十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載42(第1部第30章の1)

(左) Esplanade des Invalides, 1860s, by Florent Grau (生没年不詳, fl. 1855-1864)。ステレオ写真から。

(中) Esplanade des Invalides, 1870?, 制作者不詳。ステレオ写真から。
(右) Esplanade des Invalides, c1880, 制作者不詳。ステレオ写真から。

 

XXX

宝石商の目があるうちは、ルコックも、自身の受けた衝撃を何とか隠し通すことが出来た。 ≪30-1≫

しかし、店を出て、歩道を数歩 歩くと、溢れる歓喜に身を委ねた。驚いた通行人が、この好青年は狂ってるのでは、と疑うほどだった。歩くというより踊るように、実におどけた身振りを交えながら、勝利の独り言を風に撒き散らした。 ≪30-2≫

「ついに!…」と彼は言った。「この事件は、これまで蠢いていた深い闇から、ようやく姿を現したのだ。僕が予想した通りの高貴な人物たち… この劇の真の主役たちにたどり着いたのだ。ああ! ジェヴロル様、名高い将軍よ、あなたはロシアの公女をお望みだった! でも、ただの侯爵夫人で満足していただきましょう… これで精一杯なんです!」 ≪30-3≫

しかし、眩暈のような興奮は次第に静まり、良識が戻ってきた。 ≪30-4≫

この遠征で良い成果を得るためには、最大限の冷静さだけでは足りず、持てる手段のすべて、そして鋭い洞察力のすべてが必要だと、若い刑事は良く知っていた。≪30-5≫

その侯爵夫人と対峙したときに、どうやったら隠しごとのない告白を得られ、どうやったら殺人の場面の詳細から殺人犯の名前までを、彼女から引きずり出せるのか? ≪30-6≫

「脅し文句を武器に」と彼は考えた。「彼女を怖がらせるのだ。すべてがそこにかかっている!… 我に返る時間を与えたら、何も聞き出せないだろう」 ≪30-7≫

彼は途中でやめた。ダルランジュ侯爵夫人の邸宅、中庭と庭園の間に建つ魅力的な邸宅の前に到着したのだ。敷地に入る前に、中の偵察が不可欠と考えた。 ≪30-8≫

「つまりここで」と彼は呟いた。「謎の答えが見つかるだろう。あの夜逃げ出した女が、この豪華なモスリンのカーテンの裏側にいて、恐怖で死ぬ思いをしている。耳飾りを失くしたと気づいてから、どれほど不安に苛まれていることか… 」 ≪30-9≫

一時間近く、馬車が通る大門の陰に身を潜め、彼は観察を続けた。この壮麗な館の住人の誰かを垣間見たいと望んでいた。無駄な張り込みだった! 窓ガラスに顔を見せる者も、中庭を横切る召使もいなかった。 ≪30-10≫

痺れを切らし、彼は近隣で聞き込みを始めることにした。 ≪30-11≫

相手が見当もつかない状態で、決定的な行動に出るわけにはいかない。 ≪30-12≫

摂政時代の放蕩小説のように下層階級に紛れ、夜になるとシュパン婆の酒場で遊びまわる、この大胆な女性、その夫は、いかなる男なのだろう? ≪30-13≫
※ romans régence: (以下、未確認のGemini訳註) 18世紀、ルイ15世の摂政時代を舞台にした、貴族の不道徳で享楽的な生活を描いた風俗小説。代表的な作家はCrébillon fils(1707-1777)、時代は少しズレるがラクロ『危険な関係』(1782)が近い感じか。

ルコックは誰に、そして、どこで尋ねるべきかと思案していたが、通りの向こうの店の入口で煙草をくゆらす立ち飲み屋の主人に気づいた。 ≪30-14≫

まっすぐその男のところへ行き、住所を忘れて困っている男をうまく演じながら、礼儀正しくアルランジュ邸の場所を尋ねた。 ≪30-15≫

無言のまま、口からパイプを離そうともせず、主人は腕で方向を示した。 ≪30-16≫

しかし、おしゃべりにする方法が一つあった。店に入り、何か飲み物を注文して、主人に一杯奢ると持ちかけることだ。 ≪30-17≫

若い刑事はそれを実行した。そして、満たされた二つのグラスが魔法のように、立派な商人の口をほぐした。 ≪30-18≫

情報を得るのに、これ以上適切な所はなかった。彼はこの地区に十年も店を構え、近隣の屋敷に仕える多くの紳士様を顧客に持つという栄誉に浴していたのだ。 ≪30-19≫
※ messieurs les gens de maison: (以下、未確認のGemini訳註) 使用人の丁寧な言い方らしい。革命後の民主化をいささか反映した皮肉っぽいニュアンスだろう。

「まったくね」と彼はルコックに言った。「もしあんたが、取り立てで侯爵夫人のところへ行くんなら、可哀想だなあ。お金を実際に拝めないまま、屋敷までの道をじっくり覚えることになるだろう。あそこの呼び鈴は、債権者たちがずっと鳴らすんで、冷える暇が無いらしいよ」 ≪30-20≫

「困ったな!… ではあの方は貧乏なんですか?」 ≪30-21≫

「彼女が!... あの屋敷は別としても、優に二万リーヴルの年金があるようだ。だがまあ、わかるでしょ、収入の倍、毎年使ってれば... 」 ≪30-22≫
※ livres: 古い貨幣単位。フランの俗称となっていた。二万フランは≪1-15≫の換算で千九百万円。

彼は言葉を切り、若い刑事に通りかかった二人の女性を示した。一人は四十を過ぎた黒い服の女、もう一人はまだ若く、寄宿学校の女生徒のような身なりだった。 ≪30-23≫

「ほら、ご覧」と彼は言い足した。「今、通り過ぎたのが侯爵夫人の孫娘クレール嬢。家庭教師のシュミット嬢と一緒だ」 ≪30-24≫
※ gouvernante

ルコックの目の前が真っ暗になった。 ≪30-25≫

「お孫さん?...」声が震えた。 ≪30-26≫

「ああそうだ... 正確に言えば、亡くなった息子さんの娘だね」 ≪30-27≫

「では、あの方は、おいくつなのですか?」 ≪30-28≫

「六十歳は超えてるだろう。だがまあ、そんな風には見えないかな、うん。石灰と砂で固めた丈夫な婆さんで、木みたいに百年は生きる。おまけに、なんとも意地悪だ!... こんなこと、婆さんに面と向かって言えないね。このブランデーを飲み干す前に、ひっぱたかれる... 」 ≪30-29≫

「失礼」若い刑事は遮った。「その邸宅に、彼女の夫や子供は住んでいないのですか?」 ≪30-30≫

「とんでもない!… 婆さん一人と、孫娘と家政婦、そして使用人が二人だけだよ… おや、どうしたんだい?」 ≪30-31≫

というのは、哀れなルコックが、シャツよりも白くなったからだ。頼みの綱だった驚異の建造物が、この男の言葉によって、子供がつくる脆いトランプの家のように崩れ落ちた。 ≪30-32≫

「何でもありません」と彼は動揺した声を出した。「ええ!… 何でもないんです」 ≪30-33≫

しかし、確かめないのは苦痛で、十五分も耐えられそうになかった。彼は代金を支払い、邸宅の門のベルを鳴らした。 ≪30-34≫

使用人がドアを開けたが、彼を疑わしい目で見た後、侯爵夫人は田舎にいると答えた。 ≪30-35≫

明らかに、彼は債権者の一人となる栄誉を受けたようだ。≪30-36≫

しかし、彼は巧妙に食い下がった。お金の請求に来たのではないことを良く理解させ、緊急の用件だと強く訴えたため、使用人は折れ、奥様が本当に外出したのかもう一度確かめてくると言って、彼を玄関ホールに一人残した。 ≪30-37≫

夫人は外出してなかった。すぐに側仕えが戻って来て、ルコックに ついてくるよう指示し、かつての贅沢が色褪せた大広間を通り抜け、案内されたのはバラ色の布地が張り巡らされた婦人の私室だった。 ≪30-38≫

暖炉のそばの寝椅子に、見た目が恐ろしい老婦人が腰かけていた。背が高く骨ばった身体で、過剰に着飾り、厚過ぎる化粧をしており、緑の毛糸を編んでいた。≪30-39≫

彼女は、若い刑事が顔を赤らめるほど、じろじろ品定めした。彼が気圧されているように見えたので、彼女の自尊心がくすぐられ、いくぶん穏やかな調子で口を開いた。 ≪30-40≫

「さて! 坊や」と彼女は尋ねた。「一体、何の用で来たんだい?」 ≪30-41≫

ルコックは気圧されていなかった。しかし、ダルランジュ夫人がシュパン婆の酒場にいた女たちの一人ではあり得ないことを改めて痛感した。 ≪30-42≫

パピヨンが伝えた人相風体は、何一つ、この女に当てはまらなかった。 ≪30-43≫

そして、若い刑事は、二人の逃亡者が雪に残した足跡がどれほど小さかったかを思い出した。だが、ドレスから出ていた侯爵夫人の足は、壮烈に大きかった。 ≪30-44≫

「何だい! あんた、口がきけないのかい?」老婦人は声を荒らげた。 ≪30-45≫

それには答えず、若い刑事はポケットから貴重な耳飾りを取り出し、それを小机(シフォニエール)の上に置いて言った。 ≪30-46≫
※ chiffonnière: 裁縫道具などを入れる多引き出しの小机。

「これをお届けに参りました、奥様。僕が見つけたのですが、あなた様のものだとお聞きしましたので」 ≪30-47≫

ダルランジュ夫人は編み物を置いて、その宝石をじっくり調べた。 ≪30-48≫

「確かに間違いない」しばらくして彼女は言った。「この耳飾りは私のものだった。気まぐれで四年前に買ったんだ。優に二万リーヴルはしたよ。ふん!… このダイヤを売りつけたドワスティ氏は、さぞかし美味しい思いをしただろうさ。だがね、私には養ってる孫娘がいる!……その後、物入りになって、心残りはあったけど、この装飾品を手放さざるを得なかった。それで、譲った」 ≪30-49≫

※ sieur: 「氏」と訳した。

「どなたに?…」とルコックは急いで尋ねた。 ≪30-50≫

「おや!… 」侯爵夫人は憤慨した。「何だい、不躾だね!」 ≪30-51≫

「お許しください、奥様。この美しい品物の持ち主をどうしても見つけたいのです… 」 ≪30-52≫

ダルランジュ夫人は、若い訪問者を好奇心と驚きに満ちて見つめた。 ≪30-53≫

「馬鹿正直か!… 」と彼女は言った。「おやおや!… で、懐は一文無しかね… 」≪30-54≫

「奥様!… 」 ≪30-55≫

「よし!よし!… 図星でも、ひなげしみたいに真っ赤になるんじゃないよ、坊や。この耳飾りはね、あるドイツの貴婦人に譲った-----オーストリアにいる貴族様は、まだいくらか財産をお持ちだからね-----ド・ヴァッショー男爵夫人という方だ」 ≪30-56≫
※ noblesse a encore quelque fortune en Autriche: 革命で財産を失ったフランス貴族と比較して、まだ金を持っている外国貴族、という趣旨だろう。

※ de Watchau: 貴族の「ド」は省略するのが普通のようだが、本訳では、いろいろ考慮して、貴族の苗字の「ド」を全部残す。第二部XXVII章以降を参照。デスコルヴァル、ダルランジュも隠れたde付きの苗字。

※ Watchau: ドイツ語風に「ヴァッショー」で良いか。フランス読みなら「ワッショー」だろう。

「では、その貴婦人はどちらにお住まいなのですか、侯爵夫人?」 ≪30-57≫

「ペール・ラシェーズさ。去年だけど、あっけなく死んじまった… 今の女は、ワルツを一周りして隙間風にあたったら、もうおしまい! 私の若い頃は、激しい踊り(ギャロップ)を終えるたび、甘いワインを一杯やって、風が通るところで涼んだもんさ… それでも、ご覧、私達は元気だよ」 ≪30-58≫
※ Père-Lachaise: パリ市最大の墓地。良く調べていませんが、有名です。
※ galop
※ se mettre entre deux portes: (以下、まだ未確認のGrok訳註。なおGeminiも同じ回答、だが私は慎重なのだ)「二つのドアの間に立つ」舞踏会で良く使われた表現。激しいダンスの後で、風が通る場所に身を置き、身体を冷やす、という意味。

「しかし、奥様」と若い刑事は食い下がった。「ド・ヴァッショー男爵夫人には相続人がおられたはず、ご主人や子供たちは?」 ≪30-59≫

「ウィーン宮廷で役職に就いている兄が一人いるだけで、その男はこちらに来られなかった。妹の遺産をすっかり残らず、衣装まで競売にかけろと指示を寄越して、お金はあっちに送られた」 ≪30-60≫

ルコックは絶望の様子を抑えきれなかった。 ≪30-61≫

「なんたる不運だ」と彼は呟いた。 ≪30-62≫

「え?… なんで?… 」と老婦人は言った。「この件で、あんたにはダイヤモンドが残った。まあ良かったじゃない。馬鹿正直への、当然のご褒美だろ」 ≪30-63≫

※ 初出紙の連載第43回目(1868-7-8)の終わり

(つづく)
 
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