
Paris - Vue du Palais de Justice 1860, dessiné d'après nature par Isidore Laurent Deroy, lithographié par Becquet, édité par Morier Frères.
XVI
金持ちになれば、馬車も馬も御者も手に入る… クッションに横たわって通り過ぎれば、羨望の眼差しを何度も浴びる。 ≪16-1≫
ところがどうだ。飲み過ぎの御者が馬車をひっくり返す。馬が暴れて何もかも壊す。あるいは幸せな主人が一瞬の油断で足置きを踏み外し、歩道の角で足を砕いたりする。 ≪16-2≫
このような事故は毎日起きていて、その何行にもなる記録は、つつましい歩行者たちにとって、自分たちはそんな災難とは無縁だなあ、というささやかな幸運を感謝する理由になっているはずだ。 ≪16-3≫
しかしながら、デスコルヴァル殿の不幸を知ったルコックが、あまりにうろたえていたので、執達吏は思わず笑ってしまった。 ≪16-4≫
「そんなに驚くことなのかい?」と彼は尋ねた。 ≪16-5≫
「僕が?… 別に何も」 ≪16-6≫
若い刑事は嘘をついた。彼は、二つの出来事の奇妙な符合に衝撃を受けていた。殺人犯の自殺の試み、そして予審判事の転落。 ≪16-7≫
だが、心によぎった漠然とした予感が、形を成す暇を与えなかった。この二つの事実に、どんな関わりがあるのか?… ≪16-8≫
それに、彼は不利益を全く感じなかった。むしろその逆だった。後年、自ら説くことになる次の格言を、自らの信条にまだ加えていなかったのだ。 ≪16-9≫
「自分の密かな願望に都合の良い状況は全て、特に警戒せよ」 ≪16-10≫
※ «Se défier extraordinairement de toutes les circonstances qui paraissent favoriser nos secrets désirs.»
ルコックがデスコルヴァル殿の事故を喜んでいなかったのは間違いない。怪我が長引かないように、彼は喜んで代償を差し出しただろう… ただ、この不幸な偶然によって、あの高慢ちきな態度で自分を押し潰しかねなかった男との、非常に苦痛だった関係から解放されたのだ、と思わずにはいられなかった。 ≪16-11≫
こうした様々な理由が重なって、彼は軽率な行動を取り、その報いを受けることになる。 ≪16-12≫
「そういうことなら」と彼は執達吏に言った。「僕の今朝の用事は無くなった」 ≪16-13≫
「冗談言ってるのか?… 修道士が一人欠けただけで、修道院が潰れるもんか!一時間以上前に、デスコルヴァル殿が担当していた緊急案件は、全部、他の予審判事たちに配分されたよ」 ≪16-14≫
※ Depuis quand le couvent chôme-t-il faute d'un moine!: 「一人欠けたところで組織は回る」という表現。ググっても出てこないので、諺ではなさそう。ガボリオのオリジナルか。
「僕は、一昨日のあの大事件で来たのです...」 ≪16-15≫
「えっ!... なぜ早く言わないんだ!あなたを待っていた。先程、小僧を警視庁にやって、あなたを呼びに行かせたんだよ。セグミュラ殿が担当です...」 ≪16-16≫
若い刑事は額にしわを寄せた。その名前の判事を思い出そうとし、関わったことがないか考えた。 ≪16-17≫
「そう」と、おしゃべりな執達吏が続けて言った。「セグミュラ殿… ご存じない?… とても良い人で、ほとんどのお方がする不機嫌な顔を全然していない。ある被告が尋問を終えて出てくるときに、こう言った。『 あの悪魔、俺から情報をすっかり引き出しやがって。きっと俺は首を切られる。でも、まあいいさ、あいつは憎めない!』 ≪16-18≫
※ tiré les vers du nez: 「鼻から虫を引き出す」は、慣用句で「巧みに白状させる」という意味。
※ bon enfant:「人が良い奴、気さくな男」というニュアンス。
吉兆に満ちた話に励まされ、 若い刑事は指示された、二十二番と書いてあるドアをノックした。 ≪16-19≫
「お入り!」 と、張りのある声が響いた。≪16-20≫
中に入ると、四十歳くらいの、背が高く恰幅の良い男がいて、最初にこう言った。 ≪16-21≫
「ルコック捜査官ですね? … 良かった! … おかけください。今、事件を検討中なので、五分ほどお待ちいただこう」 ≪16-22≫
ルコックは従い、そして興味が目覚め、鋭い洞察力で、自分の相棒となる判事をこっそりと観察し始めた… 猟犬が、相棒の猟師をじっと観察するのと少し似た感じだ。 ≪16-23≫
その外見は、執達吏の言った通りだった。その大きな顔には、青く優しい目が明るく輝き、率直さと慈愛にあふれていた。 ≪16-24≫
しかし、 若い刑事は、この穏やかな外見を完全に信頼するのは軽率だと思った。 ≪16-25≫
それは間違っていなかった。 ≪16-26≫
ストラスブール近郊出身のセグミュラ殿は、その繊細な職務の遂行において、アルザス地方の金髪の子供たちが皆備えている無垢な顔立ちを役立てていた。だがそれは、ガスコーニュ風の機転と、コー地方特有の恐るべき慎重さを隠し持つ、人を欺く仮面であった。 ≪16-27≫
※ Alsace、Gascogne、Cauchoisの特質: (以下、未確認のGemini訳註)
(1) ドイツ国境に近いアルザス地方の人は、フランス中心部からは「実直で、素朴で、少しのんびりした(そして体格が良い)」というイメージ。
(2) 南西部のガスコーニュ(ダルタニャンの故郷)の人々は、「口が達者で、機転が利き、策を弄するのが得意」というイメージ。
(3) ノルマンディー地方の一部(ル・アーヴル周辺)である「コー地方」の人々は、非常に疑り深く、石橋を叩いて渡るような「恐るべき慎重さ」を持つとされていた。
セグミュラ殿の精神は、非常に鋭く、非常に機敏だったが、彼の流儀---各判事にそれぞれ独自のものがある---は、温厚さだった。同僚たちの多くが、正義の女神像の手に握られた剣のように、冷酷で峻厳な態度を貫くなか、彼は、司法官としての厳格さを損なうことなく、素朴で柔らかい態度を装っていた。 ≪16-28≫
しかし、その声があまりに慈父の響きのようで、質問の鋭さや回答の重要性を、無邪気さで包み隠すものだから、尋問を受ける者は警戒を解き、本音を漏らしてしまう。そして、判事の人の良さに内心ほっとしている頃には、被告はすでに中身をすべてさらけ出しているのだ。 ≪16-29≫
※ retourné comme un gant(手袋のようにひっくり返される): 慣用句で「徹底的に調べ上げられる」「裏の裏まで暴かれる」という意味。
こうした男のそばに、痩せて厳格な書記官がいたのでは、余計な警戒心を抱かせることになる。そこで彼は、自分の戯画のような人物を選んでいた。名前はゴゲ。背は低く、太り、ひげがなく、常に笑みを浮かべていた。その大きな顔は、温厚さというよりおめでたさを表しており、いい塩梅に間抜けだった。 ≪16-30≫
本人が言った通り、セグミュラ殿は、不意に舞い込んできたこの事件を検討していた。 ≪16-31≫
机の上には、羊毛の小さな繊維からダイヤモンドのイヤリングに至るまで、ルコックが集めた証拠品がすべて並べられていた。 ≪16-32≫
彼はルコックが書いた報告書を読んで、また読み返し、その記述を追いながら、目の前の証拠品を確認したり、現場の図面と照合したりしていた。 ≪16-33≫
結局五分どころか、三十分が過ぎた頃、彼は椅子を後ろに押した。 ≪16-34≫
「捜査官殿」と彼は切り出した。「デスコルヴァル殿が調書の余白にメモを残してくれました。あなたは聡明で、信頼出来る男だ、と」 ≪16-35≫
「少なくとも熱意はあります」 ≪16-36≫
「おや!ご謙遜ですね。これほど完璧な報告書を受け取ったのは初めてです。あなたは若い。この調子で頑張れば、きっと大きな功績を残せるでしょう」 ≪16-37≫
若い刑事は、喜びで顔を蒼白にして、言葉を詰まらせ頭を下げた。 ≪16-38≫
「たった今から、あなたの確信は」とセグミュレ殿は続けた。「私の確信でもある、と言って良い。帝国検事殿に聞くと、それはデスコルヴァル殿も同じだったようです。私たちはひとつの謎に直面しており、それを解き明かさなければなりません」 ≪16-39≫
「ああ!… 閣下、我々なら出来ますよね?」とルコックは叫んだ。 ≪16-40≫
彼は自分なら何でも成し遂げられると感じた。自分を高く評価してくれるこの判事のために、火の中にも飛び込む覚悟だった。彼の目に輝いた熱意で、セグミュラ殿は思わず微笑みをもらした。 ≪16-41≫
「先は明るいと思いますよ、私も」と彼は言った。「しかし、まだ終わりではありません… さて、昨日から、何か行動を起こしましたか?デスコルヴァル殿は何か指示を出しましたか?… 何か新しい手がかりは得られましたか?…」 ≪16-42≫
「閣下、私は時間を無駄にしなかったつもりです」 ≪16-43≫
そしてすぐ続けて、稀に見る正確さと、職務を完全に掌握している者だけが持つ淀みのない表現力で、ルコックは『胡椒入れ』を後にしてから把握した全てを語り始めた。 ≪16-44≫
共犯者と思われる男の大胆な行動、殺人犯についての自身の観察、空振りに終わった目論見、そして数々の試行錯誤について、彼は話した。御者と管理人の供述を語り、アプサント親父の手紙を読み上げた。 ≪16-45≫
最後に、ちょっと奇妙な方法で入手した数つまみの土埃を机に置き、その隣に、イタリア広場の豚箱で集めてきた、ほぼ同量の粉末を並べた。 ≪16-46≫
そして、彼がそうした行動をとった理由と、その措置から得られる利点について説明すると、 ≪16-47≫
「ああ!その通りだ!」とセグミュラ殿は叫んだ。「これが、被告のあらゆる否認を突き崩すかもしれません... あなたの驚くべき洞察力の賜物だ、実に素晴らしい」 ≪16-48≫
その賞賛は言われて当然のものだった。書記官のゴゲも同意した。 ≪16-49≫
「全くもって!…」彼は呟いた。「僕には、そんなこと思いつかなかった!…」 ≪16-50≫
※ Saperlote!: 古風な、驚きの感嘆詞。sacrelotte(sacré Dieu, sacré nom de Dieu)の変形らしい。
セグミュラ殿は、喋りながら、すべての証拠品を大きな引き出しの中へと片付けていった。ここぞという時に突きつけて、真価を発揮させるのだ。 ≪16-51≫
「さてこれで」と彼は言った。「シュパン後家を問い詰めるのに十分な材料が揃いました。何か引き出せるかもしれません」 ≪16-52≫
彼が呼び鈴の紐に手を伸ばすと、ルコックは、懇願するような身振りをした。 ≪16-53≫
「閣下」と彼は言った。「一つお願いがあります」 ≪16-54≫
「何でしょう?…言ってください」 ≪16-55≫
「尋問に立ち会うことをお許しいただければ、大変ありがたいのですが… 時には些細なきっかけで、幸運な閃きが生まれるのです」 ≪16-56≫
法律には「重罪被告人の尋問は、判事とその書記官によって非公開に行われる」とあるが、公権力執行職員の立ち会いは許容されている。 ≪16-57≫
※ agents de la force publique: 公権力を執行する職員
※ l'accusé sera interrogé secrètement par le juge assisté de son greffier: 当時の法律を確認すると、1808年制定のCode d'instruction criminelle(治罪法)のDe l'audition des Témoins(証人への尋問)の節に、Art. 73. Ils seront entendus séparément, et hors de la présence du prévenu, par le juge d'instruction, assisté de son greffier. (第73条 彼ら[証人]は、別々に、かつ被疑者の面前を避けて、予審判事により、その書記官の立会いの下、聴取される」)という条文あり。原文通りの文言は見つからず。ガボリオは、これを噛み砕いたのだろう。
「よろしい」とセグミュラ殿は応じた。「残っていいです」 ≪16-58≫
彼が呼び鈴を押すと、執達吏が現れた。 ≪16-59≫
「私の指示通り、シュパン後家を連行してきたか?」と彼は尋ねた。 ≪16-60≫
「はい、閣下。回廊におります」 ≪16-61≫
「なかに入れなさい」 ≪16-62≫
その直後、居酒屋の女将が姿を現した。右へ左へと深く頭を下げ、何度も作法通りの会釈をやり、挨拶の言葉を言いながら入ってきた。 ≪16-63≫
※ révérences: 作法通りの貴婦人の会釈。片足を後ろに引き、ひざを折って身をかがめる。
※ 初出紙の連載第23回目(1868-6-18)の終わり
(つづく)
コメント欄を設けました。別ページに飛びます。
https://danjuurockandroll.hateblo.jp/entry/2026/02/05/013007
コメントは承認制です。