十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載21(第1部第15章)

パリのモルグ、1850年、鋼版画。発行: C. Meyer Hilburghausen 1833-1864。(以下、未確認のGemini訳註) 張り紙は、遺体の記述(Signalements): 遺体の腐敗が激しく展示できない場合や、収容されたばかりの際、その人物の性別、推定年齢、身長、髪の色、身体的特徴(傷跡や入れ墨)および発見時の所持品や衣服の詳細が紙に記され、壁に貼り出された。または行方不明者の捜索: 家族や友人がいなくなった市民が、「このような特徴の人物を捜している」という情報を貼ることも。さらに公式通知: 当局からの遺体引き取りに関する通達や、公衆衛生上の注意書きもあった。

モルグ内部の情景、1855年。遺体がショーウィンドウみたいなやり方で展示されている(真ん中の窓の下側に裸の死体が横たわっているのが見える。上には剥ぎ取った衣服が掛けられている)。

 

XV

謎の犯罪や大惨事の翌日は、犠牲者の身元が判明していないため、死体公示所にとって大忙しの日となる。 ≪15-1≫
※ モルグの場所(1804~1864) (以下、未確認のGemini訳註) Quai du Marché-Neuf、緯度経度48°5114.0"N, 2°20'44.9"E (Googleマップ用48.8539, 2.3458)

朝から職員たちは、身の毛もよだつ冗談を飛ばしながら、慌ただしく動き回っていた。周囲の恐ろしい悲しみに抗うため、ほとんど全員が非常に陽気な様子だ。 ≪15-2≫

「今日はたくさん来るな」と彼らは言った。 ≪15-3≫

実際、ルコックと御者が河岸に着いたとき、陰鬱な建物の周りには、遠目からでも、群衆のうごめくかたまりがいくつも見えた。≪15-4≫

新聞は、シュパン後家の酒場での事件を報じており、そして、もちろん! 人々は一目見たいと願っていたのだ。 ≪15-5≫

橋の上で、ルコックは馬車を止めさせ、歩道に飛び降りた。 ≪15-6≫

「死体公示所の真ん前で馬車から降りたくないんだ」と彼は言った。 ≪15-7≫

そして、まず時計、それから財布を取り出して言った。 ≪15-8≫

「大将、乗っていたのは一時間四十分。という事は、あなたに幾ら...」 ≪15-9≫

「ああ…全く何もいりません!」と御者は有無を言わせぬ調子だった。 ≪15-10≫

「しかし…」 ≪15-11≫

「いや!… 一銭もいらない。あの性悪女たちの金を使ったことが嫌でたまらない… 飲んだ酒で、腹痛でも起こせばよかった。だから、遠慮しないでいい… 馬車が必要なら、あの悪党どもを捕まえるまで、タダで儂のを使ってください」 ≪15-12≫

当時のルコックは裕福ではなかったので、それ以上争わなかった。 ≪15-13≫

「やはり、しっかり記録するんだろ? 儂の名前と」御者は続けた。「住所を」 ≪15-14≫

「もちろん!... 予審判事があなたの供述を聞く必要があるからね。召喚状が届くだろう...」 ≪15-15≫

「わかった!ええと... パピヨン(ウジェーヌ)、御者、トリゴー殿の店... そこに寝泊まりしてる。というのも、そうだな、儂は共同経営者みたいなもんだから」 ≪15-16≫

 若い刑事が立ち去ろうとしたので、パピヨンは呼び止めた。 ≪15-17≫

「死体公示所を出たら」と彼は言った。「どこかに行く... 約束がある、しかも遅れていると言ってたね」 ≪15-18≫

「確かに、司法宮で待っている人がいるけど、二歩の距離だから...」 ≪15-19≫

「なあに... 河岸の角で待ってますよ。ああ!… 断らないで。決めたんだ。儂はブルターニュ人だよ。だからお願いだ。せめて性悪女たちの三十フラン分を使い切るまで、あんたが乗ってください」 ≪15-20≫
※ ガボリオ伝を読み返したら、御者はブルターニュ人、と書いてあった。(以下、未確認のGemini訳註) ブルターニュ出身者は「頑固で一度言い出したら聞かない」というステレオタイプ。

この申し出を拒むのは酷だろう。そこでルコックは承諾の合図をすると、急いで死体公示所へ向かった。 ≪15-21≫

周囲にこれほど多くの人々が集まっているのは、この不吉な施設が満員だったからで、人々は文字通り列を作っていた。 ≪15-22≫

中へ入るため、ルコックは力まかせに肘を使って、群衆をかき分けた。 ≪15-23≫

内部は、目を覆いたくなるほど醜悪だった。全く、これほど浅ましい野次馬どもが、吐き気を催す興奮をどれほど求めてここへやって来るのか、疑いたくなる。 ≪15-24≫

女たちが大勢いた。若い女たちも見えた。 ≪15-25≫

仕事場へ向かう途中にこの界隈を通りかかる若い女工たちは、わざわざ寄り道をして、犯罪や馬車の事故、あるいはセーヌ川やサン・マルタン運河から毎日収穫される、身元不明の死体の山を眺めに来るのだ。繊細な者は入口で足を止め、肝の据わった者は中まで入り、出てくるなり仲間に感想を語る。遺体展示の平石台が全部空いていて、誰もいない時には、彼女たちは満足しない… 全く、信じがたいことだ。 ≪15-26≫
※ le canal Saint-Martin
※ dalles: 遺体展示用の石のベッド。https://www.unjourdeplusaparis.com/en/paris-insolite/morgue-visite-favorite-paris-au-19e-siecle に当時物のイラストが数点あり、わかりやすいのがあるが、新モルグのも混じっているようだ。(以下、未確認のGemini訳註) なお、新モルグ(1864~1907)の場所はSquare de l'Île-de-France, Paris、緯度経度48°51'07.6"N, 2°21'06.8"E (Googleマップ用48.8521, 2.3519)

しかし、その朝は満員御礼だった。二つを除く全ての平石台が埋まっていた。 ≪15-27≫
※ chambrée complète: (以下、未確認のGemini訳註) 演劇用語で「満員御礼」

空気はひどかった。不健康な冷気が肩に降りかかり、群衆の上で悪臭を放つ霧のように漂っていた。瘴気を打ち消すための塩素が鼻を刺激する。 ≪15-28≫
※ miasmes: コレラ(1830年代〜1840年代のパリでは大流行)などの伝染病の原因と考えられた大気中の有毒気体。1861年にパストゥールが瘴気説を否定する実験を行った。

ささやき声や、時折混じる感嘆やため息。その背景では、絶え間ない伴奏のように、各平石台の枕元にある蛇口から水が漏れる音、そして流れ落ちる水がしぶきを上げる鈍い音が響いていた。 ≪15-29≫

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※ robinets: (以下、未確認のGemini訳註) このイラスト(新しいモルグのものか? 全体図は上記サイト)で、遺体の頭上に見える蛇口から、常に冷水が滴り落ちるようになっていた。これは遺体の腐敗を遅らせる冷却効果とともに、遺体を常に濡らしておくことで、乾燥による変色や変形を防ぐ目的もあった。

小さな半円形の窓から差し込む青白い光が、露わな遺体に差し込み、死後硬直した筋肉をなまめかしく浮き彫りにして、緑がかった肉に浮かぶ死斑を際立たせていた。この劇場の上に吊るし掛けられたボロボロの衣服も不気味に照らされていた。それは身元確認に役立つはずの無惨な遺品であり、一定期間が過ぎれば売られる... こうして何も無駄にならないのだ。 ≪15-30≫

しかし、 若い刑事は自分の思索に忙しすぎて、この見世物のおぞましさに気づかなかった。 ≪15-31≫

一昨日の三人の犠牲者の姿も、ざっと一瞥しただけだ。彼はアプサント親父を探していたが、どこにも見当たらない。 ≪15-32≫

ジェヴロルが、意図的か否かはともかく、約束を反故にしたのか、それともジェルザレム通りの老いぼれは、今朝、一杯やって、一緒に任務まで飲み込んでしまったのか? ≪15-33≫
※ bu la consigne: 慣用句で「酒を飲んで任務をおろそかにする」

途方に暮れたルコックは警備主任に声をかけた。 ≪15-34≫

「どうやら」彼は尋ねた。「一昨夜の事件の哀れな連中は、まだ一人も身元が割れていないようですね」 ≪15-35≫

「一人もね!…ですが、開場以来、黒山の人だかりです。私なら、今日のような日には、入り口で一人二スー、子供は半額を取って、かなりの収入を得られるようにします… それで経費も賄えるでしょう…」 ≪15-36≫
※ sou: 2スーは≪1-15≫の換算で94円。

そう言って、彼は会話のきっかけを作ろうとしたようだ。しかし、ルコックは取り合わなかった。 ≪15-37≫

「すみません」ルコックは相手の言葉を遮った。「今朝、治安局から所属の捜査官が一人来ませんでしたか?」 ≪15-38≫

「確かに来ました」 ≪15-39≫

「では、その人はどこへ行きました?...見当たりません」 ≪15-40≫

警備員は答える前に、うるさく質問する男を疑わしげにじっくり検分した。そしてようやく、ためらいがちな口調で言った。 ≪15-41≫

「あなたはその筋の?…」 ≪15-42≫
※ En êtes-vous?: こういう隠語っぽい言い回しはなかなか辞書で拾えない気がする。

この言い回しは、卑劣な密偵どもが跋扈した復古王政の時代、もっぱら警察関係者を指して広まったものだ。「その筋か、そうでないか」… 状況は変われど、この言葉はまだ使われていた。 ≪15-43≫

「そうです」と 若い刑事は答え、裏付けるために身分証を見せた。 ≪15-44≫

「お名前は?」 ≪15-45≫

「ルコック」 ≪15-46≫

警備主任の表情が突然笑顔に変わった。 ≪15-47≫

「それなら」と彼は言った。「あなたの同僚から、急用で持ち場を外れるので、とあなたに宛てた手紙を預かりました… こちらです」 ≪15-48≫

若い捜査官はすぐに封印を破り、中身を読んだ。 ≪15-49≫

「ルコック殿…」 ≪15-50≫

殿!... ただの丁寧な呼びかけだが、彼の唇に、ほのかな笑みが浮かんだ。これは、アプサント親父が同僚に対し、その優位をはっきりと認めた証ではないか? 若い刑事は、そこに忠実な猟犬の献身を読み取った。それは師匠が最初の弟子に示す愛情深い保護によって報いるべきものだろう。 ≪15-51≫
※ アプサント親父が、自分をMonsieur Lecoqと呼んでいる、とルコックが認識したのは、この場面が初めてなのだろう。

しかし、彼は読むのを続けた。 ≪15-52≫

「ルコック殿、開場時から私は見張っていたが、九時頃、三人の若者が腕を組んで入ってきた。店番のような風貌と身なりだ。突然、そのうちの一人がシャツより白い顔になり、他の二人にシュパンの店で死んだ正体不明の一人を指さしながら、こう言った。『ギュスターヴ!...』 ≪15-53≫

「すると仲間たちは、慌ててそいつの口を塞ぎ、『黙れ、この馬鹿!首を突っ込んで、俺たちまで巻き込む気か!』と何度も叱りつけた。 ≪15-54≫

「そのまま奴らが外へ出たので、私も後を追った。 ≪15-55≫

「しかし、話した奴はひどく動揺して足がもつれていたので、仲間たちが近くの安い飲み屋に連れて行った。 ≪15-56≫

私もそこに入り、奴らを目の端で監視しながら、この手紙を書いている。主任警備員が、私の不在を説明するこの手紙を渡すはずだ。私がこの連中を「尾行する」つもりだと、あなたにもわかるだろう。
   ABS.」≪15-57≫

この手紙はほとんど判読できない筆跡で、綴り間違いが一行一行に織り込まれていたが、内容は明快で的確であり、この上ない期待を抱かせるものだった。 ≪15-58≫
※ ルコックが読む途中で補正したようで、原文に綴り間違いは無いようだ。(Geminiがチェックした結果による。私には無理)
※ 署名が面白い。Absintheの略なのだろう。英訳では(なんか変だが) A. B. S.となっていた。改造社田中訳は「ア、ブ、サ生」英訳に引っ張られている。

それで、馬車に乗り込むとき、ルコックの顔に喜びが満ちていたので、老いた御者は馬を急がせながら、思わず問いかけた。 ≪15-59≫

「万事望み通り、だね」と彼は言った。 ≪15-60≫

 若い刑事の答えは、親しみを込めた「しっ!」だけだった。彼は、新たに得た情報を頭の中で調整するのに、全神経を集中させていた。 ≪15-61≫
※ chut: 静かに、という擬音。

司法宮の門前で降りた彼は、どうしてもご用命を待ちたいと頑張る老いた御者を、なかなか帰らせることができなかった。なんとか説き伏せ、ようやく左側の玄関にたどり着いたとき、親父は御者席から立ち上がり、なおも彼に向かって叫んでいた。 ≪15-62≫

「トリゴー殿の店!… 忘れないで! パピヨン親父… 九九八番、千から二を引いた番号だ…」 ≪15-63≫
※ 各辻馬車には固有の番号が付いている。

司法宮左翼の四階、「予審回廊」と呼ばれる長く狭く陰鬱な廊下の入り口に着くと、ルコックは樫の机の向こうに座る執達吏に話しかけた。 ≪15-64≫
※ la galerie de l'instruction: 「予審回廊」と訳した。
※ huissier: 「執達吏」と訳した。

「デスコルヴァル殿は執務室におられますね」と彼は尋ねた。 ≪15-65≫

執達吏は悲しげに首を振った。 ≪15-66≫

「デスコルヴァル殿は」と彼は答えた。「今朝は出勤していません。これから数か月はお休みでしょう…」 ≪15-67≫
※ des mois

「なんですって?… どういう意味ですか?」 ≪15-68≫

「昨夜、ご自宅の門前で馬車から降りた際、不運にも転倒し、足を骨折したのです」 ≪15-69≫
※ 最近「足」は足首から下、という限定が流行っているようだが、「足」は意味が幅広い一般語だから!
※ 初出紙の連載第22回目(1868-6-17)の終わり


(つづく)
 
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