
いずれも19世紀末のパナマ疑獄の報道イラスト。(左) 予審判事のcabinet 1897年。机の向こうの予審判事、手前の書記官、立って尋問されている被疑者、奥の衛兵。(左) 重罪裁判所の法務官連中。裁判時には法服、帽子(Toque)、首元の白い掛け襟(Rabat)をつけている。多分、ガボリオの描いた時代(1850代〜1860代)も似たような感じだっただろう。
シュパン後家は、予審判事の前で尋問を受けるのは初めてではなかった。司法に対しては、深々と頭を下げる姿勢が大切だと良くわきまえていた。 ≪16-64≫
そのため、尋問のための身なりをちゃんと整えていた。 ≪16-65≫
暴れる白髪を平らな帯状に撫でつけ、手持ちの服を精一杯整えていた。さらに、監獄長の許しを得て、逮捕時に所持していた金で、黒いクレープの帽子と白いハンカチ二枚を購入してもらっていた。感動的な場面が来たら、そのハンカチを使い「涙を搾り出す」つもりだった。 ≪16-66≫
※ un bonnet de crêpe noir: (Google AIの解説) 19世紀、黒いクレープのボンネットは、女性の喪服の中心的要素で、深い悲しみと最近の喪失を象徴した。クレープは、つや消しでエンボス加工された絹。
こうした身なりの工夫に加え、自分の数ある顔つきの中から、無実、不幸、諦念を漂わせる表情を選び出した。自分の運命を握る司法官の好意と寛容を勝ち取るのにうってつけだろう、と彼女は考えていた。 ≪16-67≫
こうして装い、目を伏せ、猫なで声の上に、優しげな仕草をしていたので、恐るべき『胡椒入れ』の女主人とは、ほとんど似たところが無くなった。店の馴染み客ですら、見分けるのに、かなりの時間を要しただろう。 ≪16-68≫
それどころか、外見だけなら、真面目な独身老人が、家事一切を任せようと月二十フランで雇い入れたくなるほどだった。 ≪16-69≫
※ vingt francs: ≪1-15≫の換算で約一万九千円。家政婦として安すぎないか? Grokに投げたところ、食事提供込み(nourris)のフルタイムの家政婦として、地方や質素な独身男性の家で現実的な額、とのこと。地方(départements / プロヴァンスや地方都市)1853~1871年の統計からだと言う。パリだと普通40フラン程度らしい。面白い情報だが未確認。
しかし、セグミュラ殿は、これまでに多くの偽善を見抜いてきた人物であり、彼の頭にある考えが浮かんだが、ルコックの目が輝いたのを見ると、同じだったのだろう。 ≪16-70≫
「大した狸婆だ!…」≪16-71≫
※ vieille comédienne
実のところ、彼の洞察力を大いに助けていたのは、先ほどから目を通していた数枚のメモだった。そのメモは、警視庁から参考資料として検察庁に送られてきた、シュパン後家の身上調査書であった。 ≪16-72≫
一通り目を通し終えると、予審判事は、笑顔の書記官ゴゲに、筆記の準備をするよう合図した。 ≪16-73≫
「お名前は?…」と、彼は、被告に突然尋ねた。 ≪16-74≫
「アスパジ・クラパーです、旦那様」と、老婦人は答えた。「シュパン後家でございます、よろしくどうぞ」 ≪16-75≫
※ mon bon monsieur: やや媚びるニュアンスがあるらしい。
彼女はしとやかな作法通りの会釈をして、こう付け加えた。 ≪16-76≫
「もちろん、正式な未亡人です。結婚証明書は箪笥の中にあります。もし使いをやってくだされば...」 ≪16-77≫
※ veuve légitime: 事実婚じゃないよ、と言いたいのかな? 未調査。
「年齢は?…」と判事が遮った。 ≪16-78≫
「五十四歳です」 ≪16-79≫
「職業は?…」 ≪16-80≫
「パリで飲み屋を営んでおります。シャトー・デ・ランティエ通りのすぐ近く、防壁から二歩の場所です」 ≪16-81≫
これら身元に関する質問は、いかなる尋問でも、冒頭で必然のものである。 ≪16-82≫
本格的な対決を前に、被告と判事の双方が互いを推し量り、手探りし合う時間なのだ。真剣勝負に挑む二人の剣客が、フルーレで数回打ち合いを試みるようなものである。 ≪16-83≫
※ fleurets mouchetés
「さて」と判事は続けた。「あなたの経歴についてお伺いしましょう。これまでに何度か有罪判決を受けていますね?」≪16-84≫
この老いた再犯者は刑事手続きに精通しており、フランス司法の驚異の一つであり、身元詐称を困難にする、有名な犯歴記録の仕組みを知らぬはずがなかった。 ≪16-85≫
※ casier judiciaire: この記録制度もフランスが初めて整備したのかも。未調査。
「私はずっと不運だったのです、お優しい判事様」と彼女は泣きごとを言った。 ≪16-86≫
※ mon bon juge
「ええ、かなり多くの不幸に見舞われたようですね。まず、あなたは盗品の隠匿で起訴されました」 ≪16-87≫
「ですが、あの時は雪のように潔白だと認められたのです。亡き夫は仲間たちに利用されていたのです」 ≪16-88≫
「そうですか。しかし、ご主人が刑に服している間、あなたは窃盗で最初に一か月、次に三か月の懲役刑を宣告されていますね」 ≪16-89≫
「私を恨む敵がいて、近所の連中が陰口を言ったのです...」 ≪16-90≫
※ cancans
「直近では、あなたは未成年の娘たちを誘い、自堕落な道に引き込んだ廉で有罪となっていますが...」 ≪16-91≫
「親愛なる旦那様、あの性悪たち、恩知らずの小娘ども... あの子たちのために親切にしたのに、その後、私を陥れようと嘘八百を並べ立てたのです... 私はいつだってお人好しが過ぎました」 ≪16-92≫
※ mon bon cher monsieur
正直後家の不幸な実績はまだまだあったが、セグミュラ殿はこれ以上続けても無駄だと思った。 ≪16-93≫
「過去はこれくらいで」と彼は続けた。「現在、あなたの酒場は犯罪者の巣窟です。息子はすでに四度目の有罪判決を受け、あなたが彼の忌まわしい性質を助長し、手伝っていたの明らかです。あなたの嫁は奇跡的に真っ当で勤勉なままでしたが、あまりにあなたが虐待を繰り返すので、地区の警察署長が介入せざるを得ませんでした。彼女が家を出たとき、あなたは孫を引き取ろうとした…おそらく父親と同類に育てあげるつもりだったのでしょう」 ≪16-94≫
老女は、ここが泣き落としの時だと思った。ポケットから、まだ糊の効いた新品のハンカチを取り出し、目を強くこすって涙を絞り出そうとした… だが、乾いた羊皮紙から水気を引き出す方が容易だったろう。≪16-95≫
「なんてことを!…」と彼女は嘆いた。「私が、孫、可愛い小さなトトを悪の道に誘おうとしているなどと疑うなんて! 私は野獣にも劣る人間なんですか、自分の身内を破滅させようとしてるんですか!…」 ≪16-96≫
だが、こうした嘆きも判事にほとんど響いていないようだった。彼女は気づくと、すぐに作戦と調子を変えて、弁明を始めた。 ≪16-97≫
事実は全く否定しなかったが、すべてを運命のせいにした。運命は不公平で、ある者を優遇するが、それは必ずしも素晴らしい人たちではない。だから贔屓されなかった人たちが苦しむのだ。 ≪16-98≫
悲しいかな! 彼女は運のない者たちの一人であり、常に無実でありながら迫害されてきた。例えば、今回の事件では、彼女に何の落ち度があったというのか? 彼女の酒場で三人が殺されたが、どんなに真っ当な店でも、このような惨劇から逃れられる術があろうか。 ≪16-99≫
「隔離房」の静寂の中で、彼女には考える時間があった。自分の良心の奥底まで探ってみたが、それでもなお、どんな理由で当然のように非難されているのか疑問に思っていた… ≪16-100≫
「では私が申し上げましょう」と判事が遮った。「あなたは、法律の執行を可能な限り妨害したとして非難されているのです」 ≪16-101≫
「おや、神様!……まさかそんな……!」 ≪16-102≫
「そして司法を迷わせた。シュパン後家、これは立派な共犯行為です、覚悟してください。警察が踏み込んだ時、つまり犯罪が発生した現場で、あなたは答えることを拒否しました」 ≪16-103≫
「私は知っていることをすべて話しました」 ≪16-104≫
「そうですか!… もう一度話してください」 ≪16-105≫
セグミュラ殿は満足していたに違いない。尋問を巧みに進め、シュパン後家が自ら進んで事の顛末を語り始めるように仕向けたのだ。 ≪16-106≫
これは極めて重要な点だった。直接的な質問は、冷静沈着で鋭いこの老婆に、気づきを与える恐れがあった。捜査当局が何を掴み、何を掴んでいないのかを彼女に悟らせてはならなかった。 ≪16-107≫
自由に喋らせておけば、彼女が真実の代わりに示そうとしている話を、そのままの形で全て聞き出すことができるだろう。 ≪16-108≫
この話は、判事もルコックも疑っていなかったが、イタリア広場の派出所で、殺人犯と偽の酔っ払いが協力して作り上げたものであり、その後、あの不敵な共犯者によってシュパン婆に伝えられたものだろう。 ≪16-109≫
「ああ!… それはとても単純な話なんです、旦那様」と、正直女将は話し始めた。「日曜日の夜、私は店の平土間の暖炉のそばで一人で座っていました。すると突然、ドアが開き、男三人と女二人が入ってくるのが見えました」 ≪16-110≫
セグミュラ殿と 若い刑事は、素早く目配せした。共犯者は足跡が採られるのを見ていたので、女二人の存在について争おうとはしないのだ。 ≪16-111≫
「何時頃のことですか?」と判事が尋ねた。 ≪16-112≫
「十一時を少し回っていました」 ≪16-113≫
「続けてください」 ≪16-114≫
「座るとすぐに」と後家は続けた。「その連中はフランス風ワインの野菜鉢を注文しました。自慢じゃありませんが、その飲み物を作らせたら私の右に出る者はおりません。さっそくそれを出して、その後すぐ、ちょうど息子の作業着の繕いがあったので、二階の自室へ上がりました」 ≪16-115≫
※ premier: 二階。階の数え方は英国と同様、二階は「第一床」である。
「客たちだけを残してですか?」 ≪16-116≫
「はい、判事様」 ≪16-117≫
「それは、ずいぶんと人を疑がわないんですね」 ≪16-118≫
シュパン後家は、悲しげに首を強く左右に振った。 ≪16-119≫
※ secouerとhocherの違い: (1) hocher la tête→ 主に縦方向(上下に)軽く頭を動かす動作。軽い「左右」はこちらかも。(2) secouer la tête→ 横方向(左右に)強く振る、または全体を激しく揺らす動作。激しい「上下」もこっちか。
「何も持たぬ者は、泥棒を恐れないのです」 ≪16-120≫
「続けて、続けて...」 ≪16-121≫
「それで、上で三十分ほど経ったころ、下から『おい、婆さん!』と声がしました。降りると、ちょうど入って来た、ひげの濃い大柄な男と鉢合わせ。そいつは強めの酒をちょっと一杯、とご所望です… それでテーブルに一人でいる男に酒を出しました」 ≪16-122≫
※ fil-en-quatre: (以下、未確認のGemini訳註) 安酒。非常に度数の強い、質の悪いブランデーや蒸留酒のこと。
「そして、また上に戻ったのですか?」と判事が遮った。 ≪16-123≫
皮肉は、シュパン婆に通じただろうか? 表情からは読み取れなかった。 ≪16-124≫
「その通りです、旦那様」と彼女は答えた。「ところが今度、指貫と針を手にしようとした時に、店内のひどい騒ぎを聞いたんです。急いで階段を駆け下り、止めに入りました… ああ、なんと!…最初に来た三人が、後から来た男に襲いかかり、寄ってたかって殴り殺そうとしている… 旦那様… 私は叫びました… でも、通りすがりが歌ってるみたいに全く無視です。すると三人を一人で相手にしていたあの方が、ポケットからピストルを取り出してぶっ放し、相手の一人を撃ち殺したのです。男が床に転がり…… 私はあまりの恐ろしさに、階段に座り込み、血が流れるのを見るのが怖くて、エプロンを頭にかぶりました… その直後、ジェヴロル殿が捜査官たちと踏み込んできて、ドアをぶち破り… そんな感じです」 ≪16-125≫
※ c'est comme si je chantais: (以下、未確認のGemini訳註) 慣用表現で「いくら叫んでも、梨のつぶて(誰にも聞き入れられない)」という意味。Grokによると、フランス語の古い口語イディオムで、「言うだけ無駄」「風に語ってるようなもの」「壁に向かって叫んでる」 に相当。19世紀の小説ではかなり自然な表現、とのこと。
※ 初出紙の連載第24回目(1868-6-19)の終わり
(つづく)
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