
L. Boulanger, Paris 1884、挿絵Henri Lanos(1859-1929) 画像は部分。≪17-42≫の場面。ドアのデザインがガサい。殺人犯の風体と、後ろの衛兵に注目。
XVII
沈黙に利ありと考え、自分に不利な証拠はないと信じ込んでいる男から、自白を引き出す。それは確かに難しい。 ≪17-1≫
だが、同じ条件の女から真実を引き出す、それは(司法宮の言い方では) 悪魔を懺悔させるようなものである。 ≪17-2≫
※ confesser le diable
そのため、セグミュラ殿とルコックが二人きりになると、顔を見合わせ、互いの表情に、不安を感じている様子と、希望がほとんど残っていないのでは、という懸念を読み取った。 ≪17-3≫
結局、何の成果があったというのか。兵士の扱いを知る将軍が、機を捉えて突撃させるように、質問の適切な配置と操作を知る判事が、巧妙に尋問を主導したというのに。 ≪17-4≫
得られたのは、シュパン後家の共謀を示す動かぬ証拠だけであり、他には何もなかった。 ≪17-5≫
「あの性悪女はすべてを知っています!…」とルコックは呟いた。 ≪17-6≫
「そうですね」と判事は答えた。「店にいた連中、女たち、犠牲者たち、殺人者、要するに全員を知っていることは、ほぼ間違いないでしょう。何より、例のギュスターヴを知っていることは確実です… 目にそう書いてあった。例のラシュヌールを彼女が知っていることも明らかです。瀕死の兵士が復讐を誓った正体不明の男、あの謎めいた人物は、間違いなくこの難事件の鍵を握っている。あの男を見つけ出さなければ… 」 ≪17-7≫
「ああ!私が必ず見つけ出します」とルコックは叫んだ。「たとえパリを歩く百十万人をひとり残らず尋問しても!」
※ onze cent mille hommes: 当時のパリの人口は1,053,262人(国勢調査1851年)、市域は34.5平方メートルだった。幼児も全員応対してやる!という決意か。≪17-8≫
それはあまりにも大げさな約束だったので、沈鬱な面持ちだった判事も、思わず笑ってしまった。 ≪17-9≫
「ただもし」とルコックは続けた。「ただもし、あの老魔女が次回の尋問で喋ると決心してくれれば!…」 ≪17-10≫
「そうだね!だが、あの女は喋らないでしょう」 ≪17-11≫
若い刑事はうなずいた。彼もそう思っていた。幻想は抱いていなかった。彼はシュパン後家の眉間に、野生の頑固さを表す皺があることに気づいていた。 ≪17-12≫
※ entre les sourcils... ces plis: (以下、未確認のGemini訳註) 19世紀に広く信じられていたヨハン・カスパー・ラヴァーターの観相学などでは、眉間の特定の皺は以下のように解釈された。眉間に深く刻まれた垂直の皺は「頑迷さ」と「固執」
「女は決して口を割らない」と判事は続けた。「そして、女が真相を語る素振りを見せるのは、捜査を誤まらせる罠を思いついた時だけだ。少なくとも、証拠は、最も強情な男すら打ち負かす。証拠で腕や脚を折られた男は抵抗を捨て、自白に至る。だが、女は証拠など全く意に介さない。光を見せても、目を閉じて『夜だ』と答える。女の頭を、眩しくて目も開けていられない太陽の方に向けても、女は『夜だ』と抵抗し、答えを繰り返す。男は、生まれ育った環境に応じて、さまざまな防御策を考え出し、組み合わせる。女は、その境遇に関わらず、ただひとつの戦術しか持たない。何があろうと否定し、そして泣く。次の尋問で、私がシュパン婆を追い詰めたとしても、きっと涙に逃げるだけでしょう… 」 ≪17-13≫
苛立って、彼は床を激しく踏んだ。手持ちのあらゆる手段を探してみても、岩のような頑迷さを打ち砕く武器は見当たらない。 ≪17-14≫
※ frappa du pied
「あの老婆の動機だけでも、思い当たれば良いのですが」と彼は続けた。「だが、全然思いつかない! 彼女の口を閉ざさせる、強大な利害とは一体何なのでしょう?... 守っているのは自分自身の利益なのでしょうか?... 彼女は共犯なのか? あの女が殺人犯を手伝って、待ち伏せを仕組んだのではないと、果たして言えるのでしょうか?」 ≪17-15≫
※ guet-apens
「ええ」とルコックはゆっくり答えた。「ええ、その仮説は当然、頭に浮かぶものでしょう。しかし、その説を採り入れると、判事殿が立てた前提を否定することになりませんか? もしシュパン婆が共犯なら、殺人犯は私たちが睨んでいる高貴な人物ではなく、単なる見たままの男だ、となってしまいます」 ≪17-16≫
この反論はセグミュラ殿を納得させたようだった。 ≪17-17≫
「何だろう、それでは」と彼は叫んだ。「何なのだろう!…」 ≪17-18≫
若い刑事の意見は固まっていた。しかし、司法官が迷っているのに、彼、しがない治安局捜査官が、はっきり言って良いものだろうか? ≪17-19≫
自分の立場がどれほど慎重さを要するかを理解していたので、彼は最も控えめな口調でこう言った。 ≪17-20≫
「偽の酔っ払いが、シュパン婆に夢のような期待ををちらつかせ、魅了したのではないでしょうか? つまり金を、かなりの高額を、約束したのでは?...」 ≪17-21≫
彼は途中でやめた。書記官が戻ってきたのだ。その背後にはパリ衛兵が来ていて、敷居のところでかかとを揃え、直立すると、右手をシャコ帽の庇に添え、掌を外側に向けて肘を目の高さに… 軍規通りだった。 ≪17-22≫
「閣下」と、軍人は判事に言った。「刑務所長殿から、シュパン後家を隔離房に留めておくべきかどうか、お尋ねするよう指示がありました。女は、この措置に絶望しております」 ≪17-23≫
※ directeur de la prison: 本訳では「刑務所長」とした。他でdirecteur du Dépôt(監獄長) とも言われているが、配下が上級職をこう呼んでいるのだから、こちらが正式名称なのだろう。
セグミュラ殿は、しばらく考えた。 ≪17-24≫
「確かに」と彼は、良心の呵責を幾分かなだめるように、呟いた。「確かに、苦痛を強いる過重な措置だ。しかし、この女を他の受刑者たちと接触させれば、あの老獪な常習犯は、必ず外部へ情報を流す手立てを見つけるだろう… それは許されない。正義と真実の追求が、何よりも優先されなければならない」 ≪17-25≫
※ l'intérêt de la justice et de la vérité: (以下、未確認のGemini訳註) 当時の法曹界の常套句。
この最後の理由で決心がついた。 ≪17-26≫
「重要なのだ」と彼は命じた。「新たな命令があるまで、被告を隔離房に留めておきたまえ」 ≪17-27≫
パリ衛兵は敬礼の手を下げ、右足を左かかとの三プース後ろに置き、後方へ引くと、回れ右をして、通常歩調で去った。 ≪17-28≫
※ pouces: 古い長さの単位。1900年以前は1/12旧ピエ(27.07ミリ)
※ pas ordinaire: 19世紀軍隊の行進の歩速。pas ordinaire(通常歩調)、pas redouble(速歩)、pas de charge(突撃歩調)などがあるようだ。
扉が閉まると、笑顔の書記官はポケットから大きな封筒を取り出した。 ≪17-29≫
「どうぞ」と彼は言った。「獄長殿からの伝達です」 ≪17-30≫
判事は封印を破り、声に出して読んだ。 ≪17-31≫
「被告メの尋問にあたっては、細心の注意を払うよう、予審判事殿に強く進言します。 ≪17-32≫
「自殺未遂以来、この被告は非常な興奮状態が続き、拘束衣を解くことも出来ませんでした。夜も目を閉じることがなく、見張っていた看守たちは、いつ狂気が爆発してもおかしくないと身構えていました。しかし、彼は一言も口を開きません。 ≪17-33≫
「今朝、食事を与えたところ、彼は嫌悪感をもって拒絶しました。彼が餓死するつもりだと、私が考えるのも無理のないところでしょう。 ≪17-34≫
「これほど危険な悪党には、めったにお目にかかれません。最も恐ろしい手段に訴える可能性がある男だと、愚考します...」 ≪17-35≫
「うわあ!… 」書記官は笑顔を消して叫んだ。「僕が判事殿に代わって、兵士たちにあの野郎を連れて来させ、そのまま中に入るよう命じましょう」 ≪17-36≫
「全く!ゴゲ、あなたが」と、セグミュラ殿は穏やかに言った。「あなた、古参の書記官が、そんなことを言うんですか。怖がっているのですか?...」 ≪17-37≫
「怖がる、僕が?…もちろんそうではありません、ですが…」 ≪17-38≫
「なんですか!… 」とルコックは、強靭な肉体に自信満々な口調で遮った。「私がここにいるじゃないですか!」 ≪17-39≫
セグミュラ殿は、自分の机に座っているだけでも、被告と自分の間に防壁があるような気分になった。普段なら迷わずその場所にいたが、書記官の怯えた反応を見て、恐れているように見えるのを恥じた。 ≪17-40≫
そこで彼は、先ほどシュパン婆を尋問した時のように、暖炉のそばに立ち、ベルを鳴らして、その男を一人だけ入れるよう指示した。「一人だけ」という言葉を強調した。 ≪17-41≫
その直後、ドアが激しい勢いで開かれた。殺人犯が執務室に、入るというより、飛び込んできた。 ≪17-42≫
屠殺人の大槌をかわし、畜殺場から逃げ出した雄牛は、無秩序で野蛮な動きで狂ったように暴れ回る。 ≪17-43≫
ゴゲは机の後ろで青ざめ、ルコックは飛びかかる準備をして一歩踏み出した。 ≪17-44≫
しかし、部屋の真ん中まで来ると、男は動きを止め、鋭い視線を周囲に走らせた。 ≪17-45≫
「判事はどこだ?… 」彼は嗄れ声で尋ねた。 ≪17-46≫
「判事は私です」とセグミュラ殿が答えた。 ≪17-47≫
「いや… 別のだ」 ≪17-48≫
「別の、とは?」 ≪17-49≫
「昨夜、俺に質問しに来た奴だ」 ≪17-50≫
「彼は事故に遭いました。あなたと別れた後、足を骨折したのです」 ≪17-51≫
「なにっ!…」 ≪17-52≫
「それで私が代わったのです… 」 ≪17-53≫
しかし被告は話を聞く状態では無いようだった。狂乱の昂奮は突然、死のような虚脱に変わった。怒りでこわばっていた顔つきが緩んだ。彼は蒼白になり、倒れそうだった… ≪17-54≫
「気をしっかり」と判事は優しい口調で言った。「立っているのが辛いなら、椅子に掛けて…」 ≪17-55≫
すでに、驚異的な活力で、男は立ち直っていた。目に激しい炎も煌めいたが、すぐに消えた... ≪17-56≫
「ご親切にありがとう、閣下」と彼は答えた。「でも、もうなんでもない... ちょっと目がくらんだだけで、もう大丈夫」 ≪17-57≫
「長い間、何も食べていないと聞きましたが?...」 ≪17-58≫
「あの人(彼はルコックを示した)が、向こうの豚箱で、パンとハムを持ってきてくれた後は、何も食べていない」 ≪17-59≫
「今は何か食べたいですか?」 ≪17-60≫
「いや!… でも… せっかくの親切だから… 水を一杯飲みたい」 ≪17-61≫
「どうです、酒も?」 ≪17-62≫
「普通の水でいい」 ≪17-63≫
頼んだものが運ばれてきた。 ≪17-64≫
彼はすぐに一杯目を注ぎ、一気に飲み干した。そして二杯目はゆっくりと飲み干した。 ≪17-65≫
まるで生命そのものを飲んでいるようだ。男は生まれ変わったように見えた。 ≪17-66≫
※ 初出紙の連載第26回目(1868-6-21)の終わり
(つづく)
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