
Paris 13 Rue du Chevaleret Sortie de l'Économat du Chemin de fer d'Orléans
XIV
殺人があった時、シュパン後家の酒場から逃げ出した女たちは、まるっきり知恵が回らないと考えるべきだろうか? ≪14-1≫
否! ≪14-2≫
危険が及んでいると自覚しながら、逃亡した二人が、公道で拾った馬車を使って自宅まで送らせるだろうか? ≪14-3≫
再び、否。 ≪14-4≫
だとすれば、御者が女たちの行方を追えるかもしれない、という希望は、幻想にすぎない。 ≪14-5≫
ルコックは全て承知の上だったが、それでも躊躇することなく御者席に飛び乗り、合図を送った。「出発だ」 ≪14-6≫
彼は、一つの公理に従っていた。思索の末に練り上げ、後に彼の名声を不動のものとする考えであり、彼は次のように表現している。 ≪14-7≫
「情報を吟味する際には、常識だと思えることを、もっとも疑え。非常識だと感じることを、まずは真実として受け入れよ」 ≪14-8≫
※ フィルポッツ『赤毛のレドメイン』(1922)、ノックス『陸橋殺人事件』(1925)などで引用された、有名な文句。原文 «En matière d'information, se défier surtout de la vraisemblance. Commencer toujours par croire ce qui paraît incroyable.» なお英訳は“Always suspect that which seems probable; and begin by believing what appears incredible.”
また、このように決断することで、若い刑事は御者の機嫌をとり、その結果、より多くの情報を得ることが出来た。 ≪14-9≫
それに結局、こうすれば手っ取り早くパリの真っ只中まで素早く戻れるのだ。 ≪14-10≫
この最後の目論見は外れなかった。 ≪14-11≫
主人が「行け、ココット!」と叫ぶと、馬は耳を立て、速歩に走り出した。馬は主人をよく知っており、ふざけていない時の口調を理解していた。 ≪14-12≫
あっという間に馬車はショワジー街道へ躍り出た。そこでルコックは再び質問を始めた。 ≪14-13≫
「さて、大将」と彼は切り出した。「大まかな話は聞いた。今度は細かい点を教えてほしい。あの二人の女は、どんな風に声をかけてきたの?」 ≪14-14≫
「単純な話だよ。あの謝肉祭の日曜は、散々な一日だった。大通りで六時間も客待ちして、ずっと雨に降られっぱなし。ひどいもんです!... 深夜零時までで懐に入ったのは、三十スーの酒手だけ。それが実入り。でも、ひどく疲れ、馬も同じだったので、帰ることにした。ブツブツ文句を言いながら、そりゃあね!... すると、シュヴァルレ通りの、ピカール通りを過ぎたあたりで、遠くの街灯の下に、女が二人立っているのが見えた。当然、儂は気にもとめない。なぜって、この年齢になると、女は...」 ≪14-15≫
※ trente sous: 30×1/20=1.5フラン。≪1-15≫の換算で1400円。
※ rue Picard: (以下、未確認のGemini訳註)この名はもうない。現在のrue Neuve-Tolbiacのあたり。19世紀には工場・倉庫・貧民街寄りの雰囲気。なお、Grok推察によると御者が女たちを発見したのは、48.83054° N, 2.37470° E 。Google Mapsなどで「101 Rue du Chevaleret, 75013 Paris」と入力すると見ることが出来る。
「その話はいいよ!」と若い刑事は遮った。 ≪14-16≫
「それで、その前を通り過ぎようとしたら、女たちが儂を呼ぶ。『御者さん!…御者さん!…』こっちは聞こえないふり。すると一人が追いかけてきて、叫んだ。『一ルイ!… チップが一ルイだよ!』迷っていると、さらに付け加えた。『それに運賃十フラン!』すぐに停めたよ」 ≪14-17≫
ルコックは内心イライラし出したが、下手に質問しても、何も生み出さないだろうと感じた。すべてを聞くのが一番だ。 ≪14-18≫
「わかるでしょ」と御者は続けた。「あの時間、あの界隈で、そんな女たちを信用できるわけがない。だから、二人が乗り込もうと近づいてきたので、儂は言った。『ちょい待ち!… お嬢さん方。おじさんに約束した金は… どこ?』するとすぐに、一人がきっちり三十フランを差し出して、こう言った。『とにかく、急いで!』」 ≪14-19≫
「細かい点まで上手く話してくれた」と若い刑事は褒めた。「さて、その女二人はどんな感じだった?」 ≪14-20≫
「と言いますと?」 ≪14-21≫
「聞きたいのは、女たちの身なりや雰囲気、あなたの目にはどう映った?..」 ≪14-22≫
御者の赤い顔に大きな笑みがこぼれた。 ≪14-23≫
「そりゃあ!…」と彼は答えた。「儂の目には、あの二人の印象は… 二人ともまともな女には見えなかった」 ≪14-24≫
※ dame: Roger Bonniotのガボリオ伝(1985)に、これはノルマンディー訛りだ、と書いてあった。(以下、未確認のGemini訳註) 当時のフランス文学では、ノルマンディー出身者は「粘り強く、計算高いが、どこかおどけた話し方をする」というステレオタイプで描かれる。
「ああ!… じゃあ、どんな身なりだった?」 ≪14-25≫
「『天弓』で踊る姉ちゃん連中みたいな感じ… わかりますよね。ただ、片方は羽振りが良さそうだったけど、もう一人は... おお!ひどく粗末で!」 ≪14-26≫
「追っかけて来たのはどっち?」 ≪14-27≫
「みすぼらしいほう、つまり...」 ≪14-28≫
彼は途中で止めた。頭に鮮やかな記憶がよみがえったため、急に手綱を引いて馬を跳ね上がらせたのだ。 ≪14-29≫
「なんてこった!… 」彼は叫んだ。「待ってくれ、今思い出した。性悪女二人の片方がもう一人を『奥様』って呼んでた、大仰な呼び方だったよ。でも、もう一人はその女を『お前』って呼んで、すごく無礼に扱ってたんだ」 ≪14-30≫
「ほう!」若い刑事は違う口調で三回繰り返した。「ほう!ほう!… どっちが『お前』と言ってた?」 ≪14-31≫
「身なりの悪い方。そいつは肝の据わった女で、もう一方、小綺麗な方を、プラムの木のように激しく揺すってた。『このダメ女!』と言ってたよ。『破滅させる気? 家に着くまで気絶なんて許さない、歩け!」と女は言った。すると、もう一方は泣きながらこう答えた。『本当です、奥様、本当です、もう無理です!』この女は本当に歩けないように見えたので、儂は心の中で思った。『こいつ、飲み過ぎちゃったんだな…』」 ≪14-32≫
一連の状況は、極めて重大な意味があった。ルコックが最初に立てた推測を修正しつつ、同時にその正しさを裏付けるものだった。 ≪14-33≫
彼が想像した通り、二人の女の社会的地位は同じではなかった。 ≪14-34≫
不揃いな足跡が女の弱さを示していたので、踵の高い繊細なブーツを履いた女の方が、上位の身分だと判断した点だけが誤っていた。 ≪14-35≫
優位だったのは、平底の靴跡を残した方だった。身分も上だが、精神的強靭さにおいても相手よりまさっていたのだ。 ≪14-36≫
いまやルコックは確信していた。逃げた二人のうち、一人は使用人、もう一人はその女主人だ。 ≪14-37≫
「大将、それで全部?」彼は相手に尋ねた。≪14-38≫
「全部だよ」と御者は答えた。「ただ、金をくれた、みすぼらしい服の女は、その手が… ああ、子供みたいに小さく綺麗な手で、それから、怒鳴っていたのに、声の方は音楽みたいに澄み切っていた…」 ≪14-39≫
※ une main d'enfant(子供の手): 単に小さいだけでなく、労働を知らない手、というニュアンス。
「女の顔を見た?...」 ≪14-40≫
「ああ!...ほんの少しだけ...」 ≪14-41≫
「どうだい、女が綺麗だったか、黒髪か金髪か教えてよ?...」 ≪14-42≫
質問が一度に来て、実直な御者はあたふたした。 ≪14-43≫
「待って!...」と彼は返した。「印象だと、綺麗じゃない。若くもないと思う。でも、金髪なのは確かで、髪はふさふさだった」 ≪14-44≫
「背が低い、高い? 太っていた、痩せていた?」 ≪14-45≫
「どっちだろう」 ≪14-46≫
曖昧だった。 ≪14-47≫
「じゃあ、もう一人の」とルコックが尋ねた。「小綺麗な女は?」 ≪14-48≫
「まったく!…そっちはとんと見当がつかない。背が低いように見えた、それだけ」 ≪14-49≫
「金を払った女を、目の前に連れてきたら、わかるかい?」 ≪14-50≫
「そりゃあ!…わからない」 ≪14-51≫
馬車はブルゴーニュ通りのなかほどに来た。御者は馬を止め、こう言った。 ≪14-52≫
「さあ着いた!… あの家が、あの二人の性悪女が入った家だ… そこだよ」 ≪14-53≫
若い刑事は、鼻まで覆っていたスカーフを外し、折りたたんでポケットにすべらせてから、地面に飛び降り、指し示された建物の中へと一瞬のうちに入っていった。 ≪14-54≫
管理人の部屋では、老婆が針仕事をしていた。 ≪14-55≫
「奥様」と、ルコックは礼儀正しく言いながら、スカーフを差し出した。「これを、お宅の入居者の方にお渡ししたい」 ≪14-56≫
「どなたに…?」 ≪14-57≫
「困ったことに、それが僕にもわかりません」 ≪14-58≫
管理人は、この丁寧すぎる若者が、自分をからかっている不届き者だと思い込んだ。 ≪14-59≫
「この、ふざけた若造が!」老婆はまくしたてた。 ≪14-60≫
「すみません」とルコックは遮った。「話を続けさせてください。実はこういうわけです。一昨日の夜、というか一昨日の朝三時頃、静かに帰宅しようと歩いていて、ここの近くで、とても急いだ様子の二人の女性が僕を追い越していきました。そのうちの一人がこれを落としたのです... それを拾って、当然のことながら、彼女に返そうと足早に追いかけたのですが… 間に合わなかった。二人はここに入ってしまったのです。その時は、あなたの邪魔をしたくなかったので、呼び鈴を鳴らす勇気が出なかった。昨日は忙しかったんですが、今日、来ることが出来ました。これがその落とし物です」 ≪14-61≫
彼はスカーフをテーブルに置き、立ち去ろうとしたが、管理人が引き止めた。 ≪14-62≫
「ご親切は大変ありがたいけど」と彼女は言った。「それはお持ちください。うちの屋敷には、夜中の十二時を過ぎて、女たちだけで帰宅するような方はいないので」 ≪14-63≫
※ Des femmes qui rentrent seules(男のエスコート無しで)女だけで帰宅する: 当時の感覚。まともな女性は夜にそんなことはしない。
「ですが」と若い刑事は食い下がった。「僕はこの目で、確かに見ました…」 ≪14-64≫
「ああ!……忘れてた」と老婆は叫んだ。「あんたの言うその夜、確かにベルが鳴ったんだ。……全く、うるさいねえ! 私は紐を引いて、耳を澄ました……何の音もしない。ドアを閉める音も、階段を上がる音もない。それでこう思った。『なんだい!またいたずらっ子が、からかっている』この家は、わかるだろうけど、誰でも入ってこられるようにはしてないからね。だから、私は迷わず、パッとペチコートを引っ掛けて部屋を出た。そしたら、何が見えたと思う?... 二つの影が、シュッと走り去って、私の鼻先でドアをバタンと閉めた。急いで部屋に戻って、自分で紐を引いて、通りを確かめに走った… そこで何を見たか?… 女が二人、走って逃げて行った!」 ≪14-65≫
※ Vite je reviens me tirer le cordon à moi-même: (以下、未確認のGemini訳註) 自分も外に出るために、もう一度紐を操作した様子。大きな屋敷の玄関ドアは重厚で、基本的には施錠されている。住人や来客がベルを鳴らすと、管理人は自分の部屋に座ったまま紐を力一杯引く。すると、滑車とワイヤーを伝って玄関のボルトが外れ、ドアが開けられるようになる仕組み。
「どちらの方向へ?…」 ≪14-66≫
「ヴァレンヌ通りの方へ行ったよ…」 ≪14-67≫
※ rue de Varennes: (以下、未確認のGemini訳註) パリの左岸、7区にある最高級の貴族街・エリート街として知られている。「オテル・パルティキュリエ(貴族の館)」の宝庫。高い壁に囲まれた広大な庭を持つ豪邸が建ち並んでいる。最も有名なのは、Hôtel de Matignonや、ビロン館など。
ルコックは納得した。また世話になるかもしれないので、管理人に礼儀正しく挨拶し、馬車に戻った。 ≪14-68≫
「僕の思った通りだった」と彼は御者に言った。「女たちはここに住んでいない」 ≪14-69≫
御者は悔しそうな身振りをした。罵り言葉が溢れ出そうになったが、時計を確認したルコックがそれを遮った。 ≪14-70≫
「九時!… 」と彼は言った。「約束に一時間以上遅れそうだ。でも、良い知らせを持ち帰れる… 死体公示所へ行ってくれ、急ぎで!」≪14-71≫
※ rue de Bourgogneからla morgueまで: (以下、未確認のGemini訳註)直線で2.5kmほど。当時の馬車は時速8km〜12km程度。単純計算で20分程度で着くはず。ルコックはモルグでの所要時間などを考慮して一時間以上の遅れ、と言っている?それとも「九時」は現時点の時間ではなく、約束の時間≪12-110≫を思い出して言ってるだけで、ここですでに時間は9:30とかになっているのか?
※ 初出紙の連載第21回目(1868-6-16)の終わり
(つづく)
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