
1861年以前のGare du Nord: Auguste ou François-Auguste Trichon(1814-1898)作の木版画に彩色したもの
XX
監獄長、その二十年に及ぶ刑務所と受刑者に関する実務経験は、神託に等しい権威を彼に与えていた。今やほとんど何が起きても驚かなくなった、この観察者は、予審判事に次のように書き送った。 ≪20-1≫
「被告メに尋問する時は、十分注意を払ってください」 ≪20-2≫
全然違った! 危険な犯罪者という、書記官を青ざめさせた予告とは裏腹に、現れたのは一種の処世訓的な哲学者、無害で陽気、虚栄心が強く饒舌な、いわば口上売りのような男、結局、道化師だった!。 ≪20-3≫
拍子抜けは著しかった。 ≪20-4≫
しかし、この失望によって、セグミュラ殿は、ルコックの立てた出発点を放棄する誘惑に全くかられなかった。逆に、若い刑事の理論は、彼の心に、より深く刻み込まれた。 ≪20-5≫
彼が黙り込み、肘を机の抽斗に置き、両手で目を覆っていたのは、この姿勢なら、指を開くだけで、相手をじっくり観察できるからだった。 ≪20-6≫
この殺人犯の態度は、理解を超えていた。 ≪20-7≫
英語の「口上」を言い終わると、男は執務室の真ん中に立ち、半分は満足げ、半分は不安げな、けげんそうな表情を浮かべた。人生の半分を過ごしたと言う仮設の舞台にいるようでもあり、実になじんで見えた。 ≪20-8≫
そして、判事は、持てる限りの知性と洞察力を集め、スフィンクスの鋼の顔よりも謎めいた、何度も変わる彼の仮面から、少しでも、手がかり、希望の震え、あるいは苦悩の引き攣りを読み取ろうと努力していた。 ≪20-9≫
ここまでは、セグミュラ殿が劣勢だった。 ≪20-10≫
もっとも、彼はまだ本格的な攻勢に出ていなかった。ルコックが鍛えた武器を一切使っていないのだ。 ≪20-11≫
しかし、苛立ちが彼を支配していた。しばらくして彼が顔を上げた突然の動きからも明らかだった。 ≪20-12≫
「よく分かりました」と彼は被告に言った。「あなたは欧州の主要三言語を流暢に話せるのですね。稀に見る才能です」 ≪20-13≫
殺人犯は、誇らしげな微笑みを浮かべて一礼した。 ≪20-14≫
「しかし、それはあなたの身元を証明するものではありません」と判事は続けた。「パリに身元保証人はいますか?... あなたの正体を確認してくれる、信頼できる人物を挙げることができますか?」 ≪20-15≫
「え!... 閣下、俺はフランスを離れて十六年になる。ずっと大通りや縁日を渡り歩いてきたんだ...」 ≪20-16≫
「繰り返さないで。そのような理由は、検察を満足させません。自身の過去の経緯に、安易に逃げないように。あなたの最後の雇い主について教えてください。シンプソン殿… どんな人物ですか?」 ≪20-17≫
※ Simpson: ≪19-34≫でメは直接付き合いがあったのだから、英国人Simpsonをフランス流に「サンプソン」ではなく、「シンプソン」と発音しているはず。判事もそれを踏襲するだろう。
「シンプソン殿は資産家だ」と被告人は気分を害したように答えた。「二十万フラン以上の資産を持つ、実直な人だ。ドイツでは人形劇を興行し、イギリスでは珍品や怪奇現象を見せる。その国の好みに合わせるんだ…」 ≪20-18≫
※ deux cent mille francs: ≪1-15≫の換算で一億九千万円。
「よろしい!... その資産家なら、あなたの味方になって証言してくれるでしょう。彼を探し出すのは容易ですね」 ≪20-19≫
この瞬間、ルコックの全身に汗が噴き出した。後になって、彼はそう告白した。被告の言葉、わずか十語足らずで、捜査が裏付けられるか、あるいは打ち砕かれるか... ≪20-20≫
※ n'avait plus un brin de fil sec: 最早、乾いた糸が一本もない。冷や汗で全身がぐっしょり濡れている様子。
「もちろん」と被告は言葉を強めて答えた。「シンプソン殿は俺のことなら良いことしか言わないだろう。有名な方なので、探せるだろうが、ただし時間がかかるはず」 ≪20-21≫
「なぜです?」 ≪20-22≫
「なぜなら、今この瞬間、アメリカへ向かってる途中だから。その旅が理由で、彼と別れた... 俺は海が怖いんだ」 ≪20-23≫
ルコックの心臓を鋭く引き裂いていた不安は、一挙に消え去った。彼は息をついた。 ≪20-24≫
「ほう!…」判事は違う調子で三回言った。「ほう!… ほう!… 」 ≪20-25≫
「旅の途中、と言っても」被告は慌てて続けた。「違っているかもしれないし、まだ出発していないかもしれない。確かなのは、俺たちが別れたとき、彼は船に乗る準備を全部整えていた」 ≪20-26≫
「どの船に乗る予定だったのですか?」 ≪20-27≫
「彼は言わなかった」 ≪20-28≫
「どこで別れたのですか?」 ≪20-29≫
「ザクセンのライプツィヒで...」 ≪20-30≫
「いつ?」 ≪20-31≫
「先週の金曜日」 ≪20-32≫
セグミュラ殿は、やれやれと肩をすくめた... ≪20-33≫
「金曜日にライプツィヒにいた、あなたが?...」と彼は言った。「では、いつからパリにいるのです?」 ≪20-34≫
「日曜日の午後四時から」 ≪20-35≫
※ ≪21-42≫では「列車で三十六時間」と言っている。Grokに当時の時刻表データから、列車でのライプチッヒ〜パリ間の所要時間を推測させたところ、1855年ブラッドショーで28〜35時間程度、との回答だった。詳細未確認だが、ガボリオの記述とほぼ合致している。
「そこは証明すべきところです」 ≪20-36≫
殺人犯の顔が引きつった様子から、彼は記憶を必死に呼び起こそうとしているのだろう。一分近く、天井と床を交互に見て、頭をかき、足を踏み鳴らしながら、答えを探していた。 ≪20-37≫
「どうやって証明する」と彼はつぶやいた。「どうすればいい?…」 ≪20-38≫
判事は待つのに飽きた。 ≪20-39≫
「手伝いましょう」と彼は言った。「ライプツィヒで泊まった旅籠の人たちなら、あなたたちを覚えているはずでしょう?...」 ≪20-40≫
「旅籠には泊まってない」 ≪20-41≫
「では、どこで食事をし、寝たのですか?」 ≪20-42≫
「シンプソン殿の大きな馬車で。売約済みだったが、乗船する港で引き渡すことになっていたんだ」 ≪20-43≫
「その港はどこですか?… 」 ≪20-44≫
「わからない」 ≪20-45≫
判事ほど自分の感情を隠すのに慣れていなかったルコックは、思わず手をこすり合わせた。被告が嘘を暴かれ、彼の表現だと「壁に立たされた」と見たのだ。 ≪20-46≫
※ collé au mur: ロベール仏和「(銃殺のため)壁に立たされた」、Gemini「壁に貼り付けられた=逃げ場を失った」
「すると」とセグミュラ殿は尋ねた。「司法に対して、自分の主張以外は何ひとつ差し出すものがない、ということですか?」 ≪20-47≫
「ちょっと待って」と被告は、まだ漠然とした閃きを手で掴むかのように、両腕を前に突き出しながら言った。「待ってくれ… 俺がパリに着いたとき、トランクを一つ持っていた」 ≪20-48≫
※ malle: (旅行用の)大型トランク
「それで?… 」 ≪20-49≫
「そのトランクには、俺の頭文字が入った衣類がぎっしり詰まっていた。中には数着の上着(パルトー)、ズボン、舞台の衣装が二着... 」 ≪20-50≫
※ paletots
「先を続けて」 ≪20-51≫
「それで、鉄道を降りた後、このトランクを駅のすぐ近くのホテルに運んだ...」. ≪20-52≫
彼は突然言葉を切り、明らかに当惑していた。 ≪20-53≫
「そのホテルの名前は?」判事が尋ねた。 ≪20-54≫
「残念だ!… 閣下、まさにそれを思い出そうとしたんだが、忘れてしまった。だが、建物は忘れてない。今でも目に浮かぶ。その辺りに連れて行ってくれれば、きっと見分けがつく。ホテルの連中も俺を覚えてくれてるだろうし、何しろ俺のトランクが証拠としてそこにあるはずだ」 ≪20-55≫
ルコックは、それとは別に、北駅周辺にあるホテルを洗う、小さな予備調査を行なおうと決めた。 ≪20-56≫
※ la gare du Nord: 1900年ごろの写真→Gare du Nord en 1900
「よろしい」と判事は言った。「あなたの要望については、検討します。さて、二点伺いたい。午後四時にパリに到着したあなたが、なぜ夜中の十二時に、あの犯罪者の巣窟『胡椒入れ』にいたのですか? 周囲は空き地で、夜中に辿り着くのは不可能なはずです… 二点目。たくさんの衣服を持っていながら、なぜ非常にみすぼらしい格好をしていたのですか?」 ≪20-57≫
男はこれらの質問に微笑んだ。 ≪20-58≫
「判事殿、すぐにわかると思う」と彼は答えた。「三等車の旅は服を傷めるんだ。だから出発の時には、一番みすぼらしい服を着た。到着して、パリの石畳を足の下に感じて、俺は舞い上がった。金はあったし、その日は謝肉祭の日曜日だ。俺は遊びに行くことしか考えず、着替えなど全く頭になかった。昔、イタリア関所で遊んだことがあったので、そこへ駆け込み、立ち呑み屋に入った。そこで軽くつまんでいると、隣にいた二人の男が、『天弓』で夜を明かそうと話していた。案内を頼むと承諾してくれたので、一杯おごって、一緒に出かけた。ところが、その舞踏会で、若者たちが踊りに夢中になって俺を放っておくもんで、ひどく退屈し始めた。腹を立てて店を出た俺は、道を聞くのも嫌で、全く愚かだな! 家もない広い野原で道に迷った。引き返そうとしたら、遠くじゃないところに明かりが見えた。まっすぐそこへ向かって歩いた… それであの忌々しい酒場に辿り着いたのだ」 ≪20-59≫
※ à cent sous par tête: (以下、未確認のGemini訳註) ひどく退屈する様子を指す当時の言い回し。
「それで何が起きたのです?」 ≪20-60≫
「ああ!… ごく簡単な話だよ。入って、呼んだら、出てきて、強い酒を頼んで、出されて、座って葉巻に火をつけた。それから、あたりを見渡した。そこは、鳥肌が立つほど薄気味悪い場所だった。一つのテーブルで、男三人と女二人が、ひそひそ話をしながら飲んでいた。どうやら俺の顔が気に入らなかったらしい。一人が立ち上がって俺のところへ来ると、「お前、警察だろう、俺たちを密告しに来たんだろ、正体はわかってんだ」と言った。俺はそうじゃないと答えたが、奴はそうだと言い、俺はそうじゃないと言い… そうだ… 違う… しまいには、奴は間違いないと言い張って、俺の髭まで付け髭だと言った。いきなり、俺の髭をつかんで引っ張った。痛かったので、俺は立ち上がり、ザマミロ、拳を食らわせ、そいつを地面に倒した。運が無い!… 他の連中が飛んで来た。俺は拳銃を持ってた… 後はご存じの通りだ」 ≪20-61≫
※ v'lan: ざまあ見ろ
「では、女二人は、その間、何をしていたのですか?...」 ≪20-62≫
「ああ!... 俺は手一杯で構ってられなかった!... いなくなってたよ」 ≪20-63≫
「でも、店に着いた時に見たでしょう... どんな女たちでしたか?...」 ≪20-64≫
「そりゃもう、まったく!… 二人とも醜い女で、憲兵みたいにがっしりして、モグラみたいに真っ黒だった!」 ≪20-65≫
※ carabiniers: (以下、未確認のGemini訳註) 原義は騎兵だが、当時は地方警官garde, gendarmeのイメージが強い語。警官や守備隊員は、威厳を保つために体格の良い男たちが選ばれていた。「骨格ががっしりして、肩幅が広く、威圧感がある」というニュアンス。
※ noires comme des taupes: (以下、未確認のGemini訳註) 当時の慣用句。非常に色が黒い、薄汚く黒ずんでいる、垢抜けない、むさ苦しい、(日の当たる場所に出すべきではない)醜悪なもの、というニュアンス。
※ 初出紙の連載第29回目(1868-6-24)の終わり
(つづく)
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