十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載30(第1部第21章の1)

bottes と pantoufles、19世紀フランスのもの。

 

XXI

これらの繊細かつ厄介な身元確認の問題は、今までに何度も現れ、司法を絶望させてきた。 ≪21-1≫

鉄道、写真、そして電信。捜査の手段は増えたが、無駄だった。今日なお、巧妙な犯罪者たちが、判事から正体を隠し、上手く逃れ、その結果、過去の責任が追及されずに終わっている。 ≪21-2≫

ある機知に富んだ検事総長が、笑いながらこう言ったことがある---おそらく半分は冗談ではなかった。 ≪21-3≫
※ procureur-général

「役所に届け出られる赤子全ての肩に、番号を焼印せよと法律で定める日が来るまで、人物の取り違えはなくなることがないだろう」 ≪21-4≫

確かに、セグミュラ殿は、目の前にいる謎めいた被告人にその番号があればなあ、と思っていただろう。 ≪21-5≫

それでもなお、彼は絶望してはいなかった。彼の自信は、誇張はあったものの、演技ではなかった。 ≪21-6≫

彼は、この二人の女の状況が、殺人犯の説明の弱点であり、攻勢を集中すべき点であると考えていた。 ≪21-7≫

しかし、最初の尋問では、いかなる論点も徹底的に扱うべきではないという真っ当な理論を信じていたので、それを一旦脇へ置いていた。 ≪21-8≫

今、その圧力が効果を上げつつあると判断し、彼は続けた。 ≪21-9≫

「では、被告人、あなたは酒場にいた人物を、誰も知らないと断言するのですね?」 ≪21-10≫

「誓う」 ≪21-11≫

「この忌まわしい事件に名が挙がっている人物、ラシュヌールなる者に会ったことは一度もないのですか?」 ≪21-12≫

「その名前を初めて聞いたのは、死に際の兵士が口にした時だ。そのラシェヌールは元役者だとも言った…」 ≪21-13≫

彼は重いため息をつき、付け加えた。 ≪21-14≫

「哀れな兵隊だ!… 俺が致命傷を与えたというのに、最期の言葉は、俺の無実を証明してくれるものだった」 ≪21-15≫

このささやかで感傷的な言動に、判事はまったく動じなかった。 ≪21-16≫

「ということは」と彼は尋ねた。「その兵士の供述を事実として認めるのですね?」 ≪21-17≫

男は躊躇した。罠を嗅ぎ取り、返答を計算しているようだった。 ≪21-18≫

「認める!...」ついに彼は言った。「ちくしょうめ!…」 ≪21-19≫

「よろしい。その兵士は、思い出してほしいのですが、ラシュヌールに復讐したがっていた。ラシュヌールは彼を金で釣り、ある陰謀に巻き込んだ。その陰謀の標的は誰か?… 間違いなく、あなたです。一方、あなたは、あの夜パリに着いたばかりで、心当たりもなく、ただ偶然に『胡椒入れ』に足を踏み入れたと主張しています… 上手く噛み合わないようですが?」 ≪21-20≫

被告人は、不遜に肩をすくめた。 ≪21-21≫

「俺は」と彼は言った。「違う見方をしている。あの連中は、誰か、俺は知らんが、誰かに対して悪事を企んでいた。で、俺が邪魔だったから、言いがかりで喧嘩を吹っかけてきた」 ≪21-22≫

判事の一撃は巧みだったが、かわした技(パラード)はさらに優れていた。そのため、笑顔の書記官も、称賛するような表情の歪みを隠せなかった。彼は、そもそも、常に被告の側に立っていた… もちろん、頭の中だけにとどめているのだが。 ≪21-23≫
※ coup/parade: フェンシングの比喩なのだろう。

「では、逮捕後の経緯についてお聞きしましょう」と、セグミュラ殿が続けた。「なぜ、すべての質問に答えることを拒否したのですか?...」 ≪21-24≫

殺人犯の目に、本物か演技かわからないが、恨みの光が走った。 ≪21-25≫

「尋問はこれで十分だろう」と、彼はぶつぶつ言った。「無実の者を有罪にするつもりだな!…」 ≪21-26≫

人を食った愛嬌のある道化師の下から、粗野な男が再び顔を出した。 ≪21-27≫

「あなた自身の利益のために、礼儀正しく振る舞うよう強くお勧めします」と判事は厳しく言った。「あなたを逮捕した捜査官たちは、あなたが全ての手続きに精通しており、刑務所を裏まで良く知っていると見ています」 ≪21-28≫

「へっ! 閣下、俺は何度も逮捕されて刑務所に入れられたって言っただろ。いつも身分証明書がないせいでな… 俺は真実を話してるんだ、だから、俺がボロを出すことなんて無いんだ、まったく!」 ≪21-29≫

軽薄で不遜な仮面を脱ぎ捨て、今や不機嫌で不満げな態度を装っていた。 ≪21-30≫

しかし、彼の苦難はまだ終わっていなかった。本格的な攻撃はこれから始まるのだ。セグミュラ殿は机の上に小さな布袋を置いた。 ≪21-31≫

「これに見覚えはありますか?」と彼は尋ねた。 ≪21-32≫

「もちろん!… それは、獄長の命令で書記官が封印した包みだ」 ≪21-33≫

判事は袋を開け、中に入っていた粉塵を紙の上にあけた。 ≪21-34≫

「被告人、ご存じのとおり、この粉塵は、あなたの足首まで覆っていた泥から出たものです。これを集めた捜査官は、あなたが一夜を過ごした派出所に赴き、この粉塵と豚箱の床を覆っている土が完全に一致することを突き止めました」 ≪21-35≫

男は口を開けたまま聞いていた。 ≪21-36≫

「つまり」と判事は続けた。「間違いなく、あなたは派出所で、意図的に自分の足を汚した。何を目論んでいたのですか?」 ≪21-37≫

「俺は... 」 ≪21-38≫

「最後まで言わせてください。身元を秘密にするために、最下層の人間、大道芸人の身分を装おうと決めた。しかし、自分の体を調べられるとバレてしまうと考えたのです。書記課で服を脱がされ、履いていた汚く粗末で擦り切れたブーツから、手入れの行き届いた足が出て来たら、人々がどう思うかを予想した... なぜなら、あなたの足はあなたの手と同じように手入れが行き届いており、ヤスリで磨かれている。それで、あなたはどうしたか? あなたは水壺の中身を豚箱の床にぶちまけ、泥を何度も踏みつけた...」 ≪21-39≫

この論告の間、男の表情は次々と変わった。不安、滑稽な驚き、皮肉、そして最後に底抜けの明るさ。 ≪21-40≫

ついに彼は、言葉も継げないほどの激しい笑いの発作に、陥らざるを得なかった。 ≪21-41≫

「ほら、そういうことだ」と彼は、判事ではなくルコックに向かって言った。「十四時に十二時を探すようなことをすると、こうなる。ああ!… 捜査官殿、鋭いのはいいが、やりすぎはいかん… 実は、俺が派出所に連行されたとき、四十八時間、そのうち三十六時間は列車の中で過ごして、靴を脱いでいなかったのだ。足は赤く腫れ、火のように熱く痛んでいた。俺はどうしたか? 足に水をかけた... 大体、俺の肌が柔らかく白いのは、自分で手入れを怠らないからだ... さらに、俺たちの商売連中と同じく、俺はいつも室内履き(パントフル)だ... 実際、ライプツィヒを離れるとき、俺がブーツを全然持ってなかったので、シンプソン殿がもう履かなくなった古いブーツをくれたのだ...」 ≪21-42≫
※ pantoufles: 室内履き。シンデレラの「ガラスの靴」もこの語。
※ bottes: ブーツ

ルコックは、自分の胸を叩いた。 ≪21-43≫

「なんて僕は愚かだ」と彼は思った。「間抜け、うっかり者、馬鹿… この件は尋問まで伏せておくべきだった。あの油断のならない男が、僕が泥の粉塵を集めるのを見て、意図を察し、言い逃れを探し、そして見つけた… もっともらしい話だから、陪審員も納得するだろう」 ≪21-44≫

まさにそれが、セグミュラ殿も考えていたことだった。しかし、彼はその機転の良さに、驚きも動揺もしていなかった。 ≪21-45≫

「それでは結局」と彼は言った。「被告人、あなたは今までの主張を貫くのですか?」 ≪21-46≫

「閣下、そうだ」 ≪21-47≫

「よろしい!… では、はっきり言わねばならない。あなたは嘘をついている」 ≪21-48≫

男の唇は明らかに震え、彼はどもりながら言った。 ≪21-49≫

「もし俺が一つでも嘘をついていたら、次のパンの一口で、俺は窒息死するだろう」 ≪21-50≫
※ "Que ma première bouchée de pain m'étrangle": (以下、未確認のGemini訳註) フランスの古い誓いの言葉。

「一つだけ!… では待て」 ≪21-51≫

判事は、引き出しからルコックが作成した足型を取り出し、殺人犯に突きつけた。 ≪21-52≫

「あなたは」と彼は続けた。「二人の女は重騎兵の体格だったと証言しましたね... しかし、これが、あなたが言った大女たちが残した足跡です。あなたは、女たちは『モグラのように黒かった』と主張しましたが、ある目撃者が言っています。そのうちの一人は小柄で可愛らしく、優しい声の、非常に見事なブロンドだったと」 ≪21-53≫
※ cuirassier

彼は男の目を探し、視線が合うとゆっくり付け加えた。 ≪21-54≫

「そして、その証人とは、逃亡者二人がシュヴァルレ通りで馬車に乗った、その時の御者です...」 ≪21-55≫

この言葉は被告にとって脳天を打ち抜く衝撃となった。彼は青ざめ、よろめき、倒れないように壁にすがりつくしかなかった。 ≪21-56≫
※ coup d'assommoir: (以下、未確認のGemini訳註)「屠殺用の大槌」から転じて、人を打ちのめすような「致命的な衝撃」を指す。ゾラ『居酒屋(L'Assommoir)』(1877)でも有名な言葉。

「ああ!... あなたは真実を話したと言った!...」 と、容赦のない判事は続けた。「では、あなたが『胡椒入れ』にいた間、あなたを待っていたあの男は一体何者ですか? あなたの逮捕後、あの酒場に忍び込み、シュパン後家の前掛けのポケットにあると知っていた、決定的な証拠、おそらくは手紙を取り戻そうとしたあの共犯者は何者ですか? 酔っ払いを装い、警官を騙してあなたと一緒に監禁させた、あの献身的で大胆な友人は何者ですか? 彼と弁護の戦略を練ってはいないと主張しますか? 彼がその後、シュパン婆を抱き込んだのではないと断言できますか?」 ≪21-57≫

しかし、すでに、超人的な力で、その男は自制心を取り戻していた。 ≪21-58≫

「それは全て」と彼は嗄れた声で言った。「警察の作り話だ!…」 ≪21-59≫

※ 初出紙の連載第31回目(1868-6-26)の終わり


(つづく)
 
コメント欄を設けました。別ページに飛びます。
https://danjuurockandroll.hateblo.jp/entry/2026/02/05/013007
コメントは承認制です。