十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載41(第1部第29章)

(左) Rue de la Paix, Ernest Ladrey(1830-1889) 1860s

(右) Rue de la Paix, Paris, with the column of Vendôme, Anonymous, c. 1860 - c.1885、立体写真から復元。

 

XXIX

一人残されたセグミュラ殿は、はっきりした意志というより、むしろ習慣という本能的な働きに導かれ、自分の執務室への道を辿った。 ≪29-1≫

知性の全能力は「あの事件」に向けられており、そのことに気を取られすぎて、普段礼儀正しい彼が、通りすがりに受けた挨拶に、返礼を忘れていた。 ≪29-2≫

これまで、どのように事を進めたか? 偶然任せだ。気まぐれな出来事に沿って、最も急を要すると、とりあえず彼がそう判断した事柄へと突き進んできた。暗闇で道に迷った人のように、指針もなく、遠くに見える光に向かって、ただ闇雲にさまよっていた。 ≪29-3≫

あてもなく走っていても、無駄に体力を消耗するだけだ。計画を立てなければならない、それが避けられない急務だと認めざるを得なかった。 ≪29-4≫

奇襲によって一気に陥落とはいかなかったのだ。今や、正攻法の包囲戦という、組織的で緩慢な手順に甘んじるしかない。 ≪29-5≫

それでも彼は先を急いだ。時間をどんどん無駄にしていると感じていた。時間は闇を深めるものであり、発生した時点から遠ざかるほど、犯罪の解明が困難になると、彼は知っていた。 ≪29-6≫

なんと多くのやるべきことが残されていることか。 ≪29-7≫

殺人犯、シュパン後家、ポリットを犠牲者の遺体と対面させるべきだったのではないか? ≪29-8≫

こうした陰惨な対面は、思いもよらぬ成果をもたらすことがある。 ≪29-9≫

人殺しルヴェールは、証拠不十分で釈放寸前だったが、不意打ちで犠牲者の前に立たされたとき、顔色を変え、不遜な態度を失った。出し抜けの質問が、彼から自白を引き出した。 ≪29-10≫
※ Leverd: 調べつかず。

セグミュラ殿には、ほかにも尋問すべき証人たちがいた。辻馬車の御者パピヨン、二人の女が一時逃げ込んだブルゴーニュ通りの屋敷の管理人、そしてマリアンブールホテルの女将ミルナー夫人。 ≪29-11≫

同様に、一刻も早く事情を聴く必要がある相手が他にもいるのではないか? 『胡椒入れ』界隈の住人数名、ポリットの仲間たち、そして犠牲者たちと殺人犯があの夜のひとときを過ごした『天弓』舞踏場の経営者たち。 ≪29-12≫

むろん、これら証人の一人ひとりから、大きな進展が得られるとは期待できなかった。ある者は事実を知らず、またある者は、いまだ判らぬ利害関係ゆえに、事実を歪曲して語るだろう。 ≪29-13≫

それでも、彼らはそれぞれに憶測を述べ、何かしら口にし、意見を出し、あるいは作り話をすることだろう。 ≪29-14≫

そこで、予審判事の才能が光り輝く。多くの矛盾する供述を突き合わせ吟味する作業を何度も行って、嘘の山から真実に近い平均値を導き出せる能力を磨いて来たのだ。 ≪29-15≫

笑顔の書記官ゴゲが、判事の指示に従って十数通もの召喚状を書き終えたところに、ルコックが戻ってきた。 ≪29-16≫

「どうだった?… 」と判事は叫んだ。 ≪29-17≫

実のところ、その問いは無用だった。足を運んだ結果は、若い刑事の表情にはっきりと表れていた。 ≪29-18≫

「駄目でした」と彼は答えた。「また駄目でした」  ≪29-19≫

「何だって!… 監獄のポリット・シュパンに面会するための許可証を、誰に発行したか分からないのですか?」 ≪29-20≫

「そうではないのです、閣下。それは判明したのですが、またしても、あらゆる隙を突く、あの共犯者の悪魔的な知略の痕跡が見つかったのです。昨日使われた許可証は、シュパン後家の姉、モンマルトルで青果商を営むローズ=アデライド・ピタールの名義でした。この許可証は、八日も前に、警察署長の添え書き付き申請書に基づいて発行されています。申請書には、ローズ・ピタールなる女が、家族間の揉め事を解決するために妹に会う必要がある、と記載されていました。 ≪29-21≫
※ soeur: シュパン後家は≪16-79≫で五十四歳、ローズ・ピタールは≪29-25≫で六十歳くらい、と書かれている。したがってピタールが姉、シュパン後家が妹。
※ huit jours: 八日前はおかしい。この時点は事件の二日後。八日前ならシュパン後家は逮捕など夢にも思わない状態。なので、十五日前に捕まった(≪25-59≫)ポリットに会うため、が正しいはず。実際、面会したのはポリットとピタールである。つまり「妹に会う必要」は作者の間違いで「妹の息子に会う必要」に修正すべきだろう。

判事の驚きはあまりに大きく、その表情はほとんど滑稽なほど歪んだ。 ≪29-22≫

「その叔母も共謀者なのか!… 」と彼は呟いた。 ≪29-23≫

若い刑事は首を振った。 ≪29-24≫

「そうは思いません」と彼は答えた。「少なくとも、昨日監獄の面会室にいたのは彼女ではありませんでした。警視庁の職員たちは、シュパン婆の姉のことをよく覚えていて、人相風体も把握しています… 身長五ピエ(162センチ)以上、濃い黒髪、皺が深く、雨風と日光で鞣された肌の、六十歳くらいの女性です。ところが、昨日の訪問者は小柄で、金髪、色白、少なくとも四十五歳を超えていない感じ...」 ≪29-25≫
※ pied: (以下、未確認のGemini訳註) 当時なら旧単位のイメージだろう。32.48cm (メートル法以降は30.5cmが正しい) なお、当時の女性の平均は概ね 150cm台前半(152cm〜155cm程度)

「しかし、そうだとすれば」とセグミュラ殿が口を挟んだ。「その訪問者は、例の逃げた女の一人に違いない」 ≪29-26≫

「そうは思いません」 ≪29-27≫

「では、あなたの考えでは、彼女は誰だと思いますか?」 ≪29-28≫

「はい!... マリアンブールホテルの女主人、私を見事に手玉に取ったあの食わせ者でしょう。だが、今に見ているがいい!... 私の疑惑を確かめる手立てはあるのですから...」≪29-29≫

判事は、その言葉をほとんど聞いていなかった。殺人犯の正体を隠し通すために、全てを危険にさらす者たちの、想像を絶する大胆さと驚くべき献身に、圧倒されていた。 ≪29-30≫

「あとは、」と彼は口を開いた。「共犯者がどうやってこの通行証の存在を知り得たか、そこを突き止めたいね」 ≪29-31≫

「ああ! それは簡単なんです、閣下。イタリア関所の派出所で口裏を合わせた後、シュパン後家と共犯者は、ポリットに警告を与えることがどれほど急務であるかを悟ったのです。彼に接触する方法を考え、老婆が姉の許可証を思い出し、男は適当な口実でそれを借りに行った... 」 ≪29-32≫

「その通りだ」とセグミュラ殿は同意した。「そう、確かにその通りだ。疑いの余地はない… だが、あなたに確認してもらう必要がある… 」 ≪29-33≫

ルコックは、他に促されずとも熱意に燃える男の動作を見せた。 ≪29-34≫

「もちろん調査いたします!… 」と彼は返した。「判事殿、ご安心ください。成功につながるようなことは、何も見落としておりません。今夜までに、二人の監視員を配置します。一人はビュット・オ・カイユの路地に、もう一人はマリアンブールホテルの門前に。殺人犯の共犯者が、美徳のトワノンやミルナー夫人を訪ねようものなら、しっかり捕まえます。ついに反撃の時が来るんです!」 ≪29-35≫

しかし、今は言葉、とりわけ大言壮語など弄ぶ時ではない。彼は口を閉じると、入室時に置いていた帽子を手に取った。 ≪29-36≫

「では」と彼は言った。「判事殿、ここでお暇(いとま)をいただきます。もし何か指示があれば、回廊に残した同僚のアプサント親父が承ります。私は、最も重要な二つの証拠、ラシュヌールの手紙と耳飾りを調査するつもりです」 ≪29-37≫

「では、行ってください」とセグミュラ殿は言った。「幸運を祈ります!…」 ≪29-38≫

幸運!… 若い刑事はそれを心から願っていた。これまで、相次ぐ失敗を、それほど気に留めなかったのは、勝利をもたらす魔法の品を懐に忍ばせているという自信があったからなのだ。≪29-39≫
 「こんな高価な物の持ち主を突き止められないとしたら、僕は能無し以下だ」と彼は思った。「そして、持ち主さえ見つかれば、謎の男の正体もすぐ明らかになるだろう」 ≪29-40≫

まず第一に、その耳飾りがどこの店の商品かを知る必要があった。だが、宝石店から宝石店へ「これはあなたの店の細工ですか?」と尋ね回るのは、時間がかかりすぎる。 ≪29-41≫

幸い、ルコックには手近に心当たりがあった。その知識を惜しみなく提供するのを、無上の喜びとする人物である。 ≪29-42≫

それは、ヴァン=ニュナンという名のオランダ出身の老人で、宝石や宝飾品に関しては、パリで右に出る者はいなかった。 ≪29-43≫
※ Van-Nunen: 多分フランス読みで通用してるはず、と考えて「ヴァン=ニュナン」。オランダ読みなら「ファン=ニューネン」か。

警視庁は彼を鑑定人として活用していた。世間では金持ちと思われていたのだが、実際には想像を遥かに超えていた。身なりが常に薄汚いのは、彼の狂信的な情熱、ダイヤモンド崇拝のためだった。常に小さな箱に数個を入れて持ち歩き、嗅ぎタバコを嗅ぐように、一時間に十回もその箱を手に取っていた。 ≪29-44≫

親爺は若い刑事を快く迎えた。鼻眼鏡をかけ、満足そうな歪んだ笑みを浮かべて宝石をじっくりと調べてから、神託を下した。 ≪29-45≫
※ besicles: テンプル無しの鼻固定眼鏡。1850年ごろ、ようやくテンプル付きの眼鏡に移行しつつあった。ここは宝石鑑定用の拡大率の高い鼻眼鏡だろうか。

「この石の価値は八千フラン、台座はラ・ペ通りのドワスティの店のものだ」 ≪29-46≫
※ huit mille francs: ≪1-15≫の換算で750万円。
※ rue de la Paix: (以下、未確認のGemini訳註) 当時も今もパリ最高級の宝石店街。

二十分後、ルコックは有名な宝石商の店に姿を現した。 ≪29-47≫

ヴァン=ニュナンは間違っていなかった。ドワスティはその耳飾りを見知っており、確かに自分の店から出たものであると認めた。しかし、誰に売ったのか? 三、四年も前のことなので、思い出せなかった。 ≪29-48≫

「ですが、少々お待ちを」と彼は付け加えた。「家内を呼びましょう。あれは比類ない記憶力があるんです」 ≪29-49≫

ドワスティ夫人は、その褒め言葉に値する人だった。彼女は一目見ただけで、その耳飾りを良く知っている、そしてダルランジュ侯爵夫人に一対 二万フランで売却した、と断言した。 ≪29-50≫
※ vingt mille francs: ≪1-15≫の換算で1900万円。

「それに」と彼女は夫を見ながら付け加えた。「あなたも覚えているでしょう。侯爵夫人は現金で九千フランしか支払わなかったし、残金の回収に、とんでもない苦労を味わったじゃない」 ≪29-51≫
※ neuf mille francs: ≪1-15≫の換算で850万円。

夫もその詳細をしっかり思い出した。 ≪29-52≫

「では」と若い刑事は言った。「その侯爵夫人の住所をいただけますでしょうか」 ≪29-53≫

「サン・ジェルマン地区に住んでいます」とドワスティ夫人が答えた。「アンヴァリッド前庭のすぐ近くに…」 ≪29-54≫
※ faubourg Saint-Germain: 当時のパリで最も格式高い貴族の居住区。
※ esplanade des Invalides: アンヴァリッド(廃兵院)の前庭、遊歩道、空き地

※ 初出紙の連載第42回目(1868-7-7)の終わり

 

(つづく)
 
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