持ち手のないボウル)から皿(当時は現在のものより深め)に注いで飲み、わざわざ音を立てて啜るのが通だった、という起源を採用していました。これは1701アムステルダムで上演された喜劇『ティーにいかれたご婦人たち』De theezieke juffers(The Tea-Smitten Ladies)に記録が残っているようです。(2023-8-23追記: この作品をWebで見つけたので機械翻訳オランダ語を解読してみたが、当時のオランダの紅茶狂いは描かれていたが、受け皿から啜る場面は無かった…)
音を立てて啜る、なんて西洋のマナーではありえない!東洋的なものを感じます。そうするとオランダ東インド会社が東洋からこの作法を持ち込んだのか?

そんな中、Quoraの戎居照雄さんの回答にビビッと来ました。

コーヒーや紅茶の受け皿の目的は何でしょうか? - Quora

「これ工夫茶じゃない?」

私も良く知らなかったのですが、工夫茶を調べてみると、中国明から清時代、福建省の発祥で、一旦ポットから注いで香りを楽しむだけの茶器(聞香杯)と、そこからさらに注いで飲む専用の茶器(茶杯)2種類の陶器を使って楽しむ茶の作法なのです。聞香杯は縦に長め、茶杯は小さなボウル型で、飲むまでは香りを保つために聞香杯に被せて使うようです。

オランダがお茶を輸入した一番最初は1610年。時代もドンピシャ。香りを楽しむ、という目的で2種類の容器を使うというのも理にかなっています。当時、中国でも最新のお茶の嗜み方を一生懸命真似している西洋人の姿も目に浮かぶ。「本場中国では、こういう飲み方が正しいのですよ」とか言いながら

なんだかとてもスッキリしました

さらに調べると、中国ではお茶は音を立てて啜ると味わいが深くなる、とされているようです。知りませんでした… (逆に麺類ならば音を立ててすするのは日本人だけで、中国人や韓国人はしないらしい)

紅茶は中国茶?_人民中国
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世紀のオランダ人たちに中国人茶師が、音を立てて飲むと美味しいよ、と勧めている場面も目に浮かぶようです。
西洋の最大の食事タブー「決して啜るな」を初期のオランダ人たちが破っている理由もこれで判明、これにて一件落着!

 

と思ったのですが、さらに調べていくと、どうやら聞香杯が成立するのは結構新しい?(1960年代説もあり)とか、友柄の茶碗と皿のセットが西洋に輸出されたが、この皿は元々はお茶請けをのせる用だったを西洋人は飲用の皿と誤解したのだ、という説などがあり、単純に「工夫茶」がルーツ、とは言えないようです。工夫茶の歴史を裏付ける文献も見つかりませんでした。また、西洋ではコーヒーが先に輸入されており、紅茶のカップと皿のセットはコーヒーのものを流用した、という説(逆かも?)もあり、となるとお茶のマナーとコーヒーのマナーの関係性も気になります。

まあでも、香りを楽しむ聞香杯っぽい作法が中国には17世紀に既に発生していて、茶を移しかえると湯ざましの効果もあることから、この作法が中国からオランダにも広まったのではないか、と私の中では依然として一押しの説です(コーヒーの方はお茶のマナーが波及したと思っています)。当時のオランダ人の記録に何か残っていそうな気がしますので、そこはこれからの研究に期待しましょう。

 

(追記)
いろいろ調べる過程で、英国に受け皿から飲むこの作法を広めたのはジェームズ二世の二番目の妻マリー妃(Mary of Modena)らしいことが判明しました。オランダの流行を取り入れた新しい飲茶作法として宮廷に導入したようです。(1673年以降と思われる)
ジェームズ二世と言えばスコットランドに深い関係のある王様。王になる前に国王名代としてスコットランドを統治していますからマリーの飲茶作法も先にスコットランド宮廷に紹介されたのでしょう。JDCの小説『連続自殺事件』も舞台はスコットランド(JDC1940年に妻とスコットランド旅行をしている)。また、エリザベス女王(二世)スコットランドを訪問したとき、地元の老婆が紅茶を受け皿で飲んでいたので、女王も倣って飲んだ、というエピソードも思い起こされます。スコットランドでは1950年代まで受け皿飲みをしているお年寄りが結構いた、というWebの投稿もありました。子どもたちにママが注意した文句が良いですね。

[http://dishynews.blogspot.com/2013/03/when-is-saucer-cup_5.html]

I remember quite clearly that elderly people in 1950’s Scotland would drink their tea out of the saucer, having first blown on it to cool it. My mother made it clear my brother and I were not to comment, or do it.(あれこれ言わないで、そして真似しちゃ駄目よ)

飲食のマナーというのは割と根強いものがあるのだなあ、と思いました。身近なところで言えば、洋食器で食べる時にご飯をフォークの背にのせる謎マナー。昔はあれが正式だったようで、父が器用にやっていたのを懐かしく思い出します。あれもフォークをひっくり返さない英国流に源流があるようですね。(これもよく調べていませんが…)