
当時の50サンチーム銀貨。(参考)10円硬貨は直径23.5mm、重さ4.5g
XXXIII
なんという失望、簡潔すぎて曖昧な手紙だった。居合わせた者たちが、胸を圧せられ、息を切らして見守り、熱狂的な期待が著しく高まっていたというのに。 ≪33-1≫
暗号のままでも、解読しても、この手紙は検察側にとって役に立たぬ武器でしかなかった! ≪33-2≫
期待に輝いていたセグミュラ殿の目から光が消え、ゴゲは、被告は多分切り抜けるだろうという元の意見に戻った。 ≪33-3≫
「なんとも不幸なことだ!」と獄長は皮肉を込めて言葉を放った。「あれほどの苦労とあの驚くべき洞察力が無駄に終わるとは、実に残念だ!」 ≪33-4≫
自信は全く揺るぎないように見えたが、ルコックは小馬鹿にしたような目つきで彼を眺めた。 ≪33-5≫
「まったく!... 」と彼は言った。「獄長殿は私が時間を無駄にしたとお考えなのですね!... 私はそうは思いません。この小さな紙片は、むしろ極めて誇らしげに証明していますよね。被告の正体について誤った判断をした人がいるけれど、それは私ではない、と」 ≪33-6≫
「そうかね!... ジェヴロル殿も私も、もっともらしさに惑わされたのだ。誰しも間違いはある。君の方は何か進展したのか?…」 ≪33-7≫
「ええ、閣下、もちろんです。現時点で、被告が誰ではないかが明らかになりました。なので、私をからかったり邪魔したりする代わりに、彼が誰なのかを見つける手助けが得られるはずです」 ≪33-8≫
若い刑事の口ぶりと、彼が受けてきた非協力的な態度への当てつけは、獄長を傷つけた。しかし、怒りで耳まで血が昇るのを感じた途端、彼は、格下とこれ以上議論しないぞ、と決めた。 ≪33-9≫
「君の言う通り」と彼は厳しい口調で言った。「このメという奴は、きっと高貴な身分で、世間に知られた人物なんだろうな。ただし、親愛なるルコック殿、たった一つの『ただし』なんだが、ぜひお教え願いたい。それほど重要な人物が姿を消したのに、どうして警察に通報がないのだ?… 君が想像する通りの重要な人物なら、普通は、家族、親戚、友人、庇護された者、広範な交際があるものだ。メが私の管轄下に落ちて三週間以上だが、誰一人声を上げた者がいない!… さあ、認めたまえ、捜査官殿、君はそこまで考えが及んでいなかったのだな」 ≪33-10≫
獄長は、検察側の説に対抗できる唯一かつ重大な反論を提示した。 ≪33-11≫
しかし、ルコックはかなり前にその事に気づいており、それがずっと頭から離れず、自らの精神を痛めるほど苦悶し続けてきたのだが、満足のいく答えが見つからないままだった。 ≪33-12≫
痛いところを突かれた者がやりがちだが、おそらく彼は怒りを爆発させるところだった。だが、セグミュラ殿が割って入った。 ≪33-13≫
「これ以上の言い争いは」と彼は落ち着いた声で言った。「我々を一歩も前進させないだろう。この状況を利用する方法について相談するほうが賢明だよ」 ≪33-14≫
それで現実に引き戻され、若い刑事は微笑んだ。敵対心は、全て消え去った。 ≪33-15≫
「その方法はもう見つかっています」と彼は言った。 ≪33-16≫
「ほう!... 」 ≪33-17≫
「そして、閣下、単純さゆえに、絶対失敗しないと信じています。やることはただ、この手紙の書き手による文章を、別のものに書き換えるだけです。通信の鍵を手に入れた今、これほど簡単なことはありません! … ベランジェの歌集を一冊買うだけで済むのです。メは相手が共犯者だと思い込んで、本音をさらした返事を寄こすことでしょう...」 ≪33-18≫
「ちょっと待て!…」獄長が遮った。「どうやって彼に返信させるのかね?」 ≪33-19≫
「ああ!... 閣下、多くを望みすぎです。彼に手紙を渡す手口についてはわかりましたが、それだけでも上出来です… 他のことは、観察し、調査し、確かめるしかありません…」 ≪33-20≫
ゴゲは肯定を示す崩した表情を隠さなかった。十フラン賭けられるなら、ルコックの側に置いただろう。 ≪33-21≫
※ dix francs: ≪1-15≫の換算で九千四百円。≪32-126≫と比較すると賭け金が上がっている。
「まずは」と若い刑事は続けた。「このメッセージを、私の手で別のものに置き換えます... 明日、スープの時間に被告が合図の歌を聴かせたら、アプサント親父が窓からブツを投げ込み、私は監視所からその反応をうかがうのです」 ≪33-22≫
自分の思いつきに酔いしれていたので、彼は勝手にベルを鳴らし、現れた執達吏に、十スー硬貨を渡して、玉ねぎの皮紙の束を買いに行くよう頼んだ。 ≪33-23≫
※ pièce de dix sous: 十スー硬貨。正式には五十サンチーム銀貨。銀90%、直径18mm、重さ2.5g、≪1-15≫の換算で470円。
「狡猾で疑り深い奴らが相手ですから、些細な用心も欠かすわけにはいきません」 ≪33-24≫
紙が届いたが、それは実際、本物の手紙のものと見分けがつかないほどだった。彼は書記官の机に座り、ベランジェの歌集を武器に、謎の差出人が書いた数字の癖をできる限り忠実に模写しながら、偽の通信文を綴り始めた。 ≪33-25≫
この作業には十分もかからなかった。なんらかの失敗を恐れて、彼は本物の手紙に使われていた語句を流用し、意味だけを完全に改変するにとどめた。 ≪33-26≫
彼が書いた内容は次のとおりである。 ≪33-27≫
«Je lui ai dit votre volonté; elle ne se résigne pas. Notre sécurité est menacée. Nous attendons vos ordres. Je tremble.» 「私はあなたの意志を彼女に伝えた。彼女は受け入れない。私たちの安全は脅かされている。あなたの指示を待っています。私は震えている」 ≪33-28≫
書き終えると、彼はその紙を先のものと同じように丸め、パンの団子の中に戻しながら言った。 ≪33-29≫
「明日には何かが判明するはずです!」 ≪33-30≫
明日!… その決定的な瞬間まで、若い刑事を隔てる二十四時間が、まるで一世紀もの長さのように感じられた。のろのろと重い時の翼を早めるために、とりあえず何に祈ったら良いのか!… ≪33-31≫
彼は、アプサント親父になすべき任務を、明確かつ詳細に説明した。すべてを理解させ、そして指示に忠実に従うだろうと確信してから、自分の屋根裏部屋へと引き上げた。 ≪33-32≫
その晩は非常に長く思えたが、夜が更けると更に果てしなく感じられた。というのも、まぶたを閉じることすら出来なかったからだ。 ≪33-33≫
夜が明け、彼が確認すると、囚人はすでに目を覚ましていて、ベッドの端に腰を下ろしていた。やがて床に飛びおり、独房の中をせわしなく歩き回り始めた。いつもと違って、ひどく落ち着かない様子で、身振り手振りを交え、時折、同じ言葉を何度も漏らした。 ≪33-34≫
「なんて重荷だ、神よ!…」と彼は繰り返した。「なんて重荷だ!」 ≪33-35≫
「よし!」とルコックは思った。「お前さん、不安なんだ。毎日届くはずの便りを受け取ってないからな… 焦るな、焦るな。僕が作ったやつが一つ来るぞ…」 ≪33-36≫
ついに、若い刑事は、外で食糧配給前の喧騒を耳にした。人々が行き交い、石畳に木靴が鳴り響き、看守たちが叫ぶ… ≪33-37≫
※ les sabots: 木靴。(以下、未確認のGoogleAI訳註) 農村部や労働者の間で、耐久性が高く安価なサボは、日常的な作業用、あるいは生活用として広く普及していた。素材は主にブナやクルミなどで、職人によって手作りされるのが一般的。
ひびの入った古い時計が十一時を告げると、被告は歌い始めた。 ≪33-38≫
ディオゲネス、
お前のマントにくるまって、
自由で、そして満たされ… ≪33-39≫
彼は三行目を終えなかった。パンの身の団子が床に落ちるかすかな音が、歌を途切れさせたのだ。 ≪33-40≫
ルコックは頭を穴に突っ込み、息をひそめて、全神経を集中して見つめていた。 ≪33-41≫
その男の動き一つ、わずかな震えや、まばたき一つさえ見逃すまいとした。 ≪33-42≫
メは、まず窓の方を見上げ、それから周囲を見回した。この飛来物がどうやって届いたのか、全く理解できない様子だった。 ≪33-43≫
しばらく後、彼はようやくそれを拾う決心をした。手のひらに乗せると、興味深そうに調べ始めた。表情から深い驚きがうかがえた。彼がこの上なく困惑しているのは明らかだった。 ≪33-44≫
しかしやがて、彼の唇に微かな笑みが浮かんだ。「俺はバカか!」と言う感じで肩をすくめ、素早い動作でパンを割った。小さく丸められた紙を見つけて、彼は心配そうになった... ≪33-45≫
「まったく!...」と、ルコックは困惑して自問した。「一体どういう態度なんだ?… 」 ≪33-46≫
被告は紙を広げ、眉をひそめて、並んだ数字の列を凝視していた。それは彼にとって、何の意味も持たないようだった… ≪33-47≫
ところが次の瞬間、独房のドアに飛びつき、拳で激しく叩きながら叫んだ。 ≪33-48≫
「おい!… 看守!… おい!… 」 ≪33-49≫
看守が駆けつけて来た。ルコックは廊下に響く彼の足音を聞いた。 ≪33-50≫
「どうした?」看守はドアの覗き穴越しに尋ねた。 ≪33-51≫
「判事と話したい」 ≪33-52≫
「わかった!… 知らせに行く」 ≪33-53≫
「すぐに、頼む。重大なことを伝えたい」 ≪33-54≫
「すぐ行く!…」 ≪33-55≫
ルコックはそれ以上聞いていなかった。 ≪33-56≫
彼は屋根裏部屋の急な階段を駆け下り、熱狂した歩調で司法宮へ走り、セグミュラ殿に何が起きたかを報告した。 ≪33-57≫
「これは何を示すのか?」と彼は思った。「ついに決着の時が来たのか?... 確かなのは、僕の手紙が被告の決心に何の影響も与えていないということだ。奴は本を使わなければ解読できないはずなのに、指一本触れていない。つまりあれを読んでいないのだ」 ≪33-58≫
若い刑事と同様に、セグミュラ殿も驚愕した。不安を募らせ、大急ぎで、彼らは揃って刑務所に戻った。予審判事の欠かせぬ影である書記官が続いた。 ≪33-59≫
回廊の突き当たりに来たところで、彼らは獄長に出会った。「重大なこと」という重い響きにすっかり興奮してやって来たのだ。 ≪33-60≫
この立派な役人は、おそらく自説を披露しようとしたのだろうが、判事が彼の言葉を遮った。 ≪33-61≫
「すべて分かっている」と彼は言った。「だから駆けつけてきたのだ...」 ≪33-62≫
※ 初出紙の連載第48回目(1868-7-13)の終わり
(つづく)
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