
'cellule' Le Dépôt, Palais de Justice, Photographie d'Albert Brichaut. c.1898 独房、ルコック時代も同じだったと思われる。
XXXII
被告メが入っている狭い独房の上には、屋根を保守するために建築家が設けた屋根裏部屋のような空間があった。 ≪32-1≫
床はタイル敷きで、天井がとても低く、並みの背丈の男なら直立もままならない。スレート板の隙間から漏れたわずかな光が、中をぼんやりと照らしているだけだった。 ≪32-2≫
ある晴れた朝、ルコックはそこに腰を据えた。 ≪32-3≫
囚人が二人の看守の監視のもと、日課の散歩に出ている時間だった。そのため、若い刑事は、すぐさま設営作業に取りかかることができた。 ≪32-4≫
持参した小型のつるはしを振るって、二、三枚のタイルをはがして、床の層を掘り始めた。 ≪32-5≫
掘った穴は漏斗のような形にした。屋根裏の床面では非常に広く、徐々にすぼまり、独房の天井に抜けた所の直径はわずか二センチほどしかなかった。 ≪32-6≫
穴が貫通している場所は、事前に慎重に選ばれていて、ひび割れや漆喰の汚れと混ざり合い、囚人が下から見分けることは不可能だった。 ≪32-7≫
ルコックが作業に励むあいだ、わざわざ同行してきた監獄長とジェヴロルは、屋根裏部屋の入口に立って、ニヤニヤしていた。 ≪32-8≫
「さて、ルコック殿」と獄長は言った。「これからは、ここがあなたの観測所だ」 ≪32-9≫
「おお、そうですね、閣下」 ≪32-10≫
「快適ではないが」 ≪32-11≫
「お考えほど悪くはありません。厚手の毛布を持ってきたので、床に敷いて寝そべります」 ≪32-12≫
「つまり、昼夜を問わず、その穴から監視するんだね?」 ≪32-13≫
「そうです、閣下。昼夜を問わず」 ≪32-14≫
「飲み食いせずにか?… 」とジェヴロルが尋ねた。 ≪32-15≫
「まさか! ビュット・オ・カイユの路地での無益な見張り役から、アプサント親父を呼び戻しました。食事を運んでくれますし、雑用もこなしてくれます。必要なら僕の代わりもしてくれるでしょう」 ≪32-16≫
嫉妬深い将軍は、爆笑したが、作ったような笑いになった。 ≪32-17≫
「おいおい」と彼は言った。「お前は哀れだな」 ≪32-18≫
「そうかもしれません」 ≪32-19≫
「お前が、その穴に目をくっつけて被告を覗き見してる姿が、どんな風か分かるか?…」 ≪32-20≫
「言ってください!… 遠慮なく」
「いいぞ!… お前は、あらゆる種類のちっちゃい虫ケラをガラスケースに入れ、デカい虫眼鏡を通してそれらが蠢く様子を一生眺めて過ごす、愚かな老自然学者のように見える」 ≪32-22≫
※ Fabreかと思ったけど、昆虫記は1879年からだから違うのかな… 出版以前から、界隈では著名だった? (以下、未確認のGemini訳註) 19世紀中頃は顕微鏡の発達や博物学ブームがあり、こうした「実験室に引きこもって観察する学者」へのステレオタイプな揶揄は当時から一般的。
ルコックは仕上げ作業を終え、身を起こした。 ≪32-23≫
「将軍、その比喩は実に的確です」と彼は言った。「ご想像のとおり、あなたが酷く軽蔑する自然学者の研究を思い出して、これから実行することの着想を得たのです。独創的で忍耐強い学者たちは、あなたが仰る小さな虫ケラを顕微鏡で研究し続けるうちに、その生態、習慣、本能をあばくことが出来た… そうです! 彼らが昆虫に対して行ったことを、僕は人間に対して行うのです」 ≪32-24≫
「ほう!ほう!」と獄長は少し驚いて声を漏らした。 ≪32-25≫
「そうなんです、閣下。僕はこの被告の秘密が欲しいのです… 必ず暴きます、誓います。そう、必ず。なぜなら、彼の精神がどれほど強固であっても、一瞬の隙がないはずがない。その瞬間、僕はそこにいる… 彼の意志が挫けたとき、独りだと思い込んで仮面を脱いだとき、ふと我を忘れたとき、眠っている間に不用意な言葉を漏らしたとき、目覚めて冷静さを失ったとき、絶望で嘆きや身振り、視線がこぼれ出たとき… 僕はそこにいる、いつもそこに!」 ≪32-26≫
若い刑事の揺るぎない決意は、その声に抗しがたい響きを与え、監獄長をも揺り動かした。 ≪32-27≫
彼は一瞬、ルコックの推測が正しいのでは?と思い、自分の正体を隠そうと努力する被告と、真実を暴こうと食い下がる予審側との異様な戦いに心を奪われた。 ≪32-28≫
「驚いたよ!… 君」と彼は言った。「大した根性だな」 ≪32-29≫
「だが、全く無駄だ」とジェヴロルは唸った。 ≪32-30≫
疑り深い警部は、確信ありげな口調でそう言ったが、内心は穏やかではなかった。信念は伝染するものであり、彼はルコックの揺るぎない自信に動揺を感じていた。 ≪32-31≫
もしこの新兵が、警察庁の神託である彼、ジェヴロルに勝ったとしたら、なんと不名誉な、なんと馬鹿げたことだろう!… ≪32-32≫
彼は改めて、この活発な小僧を治安局に長居させてなるものかと心に誓った。そして、彼を追い出す方法を考えながら、こう付け加えた。 ≪32-33≫
「こんな馬鹿な仕事に二人も張り付けるほど、警察には金が余ってるんだな!」 ≪32-34≫
若い刑事は、その無礼な物言いに反論しようとしなかった。この二週間、将軍は彼をひどく苛立たせており、議論を始めれば自制心を保てなくなるのでは、と恐れていた。 ≪32-35≫
沈黙を守り、成功を追い求めるほうがよい… 結果を出す! それが嫉妬深い者たちを打ちのめす復讐になるのだ。≪32-36≫
それに、この厄介者たちが早く立ち去ることを彼は待ちわびていた。ジェヴロルなら、何か不自然な物音を立てて囚人の注意を引くことぐらい、やりかねないと考えていたのだ。 ≪32-37≫
ようやく彼らは去った。ルコックは急いで毛布を広げると、その上に長々と寝そべった。そうすれば、あの穴に目と耳を交互に当てることができる。 ≪32-38≫
この姿勢だと、独房の様子が驚くほどよく見渡せた。ドア、ベッド、テーブル、椅子が見えた。視界から外れているのは、窓際のわずかな空間と、窓そのものだけだった。 ≪32-39≫
彼が確認を終えたばかりのとき、閂のきしむ音がした。被告が散歩から戻ってきたのだ。 ≪32-40≫
彼はいたって上機嫌で、非常に面白い話を終えようとしていたのだろう。というのも、看守がその結末を聞こうとして、その場にしばらく留まっていたのだ。 ≪32-41≫
若い刑事は、試験の機会を喜んだ。視界と同じく、音も実によく拾える。まるで集音ラッパを通したかのように、音がはっきりと耳に届いた。彼は、その少々卑猥な物語を、一言も聞き漏らさなかった。 ≪32-42≫
※ cornet acoustique: 集音ラッパ(補聴器) 19世紀に使われていたラッパ型の補聴器具。Wiki "ear trumpet" 参照。
看守が去ると、メは独房の中をあちこち歩き回り、 それから座って、ベランジェの詩集を開いた。それから一時間ほど歌の研究に没頭している様子だったが、最後にベッドに身を投げ出した。 ≪32-43≫
夕食の時間になって、やっと彼は起き上がり、旺盛な食欲で食事を平らげた。それから歌集を再び手に取り、消灯時間になるまで横になろうとはしなかった。 ≪32-44≫
※ extinction des feux: (以下、未確認のGemini訳註) 軍隊や刑務所での「消灯ラッパ」や「消灯規定」を指す。
夜になれば、自分の目が役に立たなくなると、ルコックは良く知っていた。しかし、正体を曝け出す何らかの叫び声を捉えられるのではないか、と彼は期待していた。≪32-45≫
その期待は裏切られた。メは寝具の上で苦しそうに寝返りを打ち、また寝返りを打って、時折うめき声をあげた。すすり泣いているように聞こえたが、意味をなす言葉は一言も発しなかった。 ≪32-46≫
被告は翌日も遅くまで寝ていた。しかし、午前中の食事を告げる十一時の鐘が鳴ると、飛び起きて、独房の中で、飛んで空中で足を繰り返し交差させる動作を数回繰り返した後、古い歌を朗々と歌い始めた。 ≪32-47≫
※ entrechats: バレエ用語で「跳び上がって空中で足を交差させる技法」を指す。
ディオゲネス、
お前のマントにくるまって、
自由で、そして満たされ、俺は笑い、気兼ねなく酒を飲む… ≪32-48≫
※ Diogène: マント一丁で樽の中に住み、権威を冷笑した古代ギリシャの犬儒派哲学者。
※ この歌はLE NOUVEAU DIOGÈNE。Bon voyage, cher Dumollet のメロディで、という指定がある。これはベランジェ(1780-1857)が百日天下のさなか、1815年4月に書いた歌謡詩。ディオゲネスに自分を重ね、「自由に酒を飲む。政治的混乱?知らん。ブルボン派かナポレオン派か?俺はどちらでもない」と歌う。仏wikisourceに全文と楽譜あり。
看守たちが入ってきたときだけ、彼は歌うのをやめた… ≪32-49≫
前日がそうやって過ぎたように、その日もそうやって過ぎ、翌日も同じように過ぎ、その次の日も全く同様に過ぎた… ≪32-50≫
歌う、食べる、眠る、手と爪の手入れをする、それがこの自称 旅芸人の日課だった。その様子はいつも変わらず、いかにも陽気な性分の男が、心底退屈しているようだった。 ≪32-51≫
この謎めいた人物が演じ続ける芝居は完璧で、ルコックが六日間、昼も夜も、屋根裏部屋に這いつくばって過ごしても、決定的な油断の瞬間を掴めなかった。 ≪32-52≫
しかし、彼は絶望からほど遠かった。食糧の配膳で刑務所の職員たちが忙しい時間に、毎朝、被告が決まって『ディオゲネス』の歌を繰り返していることに気づいていたのだ。 ≪32-53≫
「明らかに」と若い刑事は独りごちた。「この歌は合図だ。となれば、僕の見えない窓の辺りでは何が起こっているのか?… 明日、確かめよう」 ≪32-54≫
実際、翌日になると、彼はメの散歩時間を十時半に繰り上げさせることに成功し、獄長を囚人の独房になんとか連れて行った。 ≪32-55≫
立派な役人は、平穏を乱されて不機嫌だった。 ≪32-56≫
「何を見せてくれるんだ? 」と彼は繰り返した。「何か珍しいものが、ここにあるのか?…」 ≪32-57≫
「何もないかもしれません」とルコックは答えた。「もしかしたら、非常に重大な何かが出てくるかも… 」 ≪32-58≫
そして十一時の鐘が鳴り響くと、彼は被告の歌を朗々と歌った。 ≪32-59≫
ディオゲネス、
お前のマントにくるまって… ≪32-60≫
二番目の詩節を歌い始めたとき、窓の庇の下を巧みに抜けて、弾丸ほどの大きさのパンの塊が、彼の足元に転がってきた。 ≪32-61≫
※ grosseur d'une balle: (以下、未確認のGemini訳註) 1850年代の「弾丸」のサイズ感。
• 軍用マスケット銃(ゲベール銃など): 当時の主流はまだ17mm〜18mm(.70口径近く)の大口径。
• 初期のライフル弾(ミニエー弾): 1850年代に普及し始めたミニエー弾も17.8mmほど。
• 拳銃(ピストル): 護身用の単発ピストルなども大口径が多く、12mm〜15mm程度はザラ。
ピストルは将校用なので、一般的イメージはライフルの直径18mm程の球形のものだろう。
※ 初出紙の連載第46回目(1868-7-11)の終わり
(つづく)
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