
挿絵Bayard Jones ("Monsieur Lecoq" Charles Scribner's Sons, New York 1906) ≪23-39≫の場面
高さ十メートルから氷水の桶が頭に落ちて来たとしても、マリアンブールホテルの女将のこの言葉に比べれば、若い刑事に衝撃を与えるものではなかった。 ≪23-63≫
では殺人犯は真実を語っていたのか?… そんなことがあり得るのか?… だったら、ジェヴロルや監獄長が正しかったことになる!… ならば、セグミュラ殿も、そして彼、ルコックも、ただの愚か者、幻獣(キマイラ)を追いかける者に過ぎなかった! ≪23-64≫
巧妙な演繹推理が筋立てた織糸は断ち切られた!… 検察が見事に組み上げた足場も、退屈な現実という馬鹿馬鹿しさの前に、崩れ落ちたのだ!… ≪23-65≫
そのような全てが、若い捜査官の脳裏を稲妻のように駆け抜けた。 ≪23-66≫
しかし、じっと浸っている暇はなかった。 ≪23-67≫
呼ばれた小僧が現れた。人の良さそうな、無邪気で丸顔の小僧だった。 ≪23-68≫
「フリッツ」と女主人は尋ねた。「署長のところに行ってくれたかい?」 ≪23-69≫
「はい、奥様」 ≪23-70≫
「何て言ってた?」 ≪23-71≫
「お会いできませんでしたが、秘書のカジミール殿と話しました。彼は、心配しないで、いずれ彼がそちらに出向きますから、と言いました」 ≪23-72≫
「まだ来ていないよ」 ≪23-73≫
小僧は両腕を上げ、肩をすくめる仕草で、その答えを非常に雄弁に表現した。「僕にどうしろと言うの!...」 ≪23-74≫
「お分かりでしょう、お客様…」と女将は、しつこい質問者が立ち去るだろうと思いながら言った。 ≪23-75≫
しかし、ルコックにそのつもりはなく、そこを動かなかった。激しい動揺を抑えて、なんとか冷静さを保ち、英国訛りを続けた。 ≪23-76≫
「非常に落ち着きません」彼は話した。「おお!… とっても!ここで私は先程と比べて更に進展がなく、更に迷っています。なぜなら、この男が探している人物だと信じますが、それでも全く確信が持てないからです」 ≪23-77≫
※ 直訳して外国人ぽさを出したつもり。Geminiによると、oh!... beaucoup!とかdésagréableとかの言葉の使い方や、文章に「理屈っぽく、疑り深い英国人」のキャラ付けがされている、らしい…
「困ったねえ!… お客様、何をおっしゃりたいのですか!」 ≪23-78≫
ルコックは眉をひそめ、唇をきゅっと結んで、考え込んだ。不確かさを解消する妙案を探しているようだった。 ≪23-79≫
実のところ、彼は、宿泊施設が作成を義務付けられている警察登録簿を、この女性から提示してもらう巧みな方法を模索していた。そこには宿泊客の名前、職業、住所が記載されているはずである。だが、彼女の疑惑を呼び起こすのを、彼は恐れていた。 ≪23-80≫
※ le livre de police: (以下、未確認のGemini訳註) フランスでは18世紀(アンシャン・レジーム期)から、治安維持と浮浪者対策のために宿屋の主人が宿泊者を記録し、警察に報告する制度があった。1860年代は、ナポレオン法典下の厳格な警察国家の仕組みが残っており、すべてのホテル・宿屋は Registre des voyageurs(宿泊者名簿)を備え、警察の査察に備える義務があった。単なる宿帳ではなく、当局が個人の動向を把握する「監視ツール」としての側面が強かったため、"police"の名がついている。
「では、奥様」彼は重ねて言った。「その男性が名乗った名前を全く覚えていないのですか?... それは、メでしたか?... なんとか思い出してください... メ、メ!...」 ≪23-81≫
「ああ!… もう、忙しくて頭が一杯で…」 ≪23-82≫
「仕方ない…」と若い刑事は呟き、立ち去ろうとした。「英国みたいに、宿泊客の名前を記録すべきでしょうね」 ≪23-83≫
「でも、記録は取っていますよ、お客様」と、女性は反発して言い返した。「毎日、各項目ごとに欄のある、印刷された専用の登録簿に… そうだ、思いつきました。せっかくですから、宿帳をお見せしましょう。書類机の引き出しに入っています… さて、まあ! 今度は鍵が見つからない...」 ≪23-84≫
その女将は、喋る鳥たちと同じく脳みそが足りないようだった。ホテルの帳場を至る所ひっくり返して探し回る彼女を、ルコックはこっそり観察した。 ≪23-85≫
四十くらいの女性で、綺麗な金髪であり、美しさを維持している金髪の女性たちのように、つまり若々しく自らを保ち、肌は白く瑞々しく、肉付きも素晴らしい。コルセットいっぱいに健康が詰まっていて、ひとたび噛みしめれば甘い蜜が唇を伝う、熟れきった見事な果実のように、食欲をそそる女だった。 ≪23-86≫
彼女の視線はまっすぐ素直で、声は快く響き、その振る舞いは飾り気がなく、ごく自然なものだった。 ≪23-87≫
「ああ!」彼女は勝ち誇ったように叫んだ。「忌々しい鍵があった」 ≪23-88≫
彼女はすぐに事務机を開け、警察登録簿を取り出して棚板の上に置き、ページをめくり始めた。 ≪23-89≫
※ tablette: (以下、未確認のGemini訳註) 事務机(secrétaire)に付随している、書き物をするための引き出し式の平らな板。
その手つきはかなり不器用だったので、山猫の目を持つ若い刑事は、その帳簿がきちんと管理されていることを確認できた。 ≪23-90≫
※ yeux de lynx: (以下、未確認のGemini訳註) オオヤマネコの目。探偵小説では「鋭い観察眼」の定番の比喩。
ついに、彼女は大事なページにたどり着いた。 ≪23-91≫
「二月二十日、日曜日」と彼女は言った。「お客様、ご覧ください、ここ、七行目。メ… 洗礼名なし… 旅芸人 … ライプツィヒから… 身分証なし...」 ≪23-92≫
ルコックがすっかり呆然として、この記述を見つめている間に、女はさらに別のことを思い出した。 ≪23-93≫
「ああ、わかった!」と彼女は叫んだ。「どうして、このメという名前も、旅芸人なんていう変な職業も記憶に残ってなかったのか。書いたのは私じゃない...」 ≪23-94≫
「では誰が?...」 ≪23-95≫
「その方、ご本人です、お客様。私は、受け取ったルイ金貨のお釣り十フランを探していたんですよ。この字は、その上とか下とかとは全く違うことがお分かりでしょう...」 ≪23-96≫
※ dix francs: 十フランの前金なので、ルイ金貨(二十フラン)を出したらお釣りは十フランである。
そう、ルコックには見てとれた。それは反駁の余地がない、正確で、棒で殴られるような衝撃的な証拠だった。 ≪23-97≫
「絶対間違いないの?」と彼は鋭く迫った。「書き込んだのは確かにその男?... 誓えるの?...」 ≪23-98≫
とても動揺していたので、異国風の発音を忘れてしまった。女はそれに気づき、後ずさりして、不審な眼差しで、この偽外国人を睨んだ。 ≪23-99≫
そして、不信感に続いて、騙されたことへの怒りが表れた。 ≪23-100≫
「自分の言っていることくらい分かってます!」彼女は冷たく言い放った。「それより、もう十分でしょう?」 ≪23-101≫
自ら正体を明かしてしまったことに気づき、冷静さを失ったことを恥じて、ルコックは海峡の向こう側の訛りをやめた。 ≪23-102≫
「すみません」と彼は言った。「最後にもう一点。その男のトランクはまだありますか?」 ≪23-103≫
「もちろん」 ≪23-104≫
「ああ!… それを見せていただければ、大変助かります」 ≪23-105≫
「見せろだって!」金髪の女将は憤慨して叫んだ。「一体、私を何だと思ってるの?… 何のつもり、あなたは誰?…」 ≪23-106≫
「三十分後にわかりますよ」若い刑事は、何を言っても無駄だと悟った。 ≪23-107≫
彼は急に外へ飛び出すと、ルーベ広場まで走り、馬車に飛び乗った。その地区の警察署長の住所を告げ、運賃に加えて、馭者に百スーを約束した。その報酬で、痩せ駄馬は鞭打たれて飛び出した。 ≪23-108≫
※ la place de Roubaix: 北駅の駅前広場(現在はplace Napoléon-IIIと改名)のことだろう。これで、マリアンブールホテルはサン・カンタン通りの北駅側すぐそば、と確定。
↓当時の木版画 (旧北駅と駅前広場 Auguste ou François-Auguste Trichon作) 馬車も見える。

※ l'adresse du commissaire du quartier: ≪23-120≫参照。作者はcommissariatのつもりで書いているのかも。ただし作中時間では午後八時以降なので、署長は自宅に戻っているだろう。
※ cent sous: 五フラン。≪1-15≫の換算で4700円。
ルコックにはまだ運があった。署長は自宅にいた。ルコックは身分を明かし、すぐに地区司法官の前に案内された。 ≪23-109≫
※ le magistrat du quartier: commissaire(署長)と同じ。(以下、未確認のGemini訳註) commissaire de police は行政警察の長であると同時に、予審判事の補助的な司法権限(magistratとしての側面)も持っていたため、このような書き分けがされている。
「ああ!… 閣下」と彼は叫んだ。「どうかお力添えを」 ≪23-110≫
そして、一気に、この窮地を脱するために必要最低限の話をした。 ≪23-111≫
彼が話し終えるとすぐに、 ≪23-112≫
「ああ、確かにその通りだ!」と署長は声を上げた。「行方不明の男のことで、誰かが私を訪ねてきた、と今朝、カジミールから聞いたよ...」 ≪23-113≫
「誰かが来て... あなたに... 通報した、と...」とルコックは口ごもった。 ≪23-114≫
「昨日... そうだ... だが、とにかく忙しくてね! … さて、若いの。私に何をしてほしいんだね?」 ≪23-115≫
「閣下、私と一緒に来て、トランクを提出するよう要求し、それを開けるために鍵屋を呼んでください。これは、予審判事から予めいただいていた権限証書と、捜索令状です。一刻を争うのです。馬車が表で待っております」 ≪23-116≫
「行こう!」署長は、ただそう言った。 ≪23-117≫
馬車に乗り込み、馬が再び全速力で駆け出したとき、 ≪23-118≫
「さて、閣下」若い刑事は尋ねた。「お聞きするのをお許しください。マリアンブールホテルを営んでいる女性をご存じでしょうか?」 ≪23-119≫
「もちろん!… 六年前にこの区に赴任した時、私はまだ結婚しておらず、かなり長い間、その女性の宿の食卓(ターブル・ドット)に席を並べていた… 秘書のカジミールは、今でもそこで食事をしているはずだ」 ≪23-120≫
※ j'ai été nommé à cet arrondissement: と言うことは、署長は区の警察トップなのか? 当時の警察の管轄区域をGrokで調べると、1850年以降は、各区のquartierごとに48の独立したcommissariat de policeがあったようだ。ホテルがあった地域は旧五区のquartier du Faubourg-Saint-Denis署が管轄で、警察署の建物は43-45 rue de Chabrol(現在の中央警察署近く)と思われる。詳細未確認。
※ table d'hôte: 現在のレストランのような個別注文のスタイルではなく、決まった時間に、宿の主人や他の宿泊客、時には近隣の常連客が一つの大きなテーブルに座り、主人が出す大皿料理をみんなで分かち合って食べるスタイル。
「どういう素性の方なのですか?」 ≪23-121≫
「うん、そうだな!… 若い同志よ。ミルナー夫人、それが名前だが、この地域で愛され、尊敬されている、非常に立派な未亡人だよ。商売も繁盛しているし、未亡人のままでいるのも、単に本人がそれを望んでいるからだ。今でも十分魅力的だし、非常に裕福なのだから...」 ≪23-122≫
「では、彼女が多額の報酬と引き換えに、何と言いましょうか… ある非常に裕福な被告人のために便宜を図る…」 ≪23-123≫
「馬鹿言うな!… 」と署長は遮った。「ミルナー夫人が金のために偽証をするなんて!… 彼女は誠実で、財産を持っていると今言ったばかりじゃないか?… そもそも、彼女は昨日、私に通報してきた。つまり...」 ≪23-124≫
ルコックは黙った。到着したのだ。 ≪23-125≫
「馴染み」署長の背後に、しつこい質問者が現れたのを見て、ミルナー夫人はすべてを察したようだった。 ≪23-126≫
「なんてこと!… 」と彼女は叫んだ。「捜査官!気づくべきだった。犯罪があったのね。これでうちのホテルの評判は台無しよ」 ≪23-127≫
彼女を落ち着かせ、慰めるのに時間がかかった。近くの鍵屋を探している間ずっとだった。 ≪23-128≫
ようやく、失踪した男の部屋へ上がり、ルコックはトランクに飛びついた。 ≪23-129≫
ああ!… 否定のしようもなかった。それはライプツィヒから来たものだ。様々な鉄道当局が貼りつけた数多くの小さなラベルが証明していた。 ≪23-130≫
トランクが開いた。男が言ったものはすべてそこに入っていた。 ≪23-131≫
ルコックは石のように固まった。彼は、署長が中身をすべて戸棚にしまい、鍵を掛け、それから部屋を出るのを、馬鹿みたいに呆然と眺めていた。 ≪23-132≫
彼も部屋を出た。壁に手を突き、頭は空っぽだった。そして、酔っ払いがよろめくような音が階段に響いた。 ≪23-133≫
※ 初出紙の連載第35回目(1868-6-30)の終わり
(つづく)
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