
(左) Boulevard Beaumarchais, 1900
(右) coin boulevard Beaumarchais et rue de la mule, Paris, 01/06/1914 - 30/06/1914, Stéphane Passet(1875-1941)
≪30-94≫以降のカフェがあるあたりの風景
XXXI
湖の真ん中に重い石を投げ込むと、大きな水しぶきが上がり、水全体が岸辺まで波立つ… しかし、大きな動きは一分間しか続かない。波紋は円が広がるにつれ弱まり、水面は再び静けさを取り戻す。やがて石は底の泥に埋まり、その痕跡はまったく残らない。 ≪31-1≫
毎日の生活の中で、事件が起きたときも同じだ。どれほど巨大に見えて、その衝撃が何年も続くと思われても、それは違う! 時は、湖の水より速やかに痕跡を塞ぎ、事件は石よりも早く、過去の深淵へと滑り落ちていく。 ≪31-2≫
そういうわけで、十五日も経てば、パリを震撼させ、各紙が騒ぎ立てたシュパン婆の酒場での惨劇、あの三重殺人は、シャルルマーニュ治世の名もなき殺しよりも、人々の記憶から消え去っていた。 ≪31-3≫
まだ覚えていたのは、司法宮、警視庁、そして監獄だけだ。 ≪31-4≫
セグミュラ殿の努力も、神かけて彼は手を抜かなかったのだが、ルコックの努力と同様、何の成果も得られずにいた。 ≪31-5≫
幾多の尋問、巧みに組んだ対決尋問、誘導尋問、暗示、脅し、便宜の約束、それら全ては、人間が持つ最も強い無敵の力、つまり惰性によって打ち砕かれてしまった。 ≪31-6≫
※ confrontations: 「対質」複数の証人を一緒に尋問して反応を見る形式の尋問。予審判事マニュアル第七章第二節参照。
※ force d'inertie: 物理用語の「慣性」、ここは「惰性」とする。
シュパン後家とポリット、美徳のトワノン、マリアンブールホテルの女将ミルナー夫人も、同じ気持ちで対応しているようだった。 ≪31-7≫
多くの証言内容から、これら証人たちが皆、共犯者に言いくるめられ、同じ巧妙な策略に従っているのが明らかだった。しかし、そんな事がわかったとて! ≪31-8≫
司法を欺くために結びついた連中の態度は、全く揺るがなかった。時として、その視線がふと裏切ることもあったが、彼らの瞳から、本当のことは喋らないぞ、という不動の決意が読み取れた。 ≪31-9≫
この判事は、この上なく善良な性格だったが、道徳的にきれいな手段だけでは不十分だという思いが強くなり、異端審問で使われた拷問器具を懐かしむ瞬間もあった。≪31-10≫
そう、侮辱同様の図々しい言い逃れを前にして、彼は中世の裁判官たちが振るった残虐な仕打ちに共感してしまった。囚人の筋肉を砕く楔、赤熱した鉗子、水責め、真実を肉もろとも引き剥がす恐ろしい拷問の数々。 ≪31-11≫
殺人者もまた、役柄を維持し、毎日、その演技に磨きをかけ、完成度を加えていった。最初は窮屈に感じていた他人の服に次第に馴染んでいく人のようだった。 ≪31-12≫
判事の前に立つ彼の態度は、以前にも増して図々しくなった。自信を深めたようでもあり、また、隔離され外部との接触が断たれているはずなのに、予審が一歩も進んでいないという情報を得ているようにも見えた。 ≪31-13≫
直近の尋問の際、彼はあえて、非常にはっきりと皮肉を込めて、こう言った。 ≪31-14≫
「判事殿、俺をいつまで隔離房に閉じ込めておくつもりだ?… 釈放されるか、さもなくば重罪院に送られるべきではないか? あんたが一体どうやって思いついたのか知らんが、俺がどこぞの大物だという考えに、いつまで付き合わなきゃならんのだ!… 」 ≪31-15≫
※ cour d'assises: 殺人などの重大事件を扱う「重罪院(刑事裁判所)」
「出しませんよ」とセグミュラ殿は答えた。「あなたが自白するまで 」 ≪31-16≫
「自白って、何を?... 」 ≪31-17≫
「ほう! 良くご存じでしょう… 」 ≪31-18≫
頭の中が読めないこの男は肩をすくめ、いつもの半分悲しく半分人を食った嘲笑的な口調で答えた。≪31-19≫
「そうかい、じゃあ、この忌々しい小屋から出る日は、当分来そうにないな!...」 ≪31-20≫
現状が判ったので、彼は無期限の拘留に備え始めたようだ。 ≪31-21≫
自分のトランクの身の回り品のうち、一部だけの返還を勝ち取ったが、その品々が手元に戻った際には、子供のような喜びを見せた。 ≪31-22≫
逮捕時に押収されて、書記課が預かっていた現金のおかげで、彼は未決囚に常に許されている小さな贅沢を享受していた。結局のところ、被告は、どんな罪に問われていても、陪審員が評決を下すまでは無罪と見なされる存在なのだ。 ≪31-23≫
気晴らしにと、ベランジェの歌集を所望して手に入れると、彼は一日中かけてそれを暗記した。そして、朗々と、なかなかの情緒を込めて、曲を歌い上げた。 ≪31-24≫
※ Béranger: Pierre-Jean de Béranger(1780-1857) 19世紀フランスで絶大な人気を誇った民衆詩人・作詞家。自由主義的で風刺のきいた歌が多く、庶民に愛された。当時の現物を見ると、楽譜付きのもあった。
それは今のうちに身につけておくべき芸であり、自由の身になった時に必ず役に立つはずだ、と彼は主張した。 ≪31-25≫
※ quand on lui rendrait la clef des champs: (以下、未確認のGemini訳註)「野原の鍵を返してもらうとき」慣用句で「自由の身になる」「釈放される」という粋な言い回し。
自分の無罪放免は間違いないんだ、そう彼は断言した。 ≪31-26≫
判決の時期は気にしていたが、結果は全く心配していなかった。 ≪31-27≫
彼が悲しみに襲われるのは、自分の職業について話すときだった。仮設舞台を懐かしく思っていた。道化師のまだら模様の衣装、観客、縁日の狂騒的な調べに乗せて喋っていた、あの客寄せの口上を思い出すと、今にも泣き出しそうになった。 ≪31-28≫
そうでない時には、これほど率直で、話し好きで、従順で、最高に無邪気な奴はかつて見たことがなかった。 ≪31-29≫
彼は、おしゃべりする機会を熱心に求めていた。自分の人生、冒険、そして見世物興行師シンプソン殿に付き従ってヨーロッパ中を放浪した旅の思い出を語るのが好きだった。
≪31-30≫
見聞が豊富な彼は、記憶も豊富で、面白い小話や下ネタの尽きせぬ蓄えがあり、看守たちも笑い転げるばかりだった。 ≪31-31≫
そして、この非常におしゃべりな男のあらゆる言葉や、何気ない動きにも、あまりに自然な響きが備わっていた。監獄の面々が、彼の主張の真実性を疑うことは、もうなかった。 ≪31-32≫
しかし、納得させるのが一番難しかったのは、獄長だった。
≪31-33≫
この自称「口上屋」は、危険な前科者であり、忌まわしい過去を隠しているに違いないと、彼は断定し、立証するために、あらゆる手段を尽くした。 ≪31-34≫
十五日間、毎朝、治安局の正規及び非正規の捜査官たち全員がつぎつぎと招集され、メの面通しに参加した。 ≪31-35≫
その後、刑務所の住人を知り尽くしていることで有名な約三十人の徒刑囚に引き合わされた。この鑑定のためだけに、わざわざ監獄へと移送されてきたのである。 ≪31-36≫
※ forçat
誰も彼を知らなかった。 ≪31-37≫
彼の写真は全ての流刑地、全ての重罪刑務所に送られたが、風貌に見覚えがある者は、一人もいなかった。 ≪31-38≫
※ bagne: 「徒刑場、流刑地」
※ maison centralesp: 「重罪刑務所」
こうした事柄に、さらに別の事情がいくつか加わった。いずれも無視できないほど重要で、被告の主張を裏付けていた。 ≪31-39≫
警視庁の第二局、すなわち犯罪者名簿を管理する部門は、トラングロという名の「旅芸人」の実在を示す確かな痕跡を突き止めた。この男は、まさにメが語っていた物語の登場人物と合致した。当該トラングロは数年前に死亡。さらに、ドイツやイギリスへの照会結果から、あらゆる縁日会場でよく知られたシンプソンなる人物が、確かに実在していた。 ≪31-40≫
※ sommiers judiciaires: 「犯罪者名簿」「司法記録」。
このような証拠を前にして、獄長は降参し、自分が間違っていたことをはっきり認めた。 ≪31-41≫
「被告メは」と彼は予審判事に書いた。「現実的かつ真実に本人が主張する通りの人物であります。この点に関し、もはや疑念の余地はございません」 ≪31-42≫
そして、ジェヴロルの最終的な意見も同じだった。 ≪31-43≫
こうして、セグミュラ殿とルコックだけが、自分の見解に固執して取り残された。 ≪31-44≫
予審の詳細が厳重に秘密にされていたので、全てを知っていたのは彼ら二人だけだった。そのため、彼らだけしか正しい判断が出来なかったのはやむを得ない。 ≪31-45≫
しかし、それは問題ではない! たとえ千倍の千倍、自分が正しいとしても、全てを敵に回して戦うのは常に苦痛であり、危険でさえある。 ≪31-46≫
「メ事件」これが呼び名だが、その情報は外部に漏れ出していた。そのため、若い刑事が警視庁に姿を見せると、下品な野次が浴びせられ、予審判事も同僚のやんわりした皮肉から逃れられなかった。 ≪31-47≫
廊下ですれ違う判事たちの多くが、口元に笑みを浮かべ、ガスパール・ハウザーや鉄仮面、謎めいた道化師はどうなったのかと尋ねた。 ≪31-48≫
※ Gaspard Hauser: 19世紀前半、長年暗い独房に閉じ込められていたという出自不明の謎の少年。
※ homme au masque de fer: 17世紀フランスの伝説的な囚人「鉄仮面」
それゆえ、セグミュラ殿とルコックの心中には、苛立ちが募った。絶対の確信がありながら、それを証明する手立てを持てない者の苛立ち。 ≪31-49≫
二人とも食欲を失い、痩せこけ、顔色が悪くなっていった。 ≪31-50≫
「ああ、神よ!...」時折、判事は言った。「なぜデスコルヴァルは転んだ!...あの忌々しい転倒さえなければ、この苦労はすべて彼が背負っていた。そして、私は今頃他の連中と同じく笑っていたのに!」 ≪31-51≫
「そして、僕は、自分を有能だと思っていた!」と若い刑事は呟いた。 ≪31-52≫
しかし、降参する考えは全く無かった。本質的に二人は正反対の気質であったが、それぞれが心の内で、この苛立たしい謎の答えを見つけてやる、と誓っていた。 ≪31-53≫
そこでルコックは、外での捜査を断念し、被告そのものの観察に、専念することを決意した。 ≪31-54≫
「これからは」とセグミュラ殿に言った。「私も奴と同じように囚人となります。気づかれないようにして、決して奴から目を離しません!」 ≪31-55≫
※ 初出紙の連載第45回目(1868-7-10)の終わり
(つづく)
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