
(左) "La rue du Moulin des Près, 13ème arrondissement, Paris" F. ABEILLÉ, En 1895
(右) "Rue du Moulin-des-Prés, circa 1900" Germain Eugene BONNETON
屋根裏部屋で、ドアに背を向けて座っていたルコックは、その奇妙な訪問者の顔をチラリとも見ることが出来なかった。 ≪25-65≫
しかし、物音で素早く振り返っても、相手の動きは目で捉えられなかったが、気配は察知していた。 ≪25-66≫
それだけで、疑いの余地などなかった。 ≪25-67≫
「あいつだ」彼は叫んだ。「共犯者だ!」 ≪25-68≫
良い位置にいたアプサント親父は、しっかり見ていた。 ≪25-69≫
「そうだ」と彼は言った。「間違いない。昨日、俺を酔い潰したあの男だ」 ≪25-70≫
二人の捜査官はドアに飛びつき、開けようと必死に努力したが疲れ果てるだけで、無駄だった。ドアは動かず、びくともしなかった。家主が解体現場で買い取った総オーク材の代物で、古く頑強な錠前とともに、偶然にもしっかり据え付けられていたのだ。 ≪25-71≫
「何か手伝ってくれ!」驚いて石のように固まっているポリットの妻に、アプサント親父が言った。「鉄の棒でも、鉄屑でも、釘一本でもいい、何でも良いから寄こすんだ!」 ≪25-72≫
若い刑事は、錠ボルトを押し戻そうとしたり、心棒を引き抜こうとして、手を血だらけにしていた。怒りで足を踏み鳴らしていた... ≪25-73≫
ようやくドアが破られ、二人の捜査官は同じく必死に、謎に満ちた敵へと駆け出した。 ≪25-74≫
路地に到着すると、二人は聞き込みを始めた。男の人相風体を伝えることができたので、大きな手がかりなった。二人の者は、その男が美徳のトワノンの家に入るのを目にし、三人目は、男がそこから慌てて飛び出すのを目撃していた。路上で遊んでいた子供たちは、その男がムーラン・デ・プレ通りの方向へ全速力で逃げた、と証言した。
※ rue du Moulin-des-Prés
そこは、ビュット・オ・カイユの路地が始まる辺りで、先ほどルコックが馬車を待たせた通りだった。 ≪25-76≫
「そこへ急ごう!」とアプサント親父は提案した。「御者が何か知っているかもしれない」 ≪25-77≫
しかし、もう一人は落胆した様子で首を振り、動こうとしなかった。 ≪25-78≫
「意味がないよ!…」と彼は言った。「あの男は、鍵の一回しという機転を働かせて、自分を救ったんだ。今や奴は、僕らより十分のリードを持って、遠く離れてしまった。もう追いつけないだろう」 ≪25-79≫
年配の捜査官は怒りで顔面蒼白だった。 ≪25-80≫
彼は今や、自分を無残に欺いたあの狡猾な共犯者を、個人的な仇敵と見なしていた。奴の襟首を掴むためなら、給料一か月分を投げ出しても惜しくはない。 ≪25-81≫
「あの悪党、度胸も運も大したもんだな」と彼は言った。「猫の爪で遊ぶ鼠のように、俺たちを嘲笑している。これで三度も俺たちの手から逃れている… 三度も!…」 ≪25-82≫
※ une souris qui jouerait avec les griffes du chat: ラ・フォンテーヌっぽいけど、そうではない。ガボリオのオリジナルのようだ。
若い刑事も、同僚と同じくらい腹を立て、自尊心もひどく傷ついていた。しかし、彼は冷静さを保つ必要性を理解していた。 ≪25-83≫
「そうだね」と彼は考え込みながら答えた。「あの食わせ者は大胆かつ怜悧で、片時も手を休めようとしない。こちらが行動すれば、奴も激しく活動する。あの悪魔、至る所に出る。僕がどこから攻めても、奴が防御しているのを見つけるんだ。ねえ大先輩、ギュスターヴの手がかりを失わせたのも、マリアンブールホテルでの見事な芝居を仕組んだのも、全てあいつなんだ...」≪25-84≫
「こうなれば」と親父は訳知り顔で異議を唱えた。「あなたが署に連行しようとしているのは幻だ、と将軍はまだ歌うのかな?…」 ≪25-85≫
そのお世辞が、いかに巧妙であっても、ルコックを深い思索から引き離すことはできなかった。 ≪25-86≫
「今までは」しばらくして彼は続けた。「この巧妙な演出家に、あらゆる場面で先手を打たれてきた。それが僕の敗因だ。だが少なくとも、ここへは僕らの方が先に着いた。奴がわざわざ姿を現したということは、何らかの危険を嗅ぎつけたからだろう… ならば望みはある。あのポリットという碌でなしの妻のもとへ戻ろう」 ≪25-87≫
ああ!哀れな美徳のトワノンはこの出来事を何一つ理解していなかった。彼女は踊り場に立ち尽くし、幼子の手を握りしめ、階段の手すりから身を乗り出すようにして、胸を騒がせながら、目と耳で注意を払っていた。 ≪25-88≫
降りてきたときとは対照的に、ゆっくりと階段を上ってくる二人を見ると、彼女は前に出た。 ≪25-89≫
「一体全体、何が起きたというのですか?」と彼女は尋ねた。「どういうことですか?… 」 ≪25-90≫
しかし、ルコックは耳の多い廊下で事件の話しをするような男ではなかった。若い女を屋根裏部屋に押し戻し、ドアを閉めてから、ようやく答えた。 ≪25-91≫
「実は、『胡椒入れ』殺人の共犯者を追跡していたのです。奴はあなたが一人きりだと思って現れたのでしょうが、僕たちの姿を見て驚いて逃げたのです」 ≪25-92≫
「人殺し…!」トワノンは手を合わせて呟いた。「私に何の用があったというの?」 ≪25-93≫
※ joignant les mains: (以下、未確認のGemini訳註) 信心深い、あるいは無力な女性が神にすがるような仕草。
「さあ、どうかな? おそらくは、あなたの夫の友人でしょう」 ≪25-94≫
「ああ!… 旦那様…」
「何です!… ポリットには碌でもない知人しかいない、と言ったばかりではありませんか! ご安心なさい、それだけで彼が巻き添えになるわけではない。むしろ、彼への疑いを晴らす簡単な方法がありますよ」 ≪25-96≫
「方法! どんな? ああ! 早く教えて… 」 ≪25-97≫
「僕の問いに包み隠さず答え、実直な女性であるあなた自身が、犯人を捕まえる手助けをすることです。ご主人の友人の中に、あのような行動をする可能性がある人物はいませんか?... その名前を教えてください」 ≪25-98≫
不幸な女は明らかに躊躇していた。疑いようもなく、彼女は何度も卑劣な密議に立ち会い、もし口外すれば恐ろしい報復があるぞ、と脅しつけられてきたのだ。 ≪25-99≫
「何も恐れることはありません」と 若い刑事は強調した。「あなたが口を開いたなどと、決して知られることはないと、僕が保証します。それに、あなたが話しても、僕にとっては承知の事実かもしれません。あなたの境遇や、ポリットとその母親から受けてきた数々の虐待についても、我々は既に聞き及んでいるのです」 ≪25-100≫
「旦那様、夫が私に手を上げたことなど一度もございません」と、若い女性は誇らしげに言った…「それに、それは私個人の問題です」 ≪25-101≫
「では、お義母さんは?」≪25-102≫
「少々気性が激しいだけです。根は優しい人なんです」 ≪25-103≫
「だったら一体全体、なぜ幸せだったはずのシュパン後家の酒場から逃げ出したりしたんです?」 ≪25-104≫
美徳のトワノンは髪の根元まで真っ赤になった。 ≪25-105≫
「逃げ出したのは」と彼女は答えた。「別の理由からです。あそこには酔客がたくさん来ていて、私が独りの時分には、悪ふざけが過ぎる手合いもいました… 私は腕っぷしが強いと言うかもしれません、それは本当です。自分一人のことなら我慢できたでしょう… でも、私が目を離した隙に、あの子にブランデーを飲ませるような馬鹿者がいたのです。一度など、戻るとあの子が死んだように冷たく硬直していて、慌てて医者を呼びに走らねばなりませんでした」
彼女は突然言葉を切り、瞳孔を見開いた。顔色は赤から蒼白に変わり、絞り出すような声で息子に叫んだ。 ≪25-106≫
「トト!…このろくでなし!」 ≪25-108≫
ルコックは周りを見回し、戦慄した。すべてを察したのだ。五歳にも満たないその子は、這いつくばってルコックの足元に忍び寄り、外套のポケットを探っていた。盗んでいる、金を巻き上げようとしている… それも鮮やかな手つきで。 ≪25-109≫
「そうよ!……ええ、そうなの!」不幸な女は涙を流しながら叫んだ。「そうよ、それもあったの!私がこの子から目を離すと、外から誘い出す連中がいるの。人混みへ連れて行っては、他人のポケットを漁って、見つけたものを自分たちのところへ持ってくるよう教え込む。誰かに気づかれると、子供を大声で怒鳴り、殴った… 誰にも気づかれなければ、大麦飴を買うための一スーを渡し、盗んだものは全部自分たちの懐に入れてしまう」
※ sucre d'orge: 大麦あめ。大麦の煮汁に砂糖を混ぜて煮詰めた枠状の菓子
彼女は両手で顔を覆い、聞き取りにくい声でこう付け加えた。 ≪25-111≫
「私は、あの子を泥棒になんかしたくない」 ≪25-112≫
この哀れな女が口にしなかったこと、それは、幼子を連れ出し盗みの手ほどきをした張本人が、その父親であり彼女の夫であるポリット・シュパンだという事実だった。二人の捜査官にはそれが痛いほど分かっていた。男の罪の忌まわしさと、女の張り裂けんばかりの悲痛さに、彼らは心の底から揺さぶられた。ルコックはこの過酷な場面を一刻も早く切り上げたいと願った。何より、この哀れな母が見せた動揺が、彼女の言葉に偽りがないと保証していた。 ≪25-113≫
「いいかい」彼はわざと突き放す口調で言った。「二つの質問だけ答えてくれれば、それで結構だ。この酒場の常連の中に、ギュスターヴという名の男はいなかったか?」 ≪25-114≫
「いいえ、旦那様、いません」 ≪25-115≫
「そうか!…でもラシュヌールは、ご存知でしょう、ラシュヌール?」 ≪25-116≫
「その方は、はい」 ≪25-117≫
若い刑事は喜びを抑えきれなかった。「ついに」彼は思った。「真実へと導く糸口をつかんだ」 ≪25-118≫
「その人物はどんな人ですか?」と彼は勢い良く尋ねた。 ≪25-119≫
「ああ!お義母さんの店で飲んでいる連中とは違います。一度しか見たことがありませんが、お顔は頭の中に焼き付いています。あれは日曜日でした。空き地のそばに停まった馬車の中から、ポリットに話していました。彼が去った後、夫が私に言ったのです。『あの爺さんを見ろ、俺たちに富をもたらしてくれる』私には、とても立派な紳士に見えました...」 ≪25-120≫
「十分です」とルコックは遮った。「さあ奥さん、これから判事の前で証言してもらいたい。下に馬車を用意してある。子供も連れてきてもいいが、急いで、早く来て、早く...」 ≪25-121≫
※ 初出紙の連載第38回目(1868-7-3)の終わり
(つづく)
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