十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ブラウン神父食べ比べ

シミルボン投稿日 2020.10.11

※最初のブラウン神父のイラスト

最近、ショックなことがあって『ブラウン神父の童心』なんだが、創元文庫の翻訳がサイテーと評されていて、保男さんの堅実な翻訳を愛する者としては、是非、汚名をすすぎたいと思ったのです。
以下、もとの文に(A)-(D)の表示は無い。翻訳比較のために区分けした。実際は全て一つの段落。

【原文(Gutenberg)
(A)Between the silver ribbon of morning and the green glittering ribbon of sea, the boat touched Harwich and let loose a swarm of folk like flies, among whom the man we must follow was by no means conspicuous—nor wished to be. There was nothing notable about him, except a slight contrast between the holiday gaiety of his clothes and the official gravity of his face.
(B)His clothes included a slight, pale grey jacket, a white waistcoat, and a silver straw hat with a grey-blue ribbon.His lean face was dark by contrast, and ended in a curt black beard that looked Spanish and suggested an Elizabethan ruff.
(C)He was smoking a cigarette with the seriousness of an idler. There was nothing about him to indicate the fact that the grey jacket covered a loaded revolver, that the white waistcoat covered a police card, or that the straw hat covered one of the most powerful intellects in Europe.
(D)For this was Valentin himself, the head of the Paris police and the most famous investigator of the world; and he was coming from Brussels to London to make the greatest arrest of the century.

 

ブラウン神父の童心 (1959年) (創元推理文庫)

まずは福田恒存と共訳名義の旧版
【創元文庫1956初版(以下は221976)SS22
(A)
朝空の銀色の帯と、緑色に輝く海の帯とのあいまを、船はハリッジにつき、蠅のような乗客の群れを吐きだした。これからわたしたちが足どりを追うことになっている人物は、この人ごみのなかにまじっていると、すこしも目だたなかったが、目だたぬことは本人の望みでもあった。この男には、どこといって人目を惹くところがなかった──ただ、その晴着のようにはでな服装と、役人らしいいかめしい顔つきとがいくぶんきわだって見えるくらいである。
(B)
服装は、うすねずみ色のほっそりした短い上着、白いチョッキ、それに地味な黄色のリボンがついた銀色の麦わら帽子だった。そのやせ顔は帽子の色と対照的にあさ黒く、顎の先端には、いかにもエリザベス朝時代のひだ襟が似あいそうなスペイン風の短くて黒い顎ひげがたくわえられていた。
(C)
彼は、いかにも暇人らしそうな真剣さで煙草をふかしている。まさかこのねずみ色の上着に弾丸のこめられた拳銃が隠され、白いチョッキには警察手帖がひそみ、麦わら帽子の下には、ヨーロッパでも一、二を争うほどの強大な頭脳が隠されていようなどという事実を示すものは、どこにも見あたらなかった。
(D)
この人物こそ、パリ警察の主任であり、世界にその名を轟かせた名探偵ヴァランタンにほかならず、彼はいましも今世紀はじまって以来最大の捕物を敢行すべく、ブリュッセルからロンドンに乗りこむところなのである。

 

創元文庫新版(中村保男単独名義)は読みやすくなった説が一部にあったのだが、そう大きく変えていないと思う。(全体を比較したわけではないが…)

【創元文庫(最新版)電子本2017(下線部が変更点)
(A) {
変更なし}
(B)
服装は、うす色のほっそりした短い上着、白いベスト、それに地味な黄色のリボンがついた銀色の麦わら帽子だった。その細おもては帽子の色と対照的にあさ黒く、顎のには、いかにもエリザベス朝時代のひだ襟が似あいそうなスペイン風の短くて黒い顎がたくわえられていた。
(C){
前略} まさかこの色の上着に弾丸のこめられた拳銃が隠され、白いベストには警察手帳がひそみ、麦わら帽子の下には、ヨーロッパでも一、二を争うほどの強大な頭脳が隠されていようなどとは、どこをどう見まわしても誰にもわかりはしなかった
(D)
この人物こそ、パリ警視庁警視総監であり、世界にその名を轟かせた捜査官ヴァランタンにほかならず、{後略}

 

【グーテンベルグ21(新潮文庫1959の電子版)

(A)船は、暁の光の銀色のリボンと、海のきらめく緑色のリボンとのあいだを縫って、ハリッジに着き、ひと群れのハエそっくりの船客たちをおろしたが、そのなかにまじっていたわれわれが後を追わねばならない人物は、いっこうに目だった存在ではなかった……目だたないことが本人の望みでもあったのだが。彼の姿にはどこといってひとの目をひく点はなかったが、ただひとつ、身につけている服装のお祭り的な派手さと顔の役人的な重々しさとが、多少対照的なちぐはぐさを見せていた。
(B)
身につけているものは、薄灰色のきゃしゃな短上着に、白いチョッキ、くすんだ空色のリボンをつけた銀色の麦わら帽子だった。痩せた顔はそうした服装との対照で浅黒く見え、顎のさきには、スペイン人かとも見える、エリザベス王朝時代の襞襟を思い起させるような、短かめな黒い顎鬚をつけていた。
(C)
彼はなまけ者らしい、くそまじめさで巻煙草をふかしていた。そういう彼の態度には、どこといってそれを暗示するものはなかったが、ほんとうは、彼の灰色の短上着には弾丸をこめた拳銃がしのばせてあり、白のチョッキには警察官の名刺が、麦わら帽子の下には、欧州で最大の知能を蔵した頭がしのばせてあるのだった。
(D)
というのは、この男こそはパリ警察の親玉であり、世界でも最も有名な捜査官である、ヴァランタンその人だったのだから。彼は、今世紀でも最大の捕物をやってのけようとして、ブラッセルからロンドンへ向かう途中だったのである。

 

ちくま文庫2012
(A)
朝の銀色のリボンと、海のきらめく緑のリボンの間で、船はハリッジの港に着き、人の群れを蠅のようにどっと吐き出した。我々が追わねばならない人物はその中にいたが、けして目立つ男ではなく──当人も目立ちたがってはいなかった。男にはこれといった特徴はなかったが、強いていえば、休日の派手な身なりと、顔に浮かんだ役人のようなしかめつらしさがいささか対照的だった点が挙げられるだろう。
(B)
服装は淡い灰色の薄手の上着、白のチョッキ、淡い青のリボンがついた銀色の麦藁帽子といったものだった。痩せた顔は服との対照で浅黒く見え、顎の先には短い黒鬚を生やしていたが、それはどことなくスペイン人のようで、エリザベス女王時代の襞襟(ひだえり)を思わせた。
(C)
男は閑人(ひまじん)らしく真面目に煙草を吸っていた。その様子からはとても察せられなかったが、灰色の上着の下には弾丸(たま)をこめた回転式拳銃がしのばせてあり、白いチョッキの下には警察の身分証、麦藁帽子の下にはヨーロッパ屈指の優れた知能が隠されていた。
(D)
というのも、この人物こそヴァランタンその人、パリ警察の長官にして、世界一の名声を誇る捜査官だったのである。彼は今世紀最大の捕物をし果たすべく、ブリュッセルからロンドンへ向かうところだった。

 

【ハヤカワ文庫2016(電子版)
(A)
朝空の銀色のリボンと緑に輝く海のリボンの合間、一隻の船がイギリス南東部のハリッジの港に到着し、人の群れをハエのように吐き出した。その人々の中にひとりの男がいた。このあとわれわれがその足跡をたどることになる男である。しかし、これがなんともめだたないご仁で、本人もめだつことを望んでおらず、これといった特徴がない。ただ、休日向きの派手な服装とその顔の役人風のしかつめらしさ──これだけはいささか対照的だったが。
(B)
その服装とは、淡いグレーのジャケットに白いヴェスト、青みがかったグレーのリボンを巻いた銀色の麦わら帽というもので、骨ばった細長い顔は着ているものの明るさとは好対照に浅黒く、スペイン人のような、あるいはエリザベス女王時代に流行った襞襟を思わせるような、顎ひげを生やしていた。
(C)
そんな風体で、暇人の生真面目さを発揮して、忙しげに煙草を吸っているのだが、この男、グレーのジャケットの下には弾丸を装填したリヴォルヴァーを隠し持ち、白いヴェストには警察官の身分証をひそかに携えていた。また、麦わら帽が包むこの男の頭脳には、ヨーロッパでも有数の知性が秘されていた。
(D)
そんな事実はどこからもうかがえないのだが、この男こそヴァランタンその人なのだ。パリ警察の長にして、世界で最も有名なこの捜査官は今、ブリュッセルからやってきて、ロンドンに向かうところだった。今世紀最大の逮捕劇を演じるために。

 

『青い十字架』(The Blue Cross, 初出Saturday Evening Post 1910-7-23 as “The Innocence of Father Brown: Valentin Follows a Curious Trail” 巻頭話、挿絵George Gibbs)冒頭の一段落だけの比較なので、大きな事は言えないのだが、比較するとハヤカワ版は、随分丁寧に言葉を補っていることに気づく。私の好みはちくま版だが、創元(保男さん)は素晴らしいと思う。新潮版も直訳調だが水準を保っている。


原文を細かく検討してあらためて分かったが、チェスタトンは対比と否定の文章家だと思う(プラス原色でさっと情景をスケッチする画家的資質)
上の文章だけでもsilver/greenby no meansnornothingexceptholiday/official(コントラストを考慮すれば、ここは公務というより「仕事」としたい)seriousness/idler、が見つかる。なので、対比を対比らしく、否定を否定らしく訳すべきだろう。そーゆー文章構造が好きだということを、予め理解しておくとわかりやすく読めるのでは?


ビッグネームたちの流麗な文章の後で台無しだが、試訳を恥ずかしげもなく挙げておく。(私は文章は短ければ短いほど良い派です…)

【試訳】
(A)
朝の銀リボンと海のギラつく緑リボンのあいだを進み、船はハリッジに到着、人々は蝿の集まりが散るように陸へと広がった。その中に我々がこれから動向を追うべき男がいたのだが、人目を引くにはほど遠かった──少なくとも彼はそう望んでいた。特異なところは一見全くない。しかしながら服装が休日の陽気な感じなのに、表情が仕事の重々しい感じなのがちょっと気になるかもしれない。
(B){
}
(C)
煙草を暇な時の熱心さでふかしていた。誰も気づかないだろうが、灰色の上着に装填済みリボルバーを隠し、白チョッキに警察手帳を隠し、そして麦わら帽子にヨーロッパ有数の強靭な知性を隠しているのだ。
(D)
これぞヴァランタンその人。パリ警察の長にして、世界一有名な捜査官。ブリュッセルから来てロンドンへ、世紀の大捕物が目的だ。

(2023-8-17修正: 一行目だけちょっぴり直しました)

ところでちくま文庫の南條+坂本訳はガードナー注釈のThe Annotated Innocence of Father Brown(1998)を底本に挙げている。私もこれを参照してかなりの新事実を知った。代表的なのはWebサイト「ミステリの祭典」に取り上げたので是非(アポロンの眼とか折れた剣とかに面白い裏話があって…)。ガードナー注釈本自体を筑摩さんは完訳して欲しい。


いろいろな書評は [「ミステリの祭典」ミステリの採点&書評サイト] をどうぞ