十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載35(第1部第24章)

France Charenton Asylum Psychiatrique c1858 (立体写真から)

 

XXIV

その年のマルディグラは、大変陽気なお祭り騒ぎで、つまり、公設質屋やダンスホールは大繁盛だった。 ≪24-1≫
※ mardi gras: 事件は謝肉祭の日曜に起こった。その二日後の火曜日はマルディグラである。
※ Mont-de-Piété: (以下、未確認のGemini訳註) パリの公的な質屋。当時のパリでは民間質屋は禁止されており、この公的な機関が独占的に営業、高利貸し(usury)から貧民を救うための「慈善的側面」もあった。衣服、マットレス、シーツ、晴れ着、作業道具(大工の道具や裁縫機)などが持ち込まれた。

真夜中が近く、ルコックがマリアンブールホテルを出たとき、通りは真昼のように騒がしく、人で溢れ、どのカフェも客でいっぱいだった。
≪24-2≫

しかし、 若い刑事には楽しむ余裕などなかった。彼は群衆に混じりながらも、周りを見ておらず、その無礼な態度に怒りの声が上がっているのも気づかずに、人波を押しのけて進んでいた。 ≪24-3≫

どこへ行くのか?... 彼自身も知らなかった。ただひたすら前へ、目的もなく、行き当たりばったりに歩いていた。最後のルイ金貨を失って、最後の希望も失った賭博師よりも、さらに絶望していた。 ≪24-4≫

「認めざるを得ない」と彼は呟いた。「証拠は明らかだ。僕の推測は幻想に過ぎず、僕の演繹推理は運任せの遊びだった。この窮地から、出来るだけ傷を浅く、恥も抑えて抜け出そう」 ≪24-5≫

大通りに出たとき、彼の頭の中に、ひとつの考えが閃いた。あまりに鮮烈で、思わず叫び声を上げずにはいられなかった。 ≪24-6≫

「僕はなんて愚かだ!」 ≪24-7≫

そして、額を割らんばかりに打ち据えた。 ≪24-8≫

「全く驚きだ」彼は続けた。「理論に強い僕が、実践となると、こうも情けなく、脆くなるなんて! ああ! 僕はまだ子供だ。何も分からぬ新兵だ。ちょっとしたことで驚いて、すぐ道を外れる。混乱し、空回りして、理屈づける能力までなくしてしまう」 ≪24-9≫

よし、冷静に考えてみよう。 ≪24-10≫

そもそも僕は、我々を手も足も出ない状況に追い込んだこの被告を、最初どう評価していた? ≪24-11≫

僕は以前こう考えていた。この男は、卓越した才能の人物で、円熟の経験と洞察力を備えており、大胆不適に如何なる状況でも冷静さを失わなわない。自分の芝居を成功させるために、不可能と思われることさえも成し遂げられる人物だ。 ≪24-12≫

そう、僕は確かにそう言っていた。だが、説明出来ない事態に直面した途端、即座に、斧が駄目になったら、刃に続いて、柄までぶん投げてしまったのだ。 ≪24-13≫
※ jette le manche après la cognée: 「絶望して全てを投げ出す」「自暴自棄になる」という意味の慣用句。

考えれば分かるじゃないか。驚異的な手腕を持つ男が、ありふれた策を弄するはずがない。奴の企みが、白糸で縫っている(見え透いている)はずがない、となぜ気づかなかった? ≪24-14≫
※ coudrait ses malices de fil blanc: 「見え透いた、バレバレな」という意味。

そうとも!... 見かけの状況が僕の推測に反し、被疑者の主張を裏付ければ裏付けるほど、僕の正しさは確かなものになるんだ!... さもなければ、論理はもはや論理ではない。 ≪24-15≫

若い刑事は声を出して笑い、こう付け加えた。 ≪24-16≫

「もっとも、警視庁でジェヴロルの面前でこの持論を展開するのは、まだ早いな。きっと、シャラントンへの送り状を渡されることになるだろう」 ≪24-17≫
※ Charenton: パリ近郊にあった有名な精神病院。

彼は言葉を切った。自宅アパートの前に立っていた。ベルを鳴らすと、ドアが開いた。 ≪24-18≫
※ コンシェルジュが遠隔で玄関ドアを開ける仕組みは、この時代には当たり前だった。≪14-65≫参照。

彼は軽やかに四階分を駆け上がり、踊り場に辿り着いた。暗闇の中から声が聞こえた。 ≪24-19≫
※ grimpé ses quatre étages: ということはルコックは五階に住んでいる? 貧乏なので、上層階に住んでいるという設定だろう。エレベーターが無い時代は、高層階ほど家賃が安かった。

「ルコック殿、あなたか?」 ≪24-20≫

「僕だよ」と、若い捜査官は少し驚いて答えた。「でも、あなたは?」 ≪24-21≫

「アプサント親父だ」 ≪24-22≫

「おや、これは!… ようこそ、声では分からなかった… どうぞ、中に入って」 ≪24-23≫

二人は中に入り、ルコックは蝋燭に火を灯した。 ≪24-24≫

すると、若い刑事は、年上の同僚がどんな姿なのか、はっきりと見てとった。なんとひどい状態だ!… ≪24-25≫

三日間続く雨に濡れた迷子のバルビー犬より汚れ、泥まみれで、フロックコートには、二十もの壁を擦った跡が残り、帽子は完全に形を失っていた。 ≪24-26≫
※ barbet: フレンチ・ウォーター・ドッグ(フランス水中作業犬)。バルビー、バルべ。

目は濁り、口髭は情けなく垂れ下がっていた。まるで口の中に砂が詰まっているように、空噛みしていた。時折、唾を吐こうと試みるが、その動きと努力も虚しく… 何も出てこなかった。 ≪24-27≫

「悪い知らせなんだね?」と、ルコックはじっと観察した後、尋ねた。 ≪24-28≫

「悪い」 ≪24-29≫

「尾行していた連中が、指の間からすり抜けたのか」 ≪24-30≫

老人はうなずいて、そうだと認めた。 ≪24-31≫

「それは災難だった」若い刑事は何らかの不手際を察して言った。「とんだ災難だ! でも、あまり落ち込む必要はないよ。さあ、おやじさん、顔を上げて、チクショウ! 明日、二人で挽回しよう」 ≪24-32≫
※ morbleu!: 古い感嘆詞。mort de Dieuの婉曲表現。

この親身な励ましで、親父の恥ずかしさは目に見えて増した。警察の古参は、寄宿学校の女学生のように顔を赤らめ、天井に向かって拳を振り上げ、叫んだ。 ≪24-33≫
※ pensionnaire: 良家の子女が通う、修道院などの寄宿学校の生徒を指す。厳格な教育を受け、世間知らずで、少しのことでもすぐに顔を赤らめる(純潔・羞恥心の象徴)というステレオタイプ。

「ああ!… ろくでなし、何度も言ったぞ!」 ≪24-34≫
※ gredin: 悪党、ならず者。

「え!...」とルコックは言った。「誰に言ってるの?」 ≪24-35≫

アプサント親父は答えなかった。鏡の真正面に立ち、自分の姿を映し出す鏡に向かって、これ以上ない酷い罵声を浴びせ始めた。 ≪24-36≫

「役立たずの老いぼれ!...」と彼は言った。「最低の兵士! 恥を知れ!任務があったじゃないか? それをどうした? お前は飲み干しちまった、この汚い酔いどれじじい。いいか、こんなことでは済まされない。ルコック殿が許しても、お前は一週間、酒を断つのだ。悔しがれ、いい気味だ」 ≪24-37≫

それはまさに、 若い刑事が察していた通りだった。 ≪24-38≫

「さあ」と彼は親父に言った。「自分に説教するのは後でいいから、早く話を聞かせてよ」 ≪24-39≫

「ああ!… お恥ずかしい限りだ、申し訳ない。だが、もういいか。さて、俺がギュスターヴを見分けた若者たちを尾行する、と書いた手紙、間違いなく受け取ってくれたか?」 ≪24-40≫

「うん、うん、続けて!」 ≪24-41≫

「さて、奴らの後を追ってカフェに入ると、若造どもは動揺を鎮めるためか、たっぷりのベルモットをあおり始めた。飲んだ後、空腹が来たのか、昼食を注文した。俺も自分の席で、同じようにした。ところが、食事にコーヒー、強い食後酒、それにビールと、だらだら時間が過ぎて行く。ようやく二時になって、奴らは勘定を済ませて店を出た。よし!... 家に帰るのだと思った。ところが、そうではなかった。奴らはドーフィーヌ通りへ向かい、ある酒場(エスタミネ)のドアを開けるのが見えた。俺は五分遅れてその店に入った。奴らはもうビリヤードをしていた」 ≪24-42≫
※ pousse-café: 食後酒。コーヒーの後の強い蒸留酒のこと。
※ rue Dauphine: セーヌ川左岸、ポン・ヌフを渡って延長上の通り。
※ estaminet: ビリヤード台などがある、庶民的な喫煙・飲酒店。

彼は咳をした。最も言い出しにくい場面に来たのだ。 ≪24-43≫

「小さなテーブルに座って、新聞を頼んだ」彼は続けた。「片目だけで新聞を見ていると、突然、まともな紳士が俺の隣に座った。座るとすぐに、読み終わったら新聞を貸してくれと言われたので、渡してやると、天気の話が始まった。結局、話の流れで、その紳士がベジグの千五百点勝負を持ちかけて来た。ベジグは断ったが、百点のピケは受けた。若者たちは、聞いてるかい? ずっと球を突いてる。こっちにはマットが運ばれ、一杯のブランデー(フィーヌ)を賭けて勝負が始まった。俺が勝った。紳士は再戦を要求し、今度はビールを二杯(ボック)で勝負。また俺が勝った。奴はムキになり、今度は小盃で勝負… 俺は勝ち続け、飲み続け、そして飲めば…」 ≪24-44≫
※ quinze cents… un cent: 単位が書いてないが千五百点とか百点で勝負が終わるゲームのようだ。
※ choquaient l'ivoire: (以下、未確認のGemini訳註) 象牙をぶつけ合う=ビリヤードをする、という表現。1870年代以前の球は象牙だった。
※ tapis: カードゲーム用のラシャ張りのマットだろう。
※ fine: 高品質なブランデー。
※ bocs: 当時流行していたドイツ式のビールグラス。
※ petits verres: 小さい盃なので、強い酒なのだろう。

「さあ、さあ!… それから?」 ≪24-45≫

「ああ!… そこがマズいんだ! その後は、何も覚えていない。紳士のことも、若造どものことも。ただ、朧げな記憶で、カフェで眠ってしまい、給仕が俺を起こし、店を追い出されたような気がする… それから、俺は河岸をさまよっていたのだろう、頭がはっきりしてきて、俺はあなたの階段で待つことに決めた」 ≪24-46≫

アプサント親父には意外だったが、ルコックは腹を立てるよりも、むしろ深く考え込んでいた。 ≪24-47≫

「その紳士についてどう思う、おやじさん?」と彼は尋ねた。 ≪24-48≫

「俺があの連中を追っている間じゅう、あいつは俺を尾行していたんだろう。で、俺を酔い潰すためにカフェに入って来たんだ」 ≪24-49≫

「そいつの人相風体は?」 ≪24-50≫

「背が高く、かなり太った親父で、赤くデカい顔とひどく潰れた鼻、そして間抜けな風貌…」 ≪24-51≫

「奴だ!」とルコックは叫んだ。 ≪24-52≫

「奴!... 誰だ?」 ≪24-53≫

「共犯者だ。その男の足跡を僕らは採った。偽の酔っ払い、皆を陥れる悪魔の化身。目を光らせていなければ... 奴を忘れないで、おやじさん、もしまた出くわすことがあれば!...」 ≪24-54≫

しかし、アプサント親父の告白はまだ終わっていなかった。敬虔な信者が懺悔でやるように、最も重い罪を最後まで取っておいたのだ。 ≪24-55≫

「それだけじゃない」と彼は続けた。「何も隠したくない。あの裏切り野郎は、『胡椒入れ』の殺人事件について俺に話していたと思う。そして俺は、これまで発見したこと、そしてあなたがやろうとしていることを全て奴に話してしまった気がする...」 ≪24-56≫

ルコックが凄まじい剣幕だったので、老人は怯えて後ずさりした。 ≪24-57≫

「なんてこった!… 」彼は叫んだ。「敵に僕らの計画を漏らすなんて!」 ≪24-58≫

しかし、彼はすぐに冷静さを取り戻した。起きてしまったことは、もうどうしようもない。それに、一つ良い点もあった。マリアンブールホテルの一件で抱いていた疑念が全て拭い去られたのだ。 ≪24-59≫

「でも、今は考える時じゃない」と 若い刑事は続けた。「僕は疲れ果てた。大先輩はベッドのマットレスを使っていいよ、さあ、もう寝よう...」 ≪24-60≫

※ 初出紙の連載第36回目(1868-7-1)の終わり

(つづく)
 
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