
Bureau de placement
(上) Charles-Émile Damour画 (1888)
(下) 絵葉書 "1, rue des Prouvaires. Détails de la façade et balcon" (1900頃) 三階に看板が見える。
ルコックの喜びは凄まじかった。 ≪34-57≫
まさか、そう、まさか、そんな協力まで得られるなんて、夢にも思わなかった。 ≪34-58≫
ああ!… もしセグミュラ殿に火の中を潜り抜けろと言われたら、喜んで彼は飛び込むだろう。 ≪34-59≫
しかし、それでも彼は慎重であり、心配そうな表情を保つ自制心すら備えていた。こんな場合には、勝利を悟られてはいけない。さもなくば、利益を一瞬で失う危険があるのだ。 ≪34-60≫
確かに、若い刑事が話したことは、厳密な意味で、正確さから少しも外れてなかった。しかし真実を伝える仕方は様々あり、彼は自分の恨みに判事を引き込んで、利害が一致する協力者に仕立て上げようと、少々やり過ぎな上手い言い方をした。 ≪34-61≫
しかしながら、セグミュラ殿は、巧妙に虚栄心を突かれて叫び声をあげ、怒りを爆発させた後で、いつもの冷静さを取り戻した。 ≪34-62≫
「どうだろう」と彼はルコックに言った。「被告を釈放するにあたって、当局の差し金が露見しないような策略を、君はもう考えているんだろうね」 ≪34-63≫
「実を言いますと、閣下、全く考えておりません。何の意味があるでしょう! あの男は、自分がどれほど疑惑の目を向けられており、厳しい監視下に置かれているかをよく知っていますから、常に警戒を怠らないでしょう。私がどれほど巧みに逃走の機会を整えてやっても、彼は策略を見抜き、警戒するはずです。最も手っ取り早く確実なのは、ただ単にドアを開けたままにしておくことです...」 ≪34-64≫
「おそらく、君が正しいのかな?... 」 ≪34-65≫
「ただし、ある予防策が必要だと考えています。絶対に実施しなければならない、成功するのに不可欠な条件だと思うのですが... 」 ≪34-66≫
若い刑事が、言葉を探して非常に苦労しているようだったので、判事は彼を助けようと思った。 ≪34-67≫
「その予防策とは何かね?」と彼は言った。
「それは、閣下、メを別の刑務所に移送する命令を出すことです… ああ!場所はどこでも、お好きなところへ」 ≪34-69≫
「なぜ?教えてくれ」 ≪34-70≫
「なぜなら、閣下、脱獄までの数日間、メが外部と連絡を取り、どうにも捕まえられない共犯者に前もって知らせるのを絶対不可能にしたいのです...」 ≪34-71≫
その提案は、不可解だったようで、セグミュラ殿を驚かせた。 ≪34-72≫
「では、君は監獄の警備が不十分だと考えているのか?」と彼は言った。 ≪34-73≫
「いえ!閣下、そうは言っていません。むしろ、あの手紙の一件以来、獄長は警戒を倍増させていると確信しています... しかし、結局、この謎めいた殺人犯には、監獄内に内通者がいたのです。その証拠は具体的、明白、かつ議論の余地のないものです。そのうえ……」 ≪34-74≫
彼は、自分の考えを口にしようとしてやめた。これから語ろうとすることが、非常識だと良く自覚している者は皆そうするだろう。 ≪34-75≫
「そのうえ?...」興味をそそられた判事が先を促した。 ≪34-76≫
「ええ!こうなれば、閣下、率直に申し上げます... 私は、ジェヴロルが監獄でいささか自由に振る舞いすぎていると思うのです。彼はまるで自分の家のように、何をしているのか、どこに行くのか、何のつもりかなどを咎められず、自由に行ったり来たり、階段を上り下り、入ったり出たりしている… 彼には何の制限もなく、お人好しの獄長をすっかり丸め込んでいるのです… 私はジェヴロルを信用できません…」 ≪34-77≫
「なんと!… ルコック殿!…」 ≪34-78≫
「ええ、承知しています。軽率な告発だと思いますが、胸騒ぎは抑えきれません。ジェヴロルが気がかりです。被告は、私が屋根裏から彼を観察し、最初の手紙を奪ったと知っていたのか、知らなかったのか?明らかに知っていた、奴の最後の一芝居を見れば明らかです… 」 ≪34-79≫
「私も同じ意見だ」 ≪34-80≫
「では、どうやって知ったのか?... 自分で推測出来たとは考えられない。この八日間、私は問題の答えを見出すために知恵を絞りましたが... 無駄でした。ジェヴロルが介入したとすれば全て説明がつく」 ≪34-81≫
セグミュラ殿は、ただのこの推測を聞いて、怒りで青ざめた。 ≪34-82≫
「ああ!... それが真実なのか」と彼は叫んだ。「確証が持てるのか!... 何か証拠は?手がかりがあるのか?」 ≪34-83≫
若い刑事は首を振った。 ≪34-84≫
「証拠が両手いっぱいにあっても」と彼は答えた。「公にすべきかどうか、正直わかりません。自ら未来を閉ざすことになりませんか?この道で成功しようとするなら、もっとひどい裏切りも覚悟すべきです。どんな職業にもライバル意識や憎悪はつきものではないでしょうか?ただし閣下、ジェヴロルの廉直さは疑っていません。テーブルに現金で十万フランが積まれても、彼は被告を逃がしたりしないでしょう……しかし、自分に影を落とす、この私の邪魔をするだけの目的で、十人の被告を司法の手から遠ざけかねない男なのです」 ≪34-85≫
言葉は多くなかったが、どれほど多くのことを説明し、どれほど多くの未解決の謎を解明する鍵となったか!… しかし、判事は、その領域まで若い刑事に同調するわけにはいかなかった。 ≪34-86≫
「もう十分だ」と彼は言った。「応接室に行ってちょっと待っててくれ、着替えて、私もすぐに行く… 馬車を呼ばせておこう。今日中に検事総長閣下にお会いしたいから、急がねば… 」 ≪34-87≫
普段は念入りなセグミュラ殿だったが、その日は十五分もかからずに身支度を整えた。 ≪34-88≫
すぐにルコックが待つ部屋に現れ、簡潔にこう言った。 ≪34-89≫
「行こう」 ≪34-90≫
二人が馬車に乗り込もうとしたとき、きちんとした身なりで、良家に仕える者と知れる一人の召使いが、セグミュラ殿の方に素早く近づいてきた。 ≪34-91≫
「ああ!… 君か、ジャン」と判事は言った。「ご主人の具合はどうだね?」 ≪34-92≫
「快方に向かっております、閣下。主人が、閣下のご機嫌を伺い、例の事件がどこまで進展したかをお尋ねしてくるようにと申しまして」 ≪34-93≫
「相変わらず、手紙に書いた段階のままだよ。ご主人によろしく伝えてくれ。それから、私の体調は元に戻ったとな」 ≪34-94≫
召使いは頭をさげた。ルコックは予審判事の隣に座り、辻馬車は走り出した。 ≪34-95≫
「あの青年は」とセグミュラ殿が答えた。「デスコルヴァル殿の側仕えだ」 ≪34-96≫
※ valet de chambre: 「側仕え」とした。
「あの判事の… 」 ≪34-97≫
「そう、あの方だ。二、三日おきに、あの男を寄越してくる。謎めいたメに関して我々が何をしているのか気にしているんだね」 ≪34-98≫
「デスコルヴァル殿はこの事件を気にかけているのですか?」 ≪34-99≫
「並々ならぬ程にね。もっとも無理はない。結局のところ、捜査を開始したのは彼であり、不運な転倒がなければ、そのまま指揮を執っていたはずだから。おそらくこの予審が心残りで、自分なら私より上手く捌けただろうと考えているのではないかな。もし彼が戻れるなら、二人の気持ちは同じだよ。なぜなら、私も、彼が代わってくれれば良いと心から思ってるからね... 」 ≪34-100≫
しかし、そんな交代はルコックの望む所ではなかっただろう。 ≪34-101≫
「無理だっただろうな」と彼は考えていた。「あの酷い判事だったら、セグミュラ殿から得られた尽力など、決して行なおうとしなかったはずだ」 ≪34-102≫
彼が自分の幸運を喜んだのは全く正しかった。判事は労を惜しまなかった。決断には時間がかかるが、一度決めたら決して覆さず、最後まで貫き通す人だった。 ≪34-103≫
その日のうちに、ルコックの計画は、詳細と日程の詰めを除き、基本的に承認された。 ≪34-104≫
同じ日の午後、シュパン後家は仮釈放を許された。 ≪34-105≫
ポリットももう案ずる必要がなくなった。関与した窃盗事件で軽罪裁判所に送致され、彼自身、非常に驚いたのだが、十三か月の禁錮刑を宣告された。 ≪34-106≫
※ le tribunal correctionnel: 軽罪裁判所
その後、セグミュラ殿は待つだけとなった。復活祭の休暇が始まり、地方に住む家族のもとへ、しばしの休息と心の安らぎを求めて出かけることができたのは、彼にとって非常に良かった。 ≪34-107≫
※ les vacances de Pâques: (以下、未確認のGemini訳註) 聖金曜日から復活祭まで。当時は翌日の月曜は休みではなかったらしい。
休暇最終日の日曜、パリに戻って自宅にいた彼は、一人の男が来ていると告げられた。解雇した使用人の代わりに、口入屋から紹介されて来たのだ。 ≪34-108≫
※ bureau de placement: 奉公人口入所/職業紹介所
その男は四十歳くらいに見え、顔は真っ赤で、髪はふさふさ、赤茶色の非常に豊かな頬髭を蓄えていた。小柄ではなくやや長身で、がっしりした体格、慣れぬ四角ばった服の下で、身体は硬そうに見えた。 ≪34-109≫
※ favoris: もみあげ、頬髭
男は落ち着いた口調だったが、非常に強いノルマンディー訛りで、二十年間、医師、公証人といった知識人ばかりにに仕えてきたこと、司法宮の習慣に詳しいこと、書類を乱すこと無くほこりを払うやり方を知っていることなどを説明した。 ≪34-110≫
要するに、彼の説明はとても説得力があったため、判事は身元照会のために二十四時間待ってくれと言いながら、手付の一ルイ硬貨をポケットから取り出して彼に差し出した。 ≪34-111≫
※ le louis du denier à Dieu: 「手付の一ルイ硬貨」古い商慣習で「信頼しました、今後はよろしく」という本契約を前提とした仮契約成立の儀礼的行為のようだ。
ところがその瞬間、男は突然態度と声色を変え、笑い出しながら言った。 ≪34-112≫
「判事殿、これでもまだ、メが私を見破ると思いますか?」 ≪34-113≫
「ルコック殿!…」と判事は驚愕して叫んだ。 ≪34-114≫
「その通りです、閣下。そして、お知らせに来ました。メを尋問に呼び出していただければ、脱走に必要な手はずはすべて整っています… よろしければ、明日にでも」 ≪34-115≫
※ 初出紙の連載第51回目(1868-7-17)の終わり
(つづく)
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