十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載39(第1部第27章)

(左) Rue de la Huchette, de la rue de la Bûcherie. Ve arr. Vers 1866.
(中) Rue de la Sainte-Chapelle 1838
(右) Rue Sainte-Anne と Quai des Orfèvres. Paris. 1906

 

XXVII

あらゆる場所でルコックを探し、見つたら連行せよとの命を受けたセグミュラ殿の執達吏は、外に繰り出した。 ≪27-1≫

その任務は彼にとって嫌ではなかった。持ち場を離れる良い機会であり、近隣をぶらつく正当な理由になった。≪27-2≫

彼がまず向かったのは警視庁だった。もちろん、遠回りをして、つまり河岸を通っていった。しかし、彼が立ち寄った当直室で聞くと、誰もその若い刑事を見ていなかった。 ≪27-3≫

そこで彼は、司法宮の近くにある、関係者を常連とする酒場(エスタミネ)や飲み屋を当たり始めた。≪27-4≫

使い走りとして忠実に、彼はあらゆる店に顔を出した。知人に会うたび、五十サンチームでビールの挨拶をする義務を自分に課した。しかし、ルコックはいない! ≪27-5≫
※ politesse à 50 centimes: 「50サンチームの礼儀」≪1-15≫の換算で四百七十円。(以下、未確認のGemini訳註) 当時の値段を考えると、自分と相手の二杯で乾杯するビール代だろう。
※ canette: (以下、未確認のGemini訳註) 当時は、ガラス製や陶器製の「蓋付きのジョッキ」や「小瓶」
※ 今回のルート: (以下、未確認のGemini訳註) Quat de l'Horloge / Quai des Orfèvresをゆっくり歩いて、Rue de la Barillerie(現在のBoulevard du Palais)を渡り、Rue Sainte-Anne / Rue de la Sainte-Chapelle / Rue de la Huchetteあたりの酒場をいろいろ探ったのでは? 

席を外している時間が少し長過ぎるかな、と不安になり、急いで戻ろうとしたとき、全速力でやってきた馬車が、司法宮の門前で急停止した。 ≪27-6≫

自動的に目を向けると、なんという幸運か!その馬車からルコックが降りた。その後に、アプサント親父と、シュパン後家の義理の娘が続いた。 ≪27-7≫

たちまち彼はシャキッとした態度を取り戻し、これ以上ない、もったいぶった口調で、 若い刑事に一刻も早くついてくるよう命じた。 ≪27-8≫

「判事殿は、もう何度もあなたを呼んでいる」と彼は言った。「ひどく腹を立てていて、機嫌は最悪だ。こってり絞られる覚悟をしたほうが良い」 ≪27-9≫

ルコックは階段を上りながら微笑んでいた。これ以上決定的な釈明など誰も持っていないのではないか?  判事の嬉しい驚きの顔を心待ちにし、苛立った顔が、たちまち ほころぶ様子が目に浮かんでいた。 ≪27-10≫

しかし、執達吏の焦りと執拗な催促は、あまりに悲惨な結果を招くことになる。 ≪27-11≫

急いでいた若い刑事は、セグミュラ殿の執務室の扉をノックもせずに開けることに何の疑念も抱かなかった。さらに、その証言が決定的になりうる不幸な女を、先に中に押し入れるという、致命的な思いつきも実行してしまった。 ≪27-12≫

彼はその場に立ち尽くした。判事は一人ではなかった。そして、尋問を受けている証人は肖像写真の男、 ポリット・シュパンだと気づいた。 ≪27-13≫

即座に、彼は己の過ちの大きさとその帰結を理解した。どんなことがあっても、この夫婦の間で、いかなる接触も、いかなる意思の疎通もさせてはならない。 ≪27-14≫

彼は美徳のトワノンに飛びつき、その腕を乱暴に掴んで引っ張ると、今すぐ外へ出ろと命じた。 ≪27-15≫

「ここダメだ! 」と彼は叫んだ。「さあ、来い!…」 ≪27-16≫

だが、哀れな女はすっかり取り乱し、感情に打ちひしがれ、木の葉のように震えていた。夫の姿しか見えず、何も聞こえなかった。崇拝する、この碌でなしに再会できたとは、なんて嬉しいことだろう!しかし、なぜ彼は後ずさりしたのか? なぜ彼女を怖い目つきで睨むのか? ≪27-17≫

彼女は話したかった、釈明したかった... そのため、僅かばかり抵抗した。ああ!ほんの僅かだったのに、 ポリットの言葉を聞き取るには十分だった。その言葉は彼女の脳裏に弾丸のように突き刺さった。 ≪27-18≫

それを見た若い刑事は、彼女の腰を抱え、羽のように軽々と持ち上げて、回廊へと連れ去った。≪27-19≫

この間、わずか一分足らずの出来事だった。そして、セグミュラ殿がようやく一言 発しようとした時には、ドアは閉まり、彼は再びポリットと二人きりだった。≪27-20≫

「おや!おや!...」とゴゲは喜びで身震いしながら思った。「これは新しい展開だ!...」 ≪27-21≫

しかし、この傍白が、書記官の職務を疎かにすることはなかった。彼は判事の耳元に身を寄せ、尋ねた。 ≪27-22≫
※ à-parte: 演劇用語。傍白、わきぜりふ。劇中で観客にだけ聞こえる独白のこと。

「証人が最後に言ったことも記録すべきですか?」 ≪27-23≫

「もちろん!」とセグミュラ殿は答えた。「一言一句、忠実に頼む!」 ≪27-24≫

彼は言葉を止めた。ドアが再び開き、執達吏がおどおどと、とても気まずそうに一枚のメモを差しだして、出て行った。 ≪27-25≫

そのメモは、ルコックが手帳からちぎった紙に鉛筆で書いたもので、判事に女の名を伝え、集めた情報を簡潔だが明確に記していた。 ≪27-26≫
※ calepin: carnetよりもさらに小さく、良質な紙を使った高級な手帳。

「あの若者は、実によく気がつく…」とセグミュラ殿は呟いた。 ≪27-27≫

先ほどの一瞬の光景の意味が、今、彼の目に明らかになった。 ≪27-28≫

説明は完璧だった! ≪27-29≫

自分の執務室で起こったこの致命的な出会いを、彼は苦い思いで後悔せずにはいられなかった。しかし、誰を責めるべきか。責めるべきは自分、ただ自分一人だ。執達吏が出た直後に、焦ってポリット・シュパンを呼び寄せた、己の思慮の浅さなのだ。 ≪27-30≫

とはいえ、この出来事が捜査の進展に甚大な影響を及ぼすとは、まだ予見出来ていなかった。それで彼はあまり気にせず、届いた貴重な情報をどう活用するかだけを考えていた。≪27-31≫

「続けよう」と彼は ポリットに言った。 ≪27-32≫

この小悪党は、さも無関心そうに頷いてみせた。妻が出ていってから、全然動かず、周囲で起きている全てに無頓着を装っていた。 ≪27-33≫

「今、来たのは、あなたの奥さんですね?」とセグミュラ殿が尋ねた。 ≪27-34≫

「うん」 ≪27-35≫

「彼女はあなたに抱きつこうとしたが、あなたは突き放した」 ≪27-36≫

「突き放しちゃいませんよ、旦さん」 ≪27-37≫

「距離を置いた、と言うべきかな。彼女が抱えた我が子にさえ、あなたは一瞥もくれなかった… なぜです?」 ≪27-38≫

「感傷的な気分になる時じゃないでしょう」 ≪27-39≫
※ penser au sentiment: 最初「おセンチな気分」としたけど、死語か。

「嘘をつけ。あなたは単に、女に供述を口伝えする間、反応をしっかり見たかっただけだ」≪27-40≫

「俺が!…女房に供述を口伝えした?」 ≪27-41≫

「そうでなければ、あなたの放ったあの言葉は実に不可解だ」 ≪27-42≫

「どんな言葉?… 」 ≪27-43≫

判事は書記官の方を向いた。 ≪27-44≫

「ゴゲ」と彼は言った。「証人に最後の文句を読み聞かせてやって」 ≪27-45≫

書記官は、単調な声を使って、読んだ。 ≪27-46≫

「死んでも許さない。俺がラシュヌールを知っていると言う奴は」 ≪27-47≫
※ 実際は「そんな出鱈目を言う者は、死んでも許さない。そう、死んでもだ… 絶対許さない!」≪26-61≫参照。という事は、当時の供述調書は発言を完コピせず、整えて書くものだったのだろう。速記で書くと、最後に判事、書記官、本人が署名する公式文書として不適切である。予審判事マニュアルでも「可能な限り、証人が述べた言葉を逐語的に再現し、証人の供述の意味を変えてしまう危険を避けるために、同じ表現を用いるべきである」(第九章第四節7)としている。

「さあどうだ!…」セグミュラ殿は迫った。「これはどういう意味だね?」 ≪27-48≫

「簡単に理解出来る言い方ですよね、旦さん」 ≪27-49≫

セグミュラ殿は立ち上がり、ある被告の表現を借りれば「腹の底の真実を這い出させる」、この判事特有の鋭い眼光でポリットを射抜いた。 ≪27-50≫

「嘘はたくさんだ」と彼は遮った。「あなたは妻に口止めした、それが事実だ。何の意味がある? 彼女が何を我々に教えられる? 警察が知らないと考えているのか? あなたとラシュヌールとの関係を、空き地の近くで馬車の中にいる彼と交わした会話を、あなたが彼に期待していた富への思いを... 悪いことは言わん、今のうちに自白を決心するんだ。このまま進めば、破滅が待っている。共犯には様々な形があるんだぞ!」 ≪27-51≫

 確かに、厚かましいポリットでも大きな衝撃を受けたようだった。虚を突かれた様子で、よく聞こえない返事を口ごもりながら、うつむいた。 ≪27-52≫

それでもなお、彼は頑なに沈黙を守った。最強の武器でも手応えのなかった判事は、落胆した。彼はベルを鳴らし、証人を刑務所に戻すよう命じた。むろん、もう妻と接触できぬよう、万全の注意を払わせることも忘れなかった。 ≪27-53≫

 ポリットが出ていくと、ルコックが現れた。彼は絶望し、髪を引きむしっていた。 ≪27-54≫

「何故だろう」と彼は繰り返した。「彼女が知っていることをすべて聞き出しておかなかった! あんなに簡単だったはずのに!でも、閣下がお待ちだと分かっていたので、急いで来たんです。それが良いと思ったんです...」 ≪27-55≫

「心配しないで、この失策は取り返せます」 ≪27-56≫

「いいえ、閣下、いいえ、あの哀れな女からはもう何も聞き出せません。夫の姿を見た今、彼女から一言も引き出すのは無理です。あの女は狂おしいほどの情熱で夫を愛しており、彼は彼女に絶大な影響力を持っています。黙れと命じられた以上、彼女は黙ります」≪27-57≫

 若い刑事は、あまりにも正しかった。セグミュラ殿は、美徳のトワノンが執務室に足を踏み入れた瞬間に、そう認めざるを得なかった。 ≪27-58≫

哀れな女は、苦悶に押しつぶされていた。屋根裏部屋で口走ってしまった言葉を撤回できるなら、命だって惜しくはない。そう思っていることは明らかだった。ポリットの視線が彼女を凍りつかせ、心の中に最悪の予感をかき立てていた。夫が犯し得ぬ罪など何一つないと知っていながら、自分の証言が、愛する男への死刑宣告になるのでは、と怯えていた。 ≪27-59≫

そこで彼女は、全ての質問に対して「いいえ!」または「知りません!」以外の答えを拒否し、自分が言ったことはすべて撤回した。勘違いしてた、誤解された、言葉使いが悪用されたと言い張った。彼女は、ラシュヌールなど聞いたこともないと、激しい誓いの文句を並べて断言した。 ≪27-60≫
※ les plus horribles serments: (未確認のGemini訳註) 当時の庶民が潔白を証明する際に使う、「神にかけて」や「死んでもいい」といった激しい誓い文句。

あまりに追及が厳しくなり、とうとう彼女は激しく泣きはじめた。泣き叫ぶ我が子を、痙攣するほど強い力で胸に抱きしめた。 ≪27-61≫

この愚かで、獣のように盲目的な頑固さに対して、どうすればよいのか? セグミュラ殿は躊躇した。この哀れな女に同情を覚えた。そして、しばし考えた後で、≪27-62≫

「もう下がっていいです、善良な奥さん」と彼は優しく言った。「でも、よく覚えておいてください。あなたの沈黙は、あなたが話すどんな言葉よりも、ご主人に不利益をもたらすんですよ」 ≪27-63≫
※ ma brave femme: (以下、未確認のGemini訳註) 身分の高い者が庶民の女性にかける、少し哀れみのこもった呼びかけ。「お方」や「お前さん」など。(私コメント: お方?)

彼女は退出した…というより、逃げ出した。すると、判事と治安局の捜査官は呆然とした表情で顔を見合わせた。 ≪27-64≫

「やっぱりな!」とゴゲは思った。被告の株は上昇中だ。被告の方に百スー賭けよう。 ≪27-65≫
※ cent sous: 五フラン。
※ 初出紙の連載第40回目(1868-7-5)の終わり

(つづく)
 
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