
The Depot, at the corner of Quai de l'Horloge and Rue de Harlay, 1860年ごろ。撮影Albert Brichaut。監獄のドアが並んでいる。連載40に掲載した司法宮平面図の左上辺りだろうか。メは特別な「隔離房」なので、こういう感じではないかも。
「隔離房」へ続く狭い廊下に差し掛かると、ルコックは歩みを早め、予審判事、獄長、そして書記官を追い越して先頭に立った。 ≪33-63≫
静かに進めば、被告が手紙を解読しているところを押さえられるかもしれない。そうでなくても、独房内部の隅々まで目をやる時間を稼げるのではないか、と考えていた。 ≪33-64≫
メは机の前に腰を下ろし、両手で頭を抱えていた。 ≪33-65≫
獄長が自らの手で引き抜いた閂の軋む音で、彼は飛び上がり、被り物を脱ぎ捨てると、敬意を払って直立し、誰かが言葉を発するのを待った。 ≪33-66≫
※ coiffure: (以下、未確認のGemini訳註) 当時の囚人は、帽子(Bonnet)をかぶっていた。衛生面(シラミ対策)や、囚人であることを一目でわからせる制服の一部として機能した。
「私を呼んだんだね?」と判事が尋ねた。 ≪33-67≫
「ええ、閣下」 ≪33-68≫
「何か、重大なことを伝えたいと?」 ≪33-69≫
「大事なことを言いたい」 ≪33-70≫
「よろしい! それでは、諸君は退出してくれ…」 ≪33-71≫
セグミュラ殿はすぐにルコックと獄長の方に向き直り、皆に持ち場に戻るよう告げようとしていた。しかし、被告は前のめりになって、それを止めた。 ≪33-72≫
「その必要はない」と彼は言った。「むしろ、皆の前で話すほうがとてもありがたい」 ≪33-73≫
「では、話してください」 ≪33-74≫
メに繰り返し命ずる必要はなかった。彼は、四分の三の姿勢をとり、胸を張って、頭を後ろに傾けた。予審の始まりから、雄弁さを披露するたびにとる、いつもの構えだった。 ≪33-75≫
※ de trois quarts: (以下、未確認のGemini訳註) 肖像画や演説者がよくとる、自分を最もよく見せるための「きめポーズ」
「皆さんに言っておきたい」と彼は話し始めた。「俺はとても誠実な人間なんだ。職業は関係ないだろう?珍しいものを見せる一座の口上売りでも、誠実さと名誉心は持っている...」 ≪33-76≫
「おや!… ご高説は無用です」 ≪33-77≫
「お望みとあらば、閣下... 承知した。では、手短に。さっき誰かが俺に小さな紙片を投げつけた。何か意味ありげな数字が書かれていたが、いくら考えても、俺にはさっぱり見当がつかない」 ≪33-78≫
彼は、ルコックが暗号化した紙片を差し出し、判事が受け取ると、こう付け加えた。 ≪33-79≫
「パンの身の団子の中に丸めてあった」 ≪33-80≫
予想だにしない前代未聞の凄まじい一撃で、居合わせた者は皆、明らかに呆然としていた。しかし、囚人はその反応にまるで気づいていないかのように、話を続けた ≪33-81≫
「これを送ってきた奴は、窓を間違えたんだろう。刑務所の仲間を売るのは良くないことだと重々承知している。卑怯だし、そいつに面倒をかけかねない。だが、俺みたいに人殺し呼ばわりされ、ちょいと大きな厄介事を抱えた身では、慎重にならざるを得ないのだ」 ≪33-82≫
恐ろしく意味深長な、首に手を当てる仕草は、彼が「大きな厄介事」と表現したのが何であるか、疑問の余地を残さなかった。 ≪33-83≫
「それでも俺は無実だ」と呟いた。 ≪33-84≫
判事は、誰よりも早く、麻痺した能力を再び自在に操れる状態に戻した。意志の力を全て目に集め、被告を射抜いた。 ≪33-85≫
「嘘をついている!...」と彼はゆっくりと言った。「この手紙はあなた宛てだ」 ≪33-86≫
「俺宛て?... そんなら俺は最大級の大バカ者だ。なぜなら、それを渡すためにあんたを呼び出したのだから。俺宛て? それならなぜ俺は隠さなかった? 俺が受け取ったことを、誰が知っていた? 誰が知ることが出来た?」 ≪33-87≫
すべてが、驚くほど見事に誠実な様子で語られた。メの目はとても澄みきっており、声の調子はとても完璧で、その理屈はとても上手く出来ていたので、動揺した獄長は、再び疑念を抱き始めた。 ≪33-88≫
「もし、あなたが嘘をついていることを、立証したらどうする」とセグミュラ殿は食い下がった。「もし私が、ここで、今すぐ明らかにしたら?」 ≪33-89≫
「まさか!… あんたはそこまでズル賢いのか!… ああ!閣下、失礼、許してくれ、俺が言いたかったのは…」 ≪33-90≫
※ malin
しかし、判事は、相手の言葉遣いを気にする状況にはなかった。 ≪33-91≫
彼はメに黙るように合図し、ルコックに向かって言った。 ≪33-92≫
「捜査官殿、被告に示してくれ」と彼は言った。「あなたが突き止めた通信文の鍵を…」 ≪33-93≫
突然、囚人の表情が変わった。 ≪33-94≫
「ああ!…… 発見したのは、あの警察官だったか」と彼は低い声で言った。「俺のことを大貴族だと主張しているあの捜査官か」 ≪33-95≫
彼は若い刑事を軽蔑の眼差しで眺め、こう付け加えた。 ≪33-96≫
「そうだとすれば、俺の運命も決まった。警察がどうしてもある男を有罪にしたい時には、そいつが有罪だという証拠を作る。常識だよ… そして、囚人が手紙を受け取ってなけりゃ、昇進を望む捜査官が送りつける方法を良く知ってる」 ≪33-97≫
この自称道化師が浮かべた軽蔑の表情に、完全に押しつぶされそうになったルコックは、激怒し、言い返そうとした。 ≪33-98≫
しかし、判事の合図で彼は自制し、テーブルの上のベランジェの詩集を手に取ると、紙片の各数字が、指定されたページの単語に対応しており、それらの単語を繋げば明確な意味を成すことを被告に証明してみせた。 ≪33-99≫
この逃れようのない証拠も、メを困らせなかった。子供が新しいおもちゃに夢中になるように、この通信システムに感嘆した後、彼は、このような陰謀を企てられるのは警察だけだ、と宣言した。 ≪33-100≫
これほど頑強な意志を前にして、一体何が出来ようか?... ≪33-101≫
セグミュラ殿は、これ以上追及しようとさえせずに、同行者たちを従えて退席した。 ≪33-102≫
獄長の執務室に着くまで、彼は一言も発しなかった。しかし、椅子にどさりと腰を下ろすと、こう言った。 ≪33-103≫
「敗北を認めざるを得ない… あの男は、このままずっと変わらない、謎の存在だ」 ≪33-104≫
「しかし、なぜ奴は今、あんな芝居をしたのでしょう?」と獄長は尋ねた。「私には理解できない」 ≪33-105≫
「え!…」とルコックは反応した。「おわかりにならないのですか? あいつは、私が自説を裏付ける目的で、最初の紙片を捏造した、と判事に信じ込ませようとしたのです。その試みは大胆でしたが、大きな成果が得られると魅惑され実行したのでしょう。成功していたら、私の名誉は傷つけられ、奴は誰から見ても文句なしにメのままでいられる。ただ、私が手紙を拾ったこと、そして屋根裏から監視していたことを、奴がどうして知ることが出来たのか?... それだけは、永遠に解明されない気がします」 ≪33-106≫
獄長と若い刑事は、疑念に満ちた視線を互いに交わした。 ≪33-107≫
「おやおや!… 」と獄長は考えた。「確かに、私の足元に落ちたあの紙片は、この抜け目のない若造が仕組んだものではないだろうか?… 相棒のアプサントなら、最初の時も、二度目同様、彼のために行動出来たはずだ…」 ≪33-108≫
「このお人好しの獄長が」とルコックは考えた。「すべてをジェヴロルに話してしまったのではないか?だとすれば、嫉妬深い将軍が、彼流の嫌がらせを僕に仕掛けるのをためらわないはずだ!」 ≪33-109≫
「ああ!… それにしても」とゴゲは叫んだ。「これほど見事に仕組んだ芝居が成功しなかったとは、本当に残念だ!…」 ≪33-110≫
この言葉が、考え込んでいた判事を引き戻した。 ≪33-111≫
「恥ずべき芝居だ!… 」と彼は言った。「真実を突き止めたいという熱意に目が眩んでいなければ、決して許可などしなかった。司法の威厳を傷つける、実にくだらぬ欺瞞に手を貸してしまった!…」 ≪33-112≫
この言葉を聞いて、ルコックは青ざめ、怒りの涙が目に光った。 ≪33-113≫
この一時間で二度目の侮辱だった。被告の言いがかりに続いて、司法からの辱めだ!… ≪33-114≫
「僕はしくじった」と彼は思った。「すっかり見放された!… 当然だ。ああ!… 成功してたら!…」 ≪33-115≫
ただの悔しまぎれから、セグミュラ殿はむごい言葉を口にしてしまった。あれは酷すぎたと、すぐに彼は後悔し、ルコックが忘れてくれるよう、あらゆる配慮を尽くした。≪33-116≫
それで、この不幸な試みの後、彼らは数日の間、顔を合わせた。毎朝、若い刑事が自分の捜査活動の報告に来ると、長い相談になった。 ≪33-117≫
ルコックはなおも捜査を続けていた。絶え間なく浴びせられる嘲りが、かえってその頑固さを鍛え直していた。彼を支えていたのは、冷たい憤怒とでも言うべき感情だ。何年もの間、人の気力を燃やし続ける類の怒りだった。 ≪33-118≫
しかし、判事は完全に気力を失っていた。 ≪33-119≫
「もう終わりだ」と彼は言った。「あらゆる捜査手段を尽くしたよ。私は降参する。被告は重罪院に送られ、メという名のまま、無罪放免か有罪判決のいずれかとなるだろう。この事件について、これ以上考えたくない」 ≪33-120≫
そうは言ったものの、数々の不安、敗北の暗い悲しみ、時に自尊心を傷つける周囲からの揶揄、そして下すべき決断への苦悩が健康を蝕んでいた。遂に彼は病床に伏した。 ≪33-121≫
八日間、彼は自宅から出なかったが、ある朝ルコックが姿を見せた。 ≪33-122≫
※ huit jours: 八日。フランス語では一週間を意味する。日本語でも「一週間後」は起点を含めて数えると八日間だ。二週間はquinze jours(十五日)。
「見ての通りだ、かわいそうな若者よ」と彼は言った。「あの謎めいた殺人犯は、予審判事の大敵だ…… ああ! あいつにまんまとやられたよ。奴は正体を守り抜くだろう」 ≪33-123≫
「そうかもしれません!」と若い刑事は答えた。「この男の秘密を暴く最終手段が残っています。彼を脱獄させるのです…」 ≪33-124≫
※ 初出紙の連載第49回目(1868-7-15)の終わり(7-14は革命記念日特集で小説欄はお休みだった)
(つづく)
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