十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載26(第1部第18章)

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挿絵: 中村英夫 「少年少女世界の名作文学22 フランス編4 : ルコック探偵尾行命令」氷川瓏訳(小学館 1964) ≪17-57≫のあたりか


XVIII

尋問を受ける被告二十人のうち、少なくとも十八人は「隔離房」の静寂の中で検討し練り上げられた、完璧な弁護戦略を携えてやって来る。 ≪18-1≫

有罪か無罪かに関わらず、心臓がどきどきし、喉がからからになりながら、恐ろしい予審法務官の待つ執務室の敷居をまたぐと、その瞬間から、彼らは役を演じ始める。 ≪18-2≫
※ le magistrat instructeur: 「予審法務官」と訳した。「予審判事」と同じ。

したがって、被告が入室するこの瞬間は、判事が自らの洞察力を最大限に発揮すべき瞬間でもある。 ≪18-3≫

目次を見れば、一冊の本の内容がわかるように、その人物の振る舞いは、背後の弁護戦略を露呈させてしまうはずである。 ≪18-4≫

しかし今回、セグミュラ殿は作られた見かけを警戒しなくて良いと考えた。被告が偽装など出来なかったのは明白だ、と彼は感じた。入室時の取り乱しぶりは、今の打ちひしがれた姿と同様、本物だ。 ≪18-5≫

少なくとも、監獄長が警告した危険は去っていた。それで判事は自席についた。そこは、より落ち着き、より優位に立てる場所だ。日光に背を向けており、顔は影に隠れる。必要なら、ただ身をかがめるだけで、驚きや強い感情を隠すことができる。 ≪18-6≫

反対に、被告は明るい光に晒され、顔の震え一つも、まばたき一つも、鋭い注視から逃れることは出来ないのだ。 ≪18-7≫

男は完全に立ち直ったようで、その顔つきは、冷めて関心を失った無表情に戻っていた。≪18-8≫

「気分は良くなりましたか?」とセグミュラ殿が尋ねた。 ≪18-9≫

「とても元気だ」 ≪18-10≫

「これからは」と判事は父親のような調子で続けた。「自制した行動を願っています。昨日、あなたは自ら命を絶とうとした。数々の罪に、もう一つ重大な罪を重ねるところだった。罪は...」 ≪18-11≫

唐突な動きで、被告は言葉を遮った。 ≪18-12≫

「俺は罪を犯していない」まだ荒い声ではあったが、もはや威嚇的な口調ではなかった。「襲われたから、自分の身を守っただけだ。それは誰にでも認められる権利だろう。狂ったのが三人も俺に向かって来た... 殺されないように俺は殺した。全くとんだ災難だ。腕の一本も差し出すのは仕方ないが、俺の良心は痛んでいない、全然」 ≪18-13≫
※ donnerais ma main: (以下、未確認のGemini訳註) 自分の片腕を差し出してでも、この事態をなかったことにしたい、という後悔の深さを強調する慣用句。

最後、「全然…」と言いながら、彼は親指の爪で前歯をパチンとはじいた。 ≪18-14≫
※ claquement de l'ongle de son pouce sous ses dents: (以下、未確認のGemini訳註) 話の区切りや、相手を突き放すとき、あるいは「どうだっていい」と居直るような場面で見られる仕草。「舌打ち」や「鼻で笑う」に近い、少し投げやりで挑戦的なニュアンス。

「それなのに」と彼は続けた。「俺は逮捕され、人殺し扱いだ。あんたたちが『隔離房』と呼ぶあの石の棺桶に一人、放り込まれたとき、俺は恐怖に襲われ、正気を失った。俺は思った。『おい、坊や、お前は生き埋めだ。苦しみを避けるなら、早く死ねよ』それで、俺は首を絞めようとした。俺が死んでも誰も困らない。俺の腕が頼りの妻も子供もいない。俺は自分だけだ。血を抜かれた後、俺は狂人のように布の袋に縛りつけられた… 狂人!俺は自分がそうなると思った。一晩中、看守どもが俺を追い回した。鎖でつながれた獣をいじめるガキどものようだった。俺の体を触り、覗き込み、目の前で蝋燭を振り回した… 」 ≪18-15≫

これらはすべて、深い苦渋を滲ませて語られたが、怒りは無く、激しかったが大袈裟ではなく、心から強く感じたことをそのままぶつけるような口調だった。 ≪18-16≫

それで、判事と 若い刑事は、同時に同じ考えを抱いた。 ≪18-17≫

「こいつは」彼らは思った。「別格だ。簡単には屈服しないだろう」 ≪18-18≫

一分ほど考え込んだ後、セグミュラ殿は続けた。 ≪18-19≫

「獄中で、最初、一時的に絶望したのは、ある程度、理解できます。だがその後、今朝になっても、あなたは出された食事を拒否しましたね… 」 ≪18-20≫

男の暗い表情が、この質問で突然明るくなり、目は愉快に瞬き、ついに、陽気で、率直で、響き渡る、心からの笑いを爆発させた。 ≪18-21≫

「そいつは」と彼は言った。「また別の話だ。確かに、俺は全て拒否した。でも、理由はわかるだろう… 俺は両手を布の袋に縛られていて、看守たちは、赤ん坊に乳母が粥を与えるみたいに食べさせようとした… ああ! いやだ… 俺は全力で唇を固く閉ざした。すると、一人の看守が、病気の犬に薬を流し込むみたいに、俺の口を無理やりこじ開け、スプーンを突っ込もうとした。まったくもう!… それで俺はその看守を噛もうとした、それは認める。もしあの指が俺の歯の間にあったら、そのまま食いちぎってた。そんな訳で、みんなこぞって両手を天に上げ、俺を指さしながら言い出した。『とんでもない悪党だ、恐ろしい極悪人だ‼︎』」 ≪18-22≫

その時の様子を思い出し、よほど愉快だったのか、彼は再び大笑いし始めた。ルコックは呆気に取られ、善良な書記官ゴゲはひどく憤慨した。 ≪18-23≫

一方、セグミュラ殿は、かなり苦労して驚きをすっかり隠した。 ≪18-24≫

「あなたはとても分別がある」しばらく後、彼は言った。「上司の命令に従ってあなたを拘束し、しかもあなた自身の逆上から助けようとした人たちなんですから、もう恨んではいませんよね」 ≪18-25≫

「ふん!... 」 被告は再び真剣な表情に戻った。「まだ少しは腹に据えかねている。もしあいつらの一人を暗がりに連れ込めたら... いや、まあいい。そのうち収まる。俺は鶏と同じで根に持たないんだ」 ≪18-26≫
※ pas plus de fiel qu'un poulet: 鶏と同じで胆汁がない。(以下、未確認のGemini訳註) fielは「胆汁」=「恨み、悪意」。鶏には胆嚢がない(当時の俗信)から「自分は根に持たない、お人好しな性格だ」という意味。

「良く扱われるかどうかは、あなた次第ですよ。静かならば、再び拘束衣を着せられることはありません。でも、静かでなければなりません… 」 ≪18-27≫

殺人犯は悲しそうに首を振った。 ≪18-28≫

「だから、大人しくするよ」と彼は言った。「何も悪いことをしていないのに刑務所に入れられるのは、本当に辛い。せめて仲間がいれば、喋りながら時間も潰せるんだが… あんな冷えた穴蔵に、物音一つしない場所に一人、たった一人でいるなんて… 本当に恐ろしい。 湿気がひどくて、壁に水が伝っている。まるで本物の涙、石から人の涙が流れているようだ...」 ≪18-29≫
※ camarades

予審判事は机に身を乗り出してメモを取った。「仲間」という言葉が引っ掛かり、後で詳しく説明を求めるつもりだった。 ≪18-30≫

「もしあなたが無実なら」と彼は続けた。「じきに釈放されるでしょう。だが、無実を立証しなければならない」 ≪18-31≫

「そのためにはどうすれば良い?」 ≪18-32≫

「真実を、ありのままの真実だけを語ってください。これから発する私の問いに、何ひとつ包み隠さず、何の魂胆も持たず、誠実に答えることです」 ≪18-33≫

「それは大丈夫だ、任せてくれ」 ≪18-34≫

彼は、自分の誠実さを、神と人を証人に立てて誓うかのように、早くも手を挙げていた。セグミュラ殿は、手を下ろすよう命じ、こう付け加えた。 ≪18-35≫
※ prendre Dieu et les hommes à témoin

「被告は宣誓しません」 ≪18-36≫
※ serment: (以下、未確認のGemini訳註) 大陸法はローマ法以来、証人 → 宣誓して証言、被告 → 尋問される存在、という区分がある。自分が不利となる証言を被告に強要しない、という原則。英国法では、Criminal Evidence Act 1898で、自分の事件で被告が証人の立場となる場合は宣誓する。大陸法では、自分の事件で証人となる場合があっても、被告は宣誓しない。

「へえ…!」男は驚いた様子で言った。「それは変だな!」 ≪18-37≫

被告には、自由に振る舞える、と思わせておいて、判事はじっと観察していた。いろいろな前置きで、相手を落ち着かせ、安心させ、警戒心をできる限り解くのが判事の狙いだった。そして、その目的は達成されたと考えた。 ≪18-38≫

「繰り返しますが」と彼は続けた。「よく集中してください。あなたが釈放されるには、率直になるのが肝心です。あなたの名前は何ですか?」 ≪18-39≫

「メ」 ≪18-40≫

「洗礼名は?」 ≪18-41≫

「持ってない」 ≪18-42≫

「そんなはずはない」 ≪18-43≫

被告は苛立ちを見せたが、すぐに抑え込んだ。 ≪18-44≫

「昨日から、そう言われるのはこれで三度目だ」と彼は返した。「だが、事実だ。もし俺が嘘つきなら、名前をピエール、ジャン、ジャックなどと言うのが一番手っ取り早い… でも、嘘をつくのは俺の性分ではない。本当だ、俺には洗礼名がない。あだ名なら話は別だよ、たくさんある」 ≪18-45≫

「どんなあだ名?...」 ≪18-46≫

「そうだな... 最初、フガス親父のところにいた頃、俺は『アフィロワル』と呼ばれていた。なぜなら、つまり… 」 ≪18-47≫
※ Affiloir: 研ぐ道具、砥石など。

「フガス親父とは何者ですか?」 ≪18-48≫

「猛獣使いの王様だよ、判事殿。ああ… あいつは立派な見世物動物園を持ってると自慢できた男だった。トラにライオン、色とりどりのオウムに、太ももほどもある大蛇。何でも揃ってた。だが生憎なことに、あいつには財産をすっかり食っちまう知り合いがいたんだ」 ≪18-49≫
※ ménagerie: サーカスのように猛獣を連れて歩く興行のことだろう。

揶揄っているのか、真面目に話しているのか?それを判断するのは非常に難しく、セグミュラ殿もルコックも同様に迷っていた。ゴゲは、尋問を記録しながら、ずっと笑っていた。 ≪18-50≫

「もういい!...」判事が遮った。「あなたは何歳ですか?」 ≪18-51≫

「四十四か五歳」 ≪18-52≫

「どこで生まれたんです?… 」 ≪18-53≫

「たぶん、ブルターニュで」 ≪18-54≫

さすがに今回は、セグミュラ殿も、揶揄う意図を見抜いたと考え、断固としてやめさせようとした。 ≪18-55≫

「警告する」と彼は厳しい口調で言った。「そんな態度を続けるなら、あなたの釈放は絶望的になる。あなたの答えはどれも無礼です」 ≪18-56≫

殺人犯の顔には、不安の混じった、とても真面目に落胆している表情が浮かんだ。  ≪18-57≫

「ああ!… 判事殿、怒らせるつもりはなかった」と彼は嘆いた。「あんたが訊くから、俺は答えた… だが、俺のつまらん身の上を語らせてもらえれば、俺が真実を話していることが分かるはずだ」 ≪18-58≫

※ 初出紙の連載第27回目(1868-6-22)の終わり

(つづく)
 
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