十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載32(第1部第22章)

Chez le juge d'instruction, Edouard GELHAY(1856-1939), huile sur toile, vers 1890. 衛兵、被告、書記、予審判事が見える。ここでも予審判事は背広姿である。

 

XXII

被告が退出すると、セグミュラ殿は膨大な努力を空しく費やした後の、疲れ果て、打ちのめされ、茫然自失な様子で椅子にどさりと腰を下ろした。 ≪22-1≫

知性と精神の働き全てを過度に昂ぶらせた反動で、抗いようのない脱力感に襲われていた。 ≪22-2≫

冷水に浸したハンカチで、熱い額とヒリヒリする目を抑えるのがやっとの力しか残っていなかった。 ≪22-3≫

この凄まじい予審の一幕は、たっぷり七時間を超えた。 ≪22-4≫
※ instruction: 予審とは、現行犯の場合を除き、予審判事が重罪または軽罪を確認し、その正犯および共犯者を探求するために行う一連の行為(予審判事マニュアル第八章の定義)。従って、調査、尋問、証拠収集及び吟味、調書作成、などを含む広範囲な概念。

一方、その間ずっと机に座って書き続けていた陽気な書記官は、やっと立ち上がり、ペンを握り続けて強張った指を鳴らし、足を伸ばして、とても嬉しそうだった。 ≪22-5≫

しかし、彼は退屈していたわけではない。長年、目の前の人間ドラマを観察してきたが、結末の不確かさと、自分もささやかな役割を担っているという意識が、演劇のような興奮を彼に与え続けていた。 ≪22-6≫

「なんて下衆野郎だ!…」と彼は叫んだ。判事や治安局捜査官からの一言を待ったが、無駄だった。「なんて極悪人だ!…」≪22-7≫
※ この場面の「悪党」の表現(以下、未確認のGemini訳註)
(1) Gredin: 原義は「乞食」「浮浪者」。「人間として程度が低い」「魂が卑しい」というニュアンス。
(2);Scélérat: ラテン語scelus(犯罪)に由来。ニュアンス:極悪非道、大罪人、冷酷な悪党。

普段、セグミュラ殿はゴゲの長い経験にある程度の信頼を寄せていた。モリエールが使用人に相談したように、彼に相談することさえあった。 ≪22-8≫
※ Molière consultait sa servante: 劇作家モリエールが、自分の脚本が一般大衆に受けるかどうかを判断するために、教育を受けていない女中(Laforêt)に読み聞かせて反応を見たという有名な逸話がある。

しかし今回は、彼の意見に同意する気になれなかった。 ≪22-9≫

「いや」と彼は考え込んで言った。「いや、この男は性悪ではない。私が優しく語りかけたとき、彼は心底動揺し、涙を流した。断言しても良いが、すべてを打ち明ける寸前だった… 」 ≪22-10≫

「ああ!… 彼は手強い」とルコックは認めた。「とてつもなく手強い!」 ≪22-11≫

若い刑事の賛辞は本心だった。自分の計算を狂わせ、さらには侮辱までした被告を恨むどころか、その手腕と大胆さに感嘆していた。 ≪22-12≫

彼は、この男と徹底的に戦う覚悟を決め、打ち負かそうと心に決めていた… 関係無い! 彼は、自分にふさわしいと感じる敵に対して抱く、あの秘かな共感を、この男に対して抱いていた。 ≪22-13≫

「なんという精神力」とルコックは続けた。「なんという冷静さ、そして度胸!...ああ!... 認めざるを得ません。あの徹底した否認の流儀は、まさに傑作です。完璧で、一切の隙もありません。そして、あの信じ難い道化師役を見事に演じきった!... ええ、思わず拍手するのを我慢した瞬間が何度もありました。世に名高い役者たちが、彼の足元に及ぶでしょうか?... 偉大な俳優たちでも、幻想を与えるには舞台の演出効果が必要です... 彼は、すぐ隣で、私の理性を揺さぶってみせたのです」 ≪22-14≫

徐々に、予審判事は回復しつつあった。 ≪22-15≫

「捜査官殿」と彼は言った。「あなたの考察は正しい。それが何を証明しているかわかりますか?」 ≪22-16≫

「教えてください、閣下」 ≪22-17≫

「よろしい、私の結論はこうです。この男は、彼が言うように、本当に『口上を述べる』メという男か、あるいは、最高位の社会階層に属する人物か、そのどちらかです。中間ではない。彼が見せたあの陰鬱なエネルギー、生への執着のなさ、類まれな機転と決断力は、社会の最下層か最上層でしかお目にかかれません。凡俗なブルジョワが、いわく言い難い情熱に駆られて『胡椒入れ』に迷い込んだのであれば、とっくにすべてを告白し、とっとと優遇措置を求めているはずでしょう...」 ≪22-18≫
※ pistole: (以下、未確認のGemini訳註) 当時の監獄で「金を払って受けられる個室や食事などの特別の便宜」を指す隠語。

「でも、閣下、この被告は道化師メではありません」と若い刑事が言った。 ≪22-19≫

「そう、その通りです」とセグミュラ殿は答えた。「つまり、調査の方向性を決めるのはあなたの役割です」 ≪22-20≫

彼は親しげに微笑み、一層穏やかな声で付け加えた。 ≪22-21≫

「そんなことを言う必要などなかったね、ルコック殿?... そう、この詐欺を見抜いた栄誉はあなたにあるのですから。私のほうは、警告がなかったら、今この瞬間も、あの偉大な芸術家に騙されていたことでしょう」 ≪22-22≫

 若い刑事は、頬を赤らめてお辞儀をした。しかし、その瞳には、紅ザクロ石(エスカーブクル)より強く、晴ばれした自負心が輝いていた。 ≪22-23≫
※ escarboucles: (以下、未確認のGemini訳註)「ガーネット(ざくろ石)」や、伝説上の光る宝石。

この感情豊かで慈愛に満ちた判事は、寡黙で高慢なもう一人の判事と比べて、なんと大きく違うのだろう! ≪22-24≫

こちらの人は、少なくとも、彼を理解し、評価し、励ましてくれた。そして、二人は共通の仮説と同じ熱量でもって、真実の解明へ飛び込もうとしていた。 ≪22-25≫

もし、清朝の官吏を殺せるあの小指を動かすだけで、デスコルヴァル殿の骨折した足が即座に治るぞ、と言われても、ルコックはきっと躊躇するだろう。 ≪22-26≫
※ le petit doigt… qui tue les mandarins: シャトーブリアン『キリスト教の本質』(1802)が元ネタ? 有名なのは、バルザック『ゴリオ爺さん』(1835)の引用。「お前、ルソーを読んだか?… 『パリを離れることなく、ただ自分の意志だけで中国の老官吏を殺せば富を得られるとしたら、あなたならどうするだろうか』と問う、あの一節を覚えているか?」バルザックは間違えてルソーを巻き込んでいる。そしてデュマ『モンテ・クリスト伯』(1844)に「指」が登場する。「指先一つで、五千リーグも離れた場所で殺される中国の官吏」(仏Wiki "Bouton du mandarin"参照)

若い捜査官はそんな思いに耽っていた… ≪22-27≫

しかし同時に、この満足感はまだ時期尚早であり、成功は依然として先が全然見えていないとも考えていた。 ≪22-28≫

熊の皮が早々と売られたことを思い出し、彼は冷静さを取り戻した。 ≪22-29≫
※ la peau de l'ours: (以下、未確認のGemini訳註) ラ・フォンテーヌの寓話(1668)にある「熊の皮を売る前に、まず熊を仕留めよ」という格言。イソップでは皮を売るくだりは無い。

「閣下」と彼は落ち着いた口調で続けた。「ひとつ、考えが浮かびました」 ≪22-30≫

「何でしょう?」 ≪22-31≫

「シュパン後家が、多分ご記憶でしょうが、ポリットとか言う息子のことを口にしていました」 ≪22-32≫

「ああ、確かに」 ≪22-33≫

「その若者は、見下げ果てた小悪党で、判決まで監獄に留まることになりました。彼を尋問してみませんか? 奴なら『胡椒入れ』の常連客を良く知っているはずで、ギュスターヴやラシュヌール、そして殺人犯本人について貴重な情報を提供してくれるかもしれません。奴は隔離されていないので、おそらく母親の逮捕は知っていると思いますが、司法の難しい状況には気づいていないでしょう」 ≪22-34≫

「ああ!… 全くもってそのとおりだ!」と判事は叫んだ。「なぜ私はそれを思いつかなかったんだ!  明日、朝一番で、この男を尋問しよう。被告という立場なので、他の者よりも扱いやすいでしょう。彼の妻にも質問したい…」 ≪22-35≫

彼は書記官の方を向いて、こう付け加えた。 ≪22-36≫

「急いで、ゴゲ。イポリット・シュパンの妻宛の召喚状を用意してくれ。それから連行命令書一通の作成も頼む」 ≪22-37≫
※ ordonnance d'extraction: 拘置所などにいる囚人を、尋問などのために一時的に連れ出すための命令書。

しかし、夜が訪れており、書くには十分な明るさがなかった。書記官はベルを鳴らし、明かりを求めた。 ≪22-38≫

ランプを持って来た執達吏が退出しようとしたとき、ドアがノックされた。彼がドアを開けると、帽子を手にした監獄長が入ってきた。 ≪22-39≫

この立派な役人は、二十四時間前から、隔離房三号に収容した謎めいた住人のことが気がかりで、様子を伺いに来たのだ。 ≪22-40≫

「閣下、お聞きしたいのですが」と彼は言った。「被告人メの隔離を継続すべきですか?」 ≪22-41≫

「もちろんです、閣下」 ≪22-42≫

「彼が逆上するのを心配する一方で、拘束衣を着せるのは気が進まないのです」 ≪22-43≫

「独房では、自由にさせておいてください」とセグミュラ殿は言った。「丁重に扱うよう指示し、絶え間ない監視を行うだけで十分です」 ≪22-44≫

第613条の規定によれば、刑務所の管理は行政当局に委ねられているが、判事は、予審に有用と認めるあらゆる措置をそこで執行させる権限を有している。 ≪22-45≫
※ l'article 613: Code d'instruction criminelle (1808)の規定。市長、警察長官または警察総監は、被収容者の食事が十分かつ健全であることを確保しなければならない。これらの施設の警備は、その管轄下にあるものとする。ただし、予審判事および重罪裁判長は、それぞれ、予審または裁判のために必要と認めるあらゆる命令を、拘置所および裁判所内において執行させる権限を有する。

獄長は頭を下げ、こう付け加えた。 ≪22-46≫

「閣下、被告の身元は確認できたのでしょうか?」 ≪22-47≫

「いいえ、残念ながら」 ≪22-48≫

獄長は訳知り顔で首を振った。 ≪22-49≫

「それならば」と彼は言った。「私の推測は正しかったわけだ。 この男は最悪の犯罪者であり、再犯者であり、自らの素性を隠すことに極めて強い利害関係を持つことは、この上ないほど、明白です。閣下、我々が相手にしているのは、カイエンヌから無断で戻った終身囚の類でしょう」 ≪22-50≫
※ Cayenne: 別名「悪魔島」フランス領ギアナの流刑地。1850年頃から運用されているようだ。監獄の設置は1852年。仏Wiki "Île du Diable" 参照。

「おそらくあなたは間違っている...」 ≪22-51≫

「うーん!… それは驚きです。私は、最も経験豊富で有能な治安局警部、ジェブロル殿と同じ意見だと言わざるを得ません。とはいえ、若くて熱心すぎる捜査官が調子に乗り、想像力が生んだ怪物(キマイラ)を追いかけることは良くある話ですな」 ≪22-52≫

ルコックは怒りで顔を真っ赤にし、きつい口調で反論しようとしたが、セグミュラ殿が身振りで沈黙を命じた。 ≪22-53≫

判事は微笑みながら答えた。 ≪22-54≫

「まあまあ!… 親愛なる閣下、この事件を詳しく調べるほど、私は、熱心すぎる捜査官の説に傾いていますよ。とはいえ、私も完璧な人間ではないので、あなたの協力をとても頼りにしています... 」 ≪22-55≫

「ああ!… 確認する手立てを用意しました」と頑固な獄長は遮った。「二十四時間以内に、治安局所属の捜査官たち、あるいは面通しする受刑者たちによって、この男の正体が間違いなく特定されると踏んでいます」 ≪22-56≫

彼はそう約束して退室した。ルコックは怒りに震え、立ち上がった。 ≪22-57≫

「お聞きになりましたか、判事殿」と彼は叫んだ。「あのジェヴロルは、もう私を悪く言っている。嫉妬しているのです...」 ≪22-58≫

「おやおや!… どうでもいいでしょう! あなたが成功すれば、それが復讐となりますよ... 失敗しても、私がついています」 ≪22-59≫

そして、時間が遅くなっていたため、セグミュラ殿は、手早く、捜査に役立つはずの、集めた証拠品を若い刑事に渡した。まずは、出所を突き止めなくてはならぬ、あの耳飾り。そして、偽兵士ギュスターヴのポケットから見つかった、ラシュヌールと署名のある手紙。  ≪22-60≫

彼はさらに幾つかの指示を与え、明日は遅れないよう念を押すと、こう言って彼を送り出した。 ≪22-61≫

「行きなさい… 幸運を祈ります」 ≪22-62≫

※ 初出紙の連載第33回目(1868-6-28)の終わり


(つづく)
 
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