十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載36(第1部第25章の1)

(左) "Butte aux Cailles, près la Barrière de Fontainebleau en 1855 / 9" Alfred Alexandre DELAUNEY, 1869, graveur

(右) "Le Moulin de la Butte aux Cailles, Paris" Louis-Alphonse DAVID (1798-1849), date unknown, dessin
当時の絵には、風車が良く描かれている。有名な目印なのだろうか。

 

XXV

ルコックはは用意周到な青年だった。 ≪25-1≫

彼は寝る前に、持っていた目覚まし時計を調整し、針を六時に合わせるのを忘れなかった。 ≪25-2≫
※ un réveil: 当時の目覚ましは大きい? 良く調べていないが、出始めの機械だったようだ。参考画像1846年の広告から。

「これで」と彼は蝋燭の火を吹き消しながら、アプサント親父に言った。「遅れないだろう」 ≪25-3≫
※ manquer le coche: 「乗合馬車を逃さない」だが、「好機を逃さない」「遅れをとらない」という意味の慣用句。

しかし、彼は自分の極度の疲労と、年上の同僚の脳裏にまだ残っていた酒の精を考慮に入れていなかった。 ≪25-4≫

サントゥスタッシュの鐘が六時を告げた時、目覚まし時計は忠実に作動した。しかし、その精巧な機構の鋭い音も、二人の刑事の深い眠りを破るには至らなかった。 ≪25-5≫

七時半頃に、強く打ちつける拳が二回、部屋のドアを揺るがさなければ、彼らは、間違いなく、ずっと眠り続けていただろう。 ≪25-6≫

ルコックは飛び起きて、日が昇っていることに驚き、自分の備えが無駄だったことに憤慨した。≪25-7≫

「入れ!…」と朝の訪問者に叫んだ。 ≪25-8≫

当時、この 若い刑事にはまだ敵がいなかった。鍵を錠前に差したまま眠っても、何の問題もなかった。 ≪25-9≫
※ la clé sur sa serrure: 鍵を錠前に差したままだと、外から開けられる状態らしい。ここら辺、興味深いが、未確認。『書類百十三』などでは、ルコックは始終敵に狙われているので、忠実な召使いジャヌイーユが玄関ドアを守っているという設定。

するとすぐにドアが少し開き、パピヨン親父の賢そうな顔がのぞいた。 ≪25-10≫

「おや!… 我が御者の親方だ!… 」とルコックは叫んだ。「じゃあ、何か新しいことがわかったの?」 ≪25-11≫

「すんません、旦那、実は相変わらず同じ用件で来た。あの性悪女たちの三十フランのことだよ… あの金額分、無料で乗せてあげなきゃ、儂はゆっくり眠れない。昨日は馬車を百スー分使ってもらったから、あと二十五フランの借りがある」 ≪25-12≫
※ bourgeois: 「旦那」呼びかけにも使うんだ… 辞書では「古」マークが付いていた。(以下、未確認のGemini訳註) 労働者が雇い主や中産階級の男性を呼ぶ際の一般的な敬称(旦那、お師匠さん)。

「そんな無茶言うなよ、我が友!」 ≪25-13≫

「そうかもな!… でも、儂の流儀なんだ。あんたが乗ってくれないんだったら、あんたの家の前で十一時間、待機することにするよ。一時間二フラン二十五サンチームで、借し借り無しだ。決めてください」 ≪25-14≫

その目は懇願していた。断れば、彼をひどく落胆させるのは明らかだった。 ≪25-15≫

「よし」とルコックは言った。「午前中だけ、あなたを雇おう。ただし、かなりの長旅になると言っておくからね」 ≪25-16≫

「ココットはいい脚だよ」 ≪25-17≫

「僕と相棒は、あなたの区域で用事がある。何とかして、シュパン後家の嫁を探し出さなきゃならない。住所は、地区の警察署長から聞き出せるはずだ」 ≪25-18≫

「ああ!どこへでも行くよ。任せてくれ」 ≪25-19≫

それから間もなく、彼らは出発した。 ≪25-20≫

パピヨンは御者台で胸を張り、鞭を鳴らした。馬車は百スーの酒手をもらったような勢いで疾走した。 ≪25-21≫

ただ、アプサント親父だけが沈み込んでいた。ルコックは彼を許し、失態を胸に収めておくと誓ってくれたが、自分自身を許せなかったのだ! 老練な刑事が、田舎者のように騙されたことことが、悔しくてならなかった。せめて、捜査の秘密を漏らしていなかったら! しかし、彼はよくわかっていた。それで任務の難しさを倍増させてしまった。 ≪25-22≫

ともあれ、長距離の移動は無駄ではなかった。十三区警察署長の秘書は、ポリット・シュパンの妻が子供と一緒に、ビュット・オ・カイユの路地近くに住んでいることを、ルコックに教えた。 ≪25-23≫
※ secrétaire: 警察の役職名がよくわからない。当面「秘書」としておく。
※ commissaire: 作中現在は1850年代初頭と思われるので、その時、この地区はパリ市外だった。≪23-120≫に出て来た48の独立したcommissariat de policeのcommissaireではない。未調査。
※ treizième arrondissement: 1859年11月の新区制で新設された区名。
※ Butte-aux-Cailles: 工場や労働者の住居が並ぶ、少しうらぶれた丘の地域。

正確な番地はわからなかったが、彼は詳しいことを教えてくれた。 ≪25-24≫

シュパン老母の嫁はオーヴェルニュ出身で、同郷の男ではなくパリの男を選んだことで、残酷な罰を受けていた。 ≪25-25≫
※ Auvergnate: ブラッサンス「オーヴェルニュ人に捧ぐ」で有名。(以下、未確認のGemini訳註)オーヴェルニュ地方出身者は「実直で働き者だが、少し垢抜けない」というステレオタイプ。

十二歳でパリに出た彼女は、モンルージュの大工場に女中として入り、そのまま働き続けた。十年間、苦しく勤勉な労働を重ね、彼女は一スーずつ節約して、三千フランを貯めた。しかし、その時、悪い精霊が彼女の人生にポリット・シュパンを投げ入れた。 ≪25-26≫
※ servante: (以下、未確認のGemini訳註) 「女中」や「雑用係」
※ Montrouge: パリの南西に位置するフランスの都市(オー=ド=セーヌ県)。
※ trois mille francs: ≪1-15≫の換算で二百八十万円。東都は「三万フラン」と一桁違い。

彼女は、この青白く冷笑的な悪党に心奪われ、男の方は彼女の蓄えを目当てに結婚を承諾した。≪25-27≫

金が続く間、つまり三、四か月間は、家庭生活もなんとか形を保っていた。しかし、最後の一エキュが無くなると、 ポリットは姿を消し、怠惰で小悪党の放蕩生活へと喜々として戻った。 ≪25-28≫
※ écu: 19世紀フランスでは、五フラン銀貨の異名

それ以来、彼が妻のもとへ顔を出すのは、わずかな蓄えがあるのでは、と睨んで、むしりに来るときだけだった。そして彼女はその都度、全部奪われるままだった。≪25-29≫

汚らわしい稼ぎを期待するようになった男は、彼女をさらに奈落へ落とそうとしたが、彼女は拒み通した。 ≪25-30≫

この拒絶こそが、シュパン婆が嫁に抱く憎悪の種であり、その憎しみゆえ、虐待は苛烈を極め、哀れな女はある晩、着の身着のままで逃げ出さざるを得なかった。 ≪25-31≫

母と息子は、脅しすかしても成し得なかったことを、飢えが代わりに成し遂げてくれると期待していたのかもしれない。 ≪25-32≫

彼らの浅ましい目論見はすっかり外れていた。 ≪25-33≫

秘書は、こうした経緯は近所では誰もが知っていて、皆、健気なオーヴェルニュ女を立派だと認めている、と付け加えた。 ≪25-34≫

「だから」と彼は言った。「彼女に付けられた『美徳のトワノン』というあだ名は、飾り気はないが真心からの賛辞なんだ」 ≪25-35≫

ルコックは、この情報を携えて馬車に戻った。 ≪25-36≫

パピヨンの素早い捌きで到着したビュット・オ・カイユの路地は、マルゼルブ大通りとはまったく似ていない。大富豪が住んでいる? 到底想像もつかない。確かなのは、村と同じで、住人同士が顔見知りだということだ。若い刑事がポリット・シュパン夫人を尋ねた最初の人が、迷わず場所を教えてくれた。 ≪25-37≫
※ boulevard Malesherbes: パリ大改造で造られた、高級アパルトマンが並ぶ富裕層の象徴的な通り。通りの名称自体は1824年に採用されている。
※ Y demeure-t-il des millionnaires?: 地の文で急に作者がこちらに語りかけて来るスタイル。結構フランス文には良くある気がする。

「美徳のトワノンは、右側のこの家に住んでいます」と彼は返事をした。「階段を上がった一番上、正面の部屋です」 ≪25-38≫

その指示は極めて正確で、ルコックとアプサント親父は、目的の部屋に一発でたどり着いた。 ≪25-39≫

そこは、石床の冷えた、うら悲しい屋根裏部屋だった。広さはそれなりだが、明かり取りは小さな天窓ひとつだった。 ≪25-40≫

脚が揃わない胡桃材のベッド、ぐらつくテーブル、二脚の椅子、そして申し訳程度の炊事用具が、家具のすべてだった。 ≪25-41≫

しかし、貧しいながらも清潔さは際立っており、アプサント親父の力強い表現によれば、床の上で飯が食える、ほどだった。 ≪25-42≫

二人の刑事が入った時、一人の女を見つけた。部屋の真ん中、天窓の真下に腰を据えて、粗い帆布の袋を縫っていた。手元の仕事に光がまっすぐ落ちていた。 ≪25-43≫

見知らぬ二人を見て、彼女は驚き、少し怖がって、半分立ち上がった。二人が、少し込み入った話をしたいのだと告げると、彼女は客用に、と自分の椅子を譲ろうとした。 ≪25-44≫

しかし、年配の警察の男は、彼女を押しとどめてそのまま座らせ、自分は立っていることにした。ルコックが残りの椅子に腰をおろした。 ≪25-45≫
※ homme de police: この表現はここだけ。ただの言い換えか。

 若い刑事は、一瞥でその住居を把握し、女を見極めた。 ≪25-46≫

彼女は小柄で、ずんぐりとして、太っており、容姿はひどく平凡だった。額の低い位置まで生えた硬い黒髪と、飛び出し気味の大きな瞳が、その顔立ちに、虐待された動物のような痛々しい諦念を漂わせていた。 ≪25-47≫

かつては、いわゆる「悪魔の美しさ(若さゆえの輝き)」を宿していたこともあったのだろうが、今では義母とほとんど同じくらい老けて見えた。 ≪25-48≫
※ la beauté du diable: 不器量な娘でも年が若いと生き生きした魅力があること。闇堕ち前の天使ルシファーが美貌だとされていることから。

数多くの、悲しみと貧困、過酷な労働、ランプが頼りの夜仕事、堪え忍んだ涙、そして浴びせられた暴力が、彼女の肌を鉛色に変え、目を赤くし、こめかみに深いしわを刻んでいた。 ≪25-49≫

しかし、彼女の全身からは、いかに劣悪な環境によっても腐敗しなかった、生来の誠実な香りが漂っていた。 ≪25-50≫

彼女の子供は、母親とはまったく似ていなかった。青白く、ひょろひょろとして、燐光のように輝く目と、パリのブロンドと呼ばれる汚い黄色の髪をしていた。 ≪25-51≫

ある細部が二人の捜査官の胸を打った。 ≪25-52≫

母親は粗末な更紗のドレスしか着ていなかったが、幼い息子の方は、厚手のラシャ地を暖かそうに着ていたのである。 ≪25-53≫

「奥様」とルコックは優しく切り出した。「義理のお母様の店舗で起きた大事件について、お聞きおよびでしょうね」 ≪25-54≫

「おお!… はい、旦那様」 ≪25-55≫
※ monsieur: ここは「旦那様」だね。

そして、急いでこう付け加えた。 ≪25-56≫

「でも、うちの人は刑務所にいるので、あの事件に関与したはずがありません」 ≪25-57≫

疑いをかけられる前の反論は、彼女が抱く恐ろしい不安を示しているのか? ≪25-58≫

「ええ、承知しています」と 若い刑事は言った。「ポリットは十五日ほど前に逮捕されました...」 ≪25-59≫
※ une quinzaine: 「約15」だが、フランス語では「二週間」を指す一般的な表現。

「ああ!...まったく不当です、旦那様、誓って申し上げます。あの人はいつだって、ろくでもない悪友たちに引きずり込まれてしまう。とても弱い人なので、ワイン一杯、頭にまわると、誰の言いなりにでもなってしまうんです。夫自身は子供さえ傷つけない人です。姿を見ればわかります...」 ≪25-60≫

そう話しながら、彼女は壁に掛けられた質の悪い写真に、熱っぽい視線を注いだ。写っていたのは、斜に構えた卑屈な目つきに、薄い口髭を蓄えた歪んだ口元、こめかみに貼り付いた髪。下劣な、ならず者の姿。それがポリットだった。 ≪25-61≫
※ photographie: まだ黎明期の写真技術。かなり高かったのでは?
※ mèches de cheveux bien collées: (以下、未確認のGemini訳註) 当時のパリの「アパッシュ(無頼漢)」たちが好んだ、ポマードで固めた独特の髪型。

見間違いではなかった。この不幸な女は今でも彼を愛していた。何にせよ、彼は彼女の夫だったのだ。 ≪25-62≫

情念に溢れた無言の場面の後、一分間の沈黙が流れた。その沈黙の中、屋根裏部屋のドアがそっと開いた。 ≪25-63≫

男が顔を覗かせたが、低いうめき声をあげて、すぐ引っ込めた。ドアが閉まり、錠前で鍵がギッと鳴り、階段を急ぐ足音が聞こえた。 ≪25-64≫

※ 初出紙の連載第37回目(1868-7-2)の終わり

(つづく)
 
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