十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載33(第1部第23章の1)

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(左)Rue de Saint-Quentin, 10ème arrondissement, Paris. Vers 1890. 撮影Hippolyte Blancard (1843-1924)

(右)Gare du Nord, Paris - circa 1850. 旧駅舎正面


XXIII

長く、狭く、天井が低く、番号の付いた小さな扉がたくさん並んでいて、まるで安宿の廊下であり、端から端まで、使い古されて黒ずんだ粗末な樫のベンチが並んでいる。それが予審回廊である。 ≪23-1≫

日中は、いつもの面々である、被告たち、証人たち、パリ衛兵たちで溢れ、重苦しい不快感が漂う。 ≪23-2≫

夜になると、そこは不気味なほど寂しく、遅くまで仕事をする判事を待つ当直の執達吏の、煙るランプが放つ弱い光だけが、ぼんやりと明るい。 ≪23-3≫

めったに動じないルコックでも、この果てしなく続く廊下を歩いていると胸が締めつけられる。この静寂の中で響く自分の足音の、物悲しさに耐えかね、急いで階段へと向かった。 ≪23-4≫

下の階に、開いた窓が一つあった。外の様子を確かめようと、そこから身を乗り出した。 ≪23-5≫

気温は驚くほど和らいでいた。雪は消え、石畳はほとんど乾いている。ガス灯の赤い光に照らされた淡い霧が、紫色の天幕のようにパリの空に漂っているだけだった。 ≪23-6≫

下を見ると、通りの活気は最高潮だった。馬車はとても早く走り、歩道は、仕事を終えて娯楽に急ぐ騒がしい群衆には狭すぎた。 ≪23-7≫

その光景に、 若い刑事は大きなため息をついた。 ≪23-8≫

「この巨大な街で」と彼は呟いた。「この人ごみの中で、誰だかわからぬ者の痕跡を掴むのか…!そんなことが可能なのか…?」 ≪23-9≫

しかし、その弱気は長く続かなかった。 ≪23-10≫

「いや、可能だ」と内なる声が彼に叫んだ。「と言うか、やらなければ。それが未来へ繋ぐ! 為そうと欲する者は、為し得るのだ」 ≪23-11≫
※ Ce qu'on veut, on le peut: 諺。一般的にはQuand on veut, on peutの形が多い。

十秒後、彼は路上にいて、これまで以上に勇気と希望に燃えていた。 ≪23-12≫

残念ながら、人間は、際限なき欲望の担い手として、非常に限られた器官しか持ち合わせていない。 若い刑事が二十歩も行かないうちに、肉体が意志に追いつかないと気づいた。足が震え、目が回る。抑えていた自然の欲求が力を取り戻したのだ。二日と二晩、彼は一秒も休まず、その日は何も食べていなかった。 ≪23-13≫

「ここで気絶するのかも?」と彼は考え、ベンチに座るしかなかった。 ≪23-14≫

今夜のうちに、片付けねばならぬ仕事の数々を思い返し、彼は途方に暮れた。 ≪23-15≫

最も差し迫った用件だけでも片付けなけば。アプサント親父の狩りの顛末を聞き、死体公示所で犠牲者の身元が判明したか確認し、北駅周辺のホテルを回り被告の供述の裏を取り、さらにはポリット・シュパンの妻の住所を突き止め召喚状を手渡しする?… ≪23-16≫

切迫した使命に鞭打たれ、彼は衰弱をなんとかねじ伏せ、立ち上がりながら呟いた。 ≪23-17≫

「とにかく、ジェルザレム通りと死体公示所へ行って、後は、それからだ」 ≪23-18≫

しかし、警視庁にアプサント親父の姿はなく、誰も彼の消息を知らなかった。親父は一度も戻っていなかった。 ≪23-19≫

また、シュパン後家の嫁の住居について、漠然とした情報すら誰も掴んでいなかった。 ≪23-20≫

その代わり、多くの同僚たちに出くわしたが、皆、彼を酷く嘲り笑った。 ≪23-21≫

「おい! ズル兎!...」彼が話しかけるたびに皆が言った。「お前、とんでもない大発見をしやがって!... 勲章が授与されるって噂だぜ!」 ≪23-22≫
※ lapin: ずる賢い奴、抜け目のない奴、自惚れ屋
※ la croix: レジオン・ドヌール勲章

ジェヴロルの影響が表れていた。執念深い警部は、野心に狂った哀れなルコックが、下劣な前科者を、変装した大物貴族だと頑なに信じ込んでいると、皆に話していたのだ。 ≪23-23≫

「なんだい!… 」そんな冷やかしは若い刑事にちっとも響かなかった。「最後に笑う者が勝つ」と彼は呟いた。 ≪23-24≫

オルフェーヴル河岸を戻る彼の顔に不安の影が差していたが、アプサント親父の不在が長引いている理由が掴めなかったからだ。嫉妬でおかしくなったジェヴロルが、この事件を故意に絡れさせようとしているのでは、とまで考えていた。 ≪23-25≫

死体公示所でも、良い話は無かった。三、四回呼び鈴を鳴らした後、ドアを開けた警備員は、遺体は依然として身元不明のままであり、朝に派遣された年配の捜査官は戻ってこなかった、と彼に伝えた。 ≪23-26≫

「まったく」と若い刑事は思った。「不運な出だしだ… 夕食にしよう。運が向くかもしれない。良いワインを一本空けても良いくらいの仕事はしたはずだ」 ≪23-27≫

それは素晴らしい思いつきだった。人間とはなんと単純なものか!…一杯のスープと二杯のボルドーワインで、彼の血に新たな勇気と活力が注ぎ込まれた。まだ疲れは感じていたが、レストランを出て葉巻をくわえる頃には、十分耐えられる程度になっていた。 ≪23-28≫

その時ばかりは、パピヨン親父のあの馬車と良馬が恋しかった! だが偶然、一台の辻馬車が通りかかった。彼はそれに乗り、北駅広場に着いた時には、ちょうど八時の鐘が鳴り響いていた。彼はまず立ち止まり、それから捜査を始めた。 ≪23-29≫

もちろん、各ホテルで、治安局の捜査官という身分は明かさなかった。そんなことをすれば、何も聞き出せなかっただろう。 ≪23-30≫

髪を後ろへ撫でつけ、シャツの襟を立てただけで、どこか異国風の雰囲気を醸し出した。そして、大げさな英国訛りで、外国人労働者の消息を尋ねた。 ≪23-31≫

しかし、彼が巧みに質問を重ねても無駄で、どこでも同じ答えだった。 ≪23-32≫

「知らんな、見たこともない!…」 ≪23-33≫

答えがその反対ならルコックは驚いただろう。ホテルにトランクを預けたという話は、殺人犯が供述に信憑性を与えるために作っただけのものだ、と彼は確信していた。 ≪23-34≫

それでも彼が根気強く、調べたホテルを逐一手帳に書き留めていたのは、被告を現場に連れて来て、嘘を突きつけ、失望させる場面を確実にしたいと思ったからだ。 ≪23-35≫

サン・カンタン通りでは、マリアンブールホテルから調査を始めた。 ≪23-36≫
※ Rue de Saint-Quentin

その建物は質素な外観だったが、清潔で手入れが行き届いていた。 若い刑事は、玄関への出入りを遮る鈴付きの格子戸を押し開け、ホテルの帳場に入った。そこは、曇りガラスの球をかぶせたガス灯に照らされた、こぎれいな一室だった。 ≪23-37≫

帳場には女が一人でいた。 ≪23-38≫

女は椅子の上に立ち、大きな黒い光沢布(ラストリン)の布で覆われた鳥かごに顔を寄せ、ドイツ語の三、四語を根気強く繰り返していた。 ≪23-39≫
※ lustrine: 綿の綾織で、熱と圧力で光沢を出した裏地用織物

彼女はこの稽古に熱心に打ち込んでいたので、ルコックは咳をして音を立て、注意を引かなければならなかった。 ≪23-40≫

ようやく、彼女は振り返った。 ≪23-41≫

「オゥ!... どうも今晩は、奥様」と 若い刑事は言った。「見たところ、オウムに言葉を教えていらっしゃるようですね」 ≪23-42≫

「これはオウムではなく、ムクドリです、お客様」と女性は椅子の上から答えた。「ドイツ語で『朝食を食べたか』と言わせたいの」 ≪23-43≫
※ monsieur: これは「お客様」
※  sansonnet: ホシムクドリSturnus wulgaris (以下、未確認のGemini訳註) 当時、オウムより安価で言葉を覚える鳥として親しまれていた。

「へえ!… ムクドリも喋りますか?」 ≪23-44≫

「人間そっくりにね、ええ、お客様」そう言って、女は床へ飛び降りた。 ≪23-45≫

すると、その鳥は、自分が話題になっていることがわかったのか、はっきりと鳴き始めた。 ≪23-46≫

「カミーユ!…カミーユはどこ?」 ≪23-47≫

しかし、ルコックは心に全く余裕がなく、この鳥や、それが発した名前に気を留めることはなかった。 ≪23-48≫

「奥様」と彼は始めた。「このホテルの経営者の方とお話したいのですが...」 ≪23-49≫

「私がそうです、お客様」≪23-50≫

「ああ!… そうですか。実はですね、ライプツィヒの職人とパリで待ち合わせをしているのですが、まだ来ていないので驚いているんです。あなたの宿に彼が泊まっていないか確かめに来ました。名前はメです」 ≪23-51≫

「メ」と女将は繰り返した。記憶を辿るような様子だった。「メ!…」
≪23-52≫

「日曜日の夕方に到着するはずでした… 可哀そうな奴!」 ≪23-53≫

女性の顔が明るくなった。 ≪23-54≫

「ちょっと待ってね!」と彼女は言った。「その職人さんは、ひょっとして、そこそこのお年で中肉中背、髪も髭も真っ黒で、ぎらぎらと輝くような目をした方ではありませんか?」 ≪23-55≫

ルコックは身震いした。それは殺人犯の人相風体だった。 ≪23-56≫

「それはまさに」彼は言葉を詰まらせた。「その男の姿です!」 ≪23-57≫

「まあ!… お客様、その方は、謝肉祭の日曜日の午後にうちに来ました。とにかく安い部屋を、というので六階の小部屋に案内しました。ちょうどその時、小僧が不在でしたが、その方はどうしても自分でトランクを運ぶと頑張りましたよ。何か召し上がりますか、とお聞きしたのですが、急いでいるからと断られ、前金の十フランを置いてすぐに出て行きました」 ≪23-58≫
※ cinquième: 五番目の床=六階。実際に六階でなくても屋根裏部屋の隠語かも。(以下、未確認のGemini情報) エレベーターない時代は六階が建物の上限だった。
※ dix francs: ≪1-15≫の換算で九千四百円。Geminiの未確認情報によると当時の中級ホテルで一泊三〜七フラン程度。

「それで、その男は今どこに?」若い刑事が急いで尋ねた。 ≪23-59≫

「どうしましょう!… お客様、そう言われてみれば!… 」女は答えた。「あの方は戻ってこなくて、心配でなりません。パリは外国人にとって、とても危険な街です! もっとも、あの方はあなたや私と同じようにフランス語をちゃんと話してましたけれど、関係ないですね!… 昨日の晩、警察署長に届け出るよう言いつけました」 ≪23-60≫

「昨日!…署長に!… 」 ≪23-61≫

「ええ… ただ、ちゃんと使いが行ったかどうかは知りません… 忘れていました! 小僧を呼んで聞いてみましょう…」 ≪23-62≫

※ 初出紙の連載第34回目(1868-6-29)の終わり

 

(つづく)
 
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