十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載18(第1部第12章の2)

Ancienne Préfecture de Police, quai des Orfèvres et Pont Neuf en 1850. 画家Louis-Martial-Théodat Masson

 

監獄の書記課以外の場所なら、ルコックの取りかかった作業---神秘的で、奇妙、かつ滑稽なその作業は、間違いなく失笑を買っていただろう。 ≪12-70≫

しかし、この重罪裁判所の控え室では、取るに足らない行為であっても陰鬱な色合いを帯び、笑いはたやすく凍りつき、何が起きても驚く者はいない。 ≪12-71≫

獄長から末端の看守に至るまで、居合わせた面々は皆、これまでにさまざまなことを見てきたのだ。誰も、その若い刑事がどのような動機で行動したのか、尋ねるつもりはなかった。 ≪12-72≫
※ 今後はgardienを「看守」、surveillantを「刑務官」とする。(以下、未確認のGemini訳註) どちらも服装は、ダークブルーの上下。ダブルボタンのCapote。軍人っぽい配色。ズボンは茜色の場合も。Képi帽、立ち襟、腰回りには鍵束、警棒かサーベルを下げている。

はっきりと、誰もが気づいていたのは、被告は司法を相手に自分の正体を隠し通そうとしていて、こちらは何としても暴かねばならないが、おそらくルコックはその目的を達成する策を考え出したのだろうということだった。 ≪12-73≫

ともあれ、作業はすぐに終わった。彼は新聞紙の上から、手のひらのくぼみに、黒ずんだ粉末を一山かき集めた。 ≪12-74≫

その粉を二つに分け、一方を紙切れに包んでポケットに入れ、もう一方を獄長に差し出しながら言った。 ≪12-75≫

「閣下、これを寄託いたします。被告人の目の前で、封印してください。後で、この粉が別のものにすり替えられたと、彼に言わせぬためです」 ≪12-76≫
※ recevoir en dépôt: 「公式に預かる」という硬い表現のようだ。

獄長は求められたことを行なった。この「証拠物件」を小袋に入れて紐で縛り、封印を施している間、殺人犯は肩をすくめ、鼻で笑っていた。 ≪12-77≫

だが、その冷笑的な態度の裏に、ルコックは痛ましいほどの不安を感じ取った。 ≪12-78≫

この時だけ、運命は、彼に小さな勝利を授けてくれたようである。その後の出来事は、彼の予想を全く裏切るものとなる。≪12-79≫
※ Le hasard lui devait bien la compensation de ce petit triomphe: 逐語訳「運命は、彼にこの小さな勝利という報酬を与える義務があった」、趣旨は「それくらいの幸運があってもバチは当たらない」という感じ。

その後、殺人犯は、血に汚れた服を脱ぎ、当局から支給された服に着替えるよう命じられても、何ら抵抗を示さなかった。 ≪12-80≫

最も卑劣なならず者ですら屈辱に顔を赤らめるような、あの忌まわしい数々の身体検査の最中も、彼の顔の筋肉ひとつとして心の秘密を漏らすことはなかった。 ≪12-81≫

刑務官たちが髪や髭をくまなく調べ、口の中まで覗き込んで、頑丈な鉄格子でも切断する時計のバネや、囚人たちがパンを団子状にして隠す「伝書」に書くための鉛筆の芯のかけらを隠し持っていないか、調べ上げるのを、彼はただ冷淡に無感覚な様子で受け入れていた。 ≪12-82≫
※ mine de plomb: 「鉛筆の芯のような鉛の破片」
※ postillon: 原義は「郵便馬車の御者」、監獄の隠語では「丸めたパンの中に隠して投げ渡す密書」を指す。

入獄手続きが終わり、獄長はベルを鳴らして看守を呼んだ。 ≪12-83≫

「この男を」と彼は命じた。「『隔離房』三号へ連行せよ」≪12-84≫
※ secrets: 外部との接触を一切絶たれる「厳正独房、完全隔離房」

被告を引きずって行く必要はなかった。彼は入ってきた時と同じように、行き先を知っている常連のように、看守の先に立って出て行った。 ≪12-85≫

「図太い極悪人め!…」書記官が声を上げた。 ≪12-86≫

「そう思われますか!…」ルコックは戸惑いながらも揺るがず、そう返した。 ≪12-87≫

「ああ!… 疑う余地はない」獄長は言った。「あいつは間違いなく危険な罪人、常習犯だ... 以前も下宿人だったような気がする…誓ってもいい」 ≪12-88≫

こうして、経験豊富な者たちは皆ジェブロルの意見に同調したが、ルコックだけは違う意見だった。 ≪12-89≫

しかし、彼は反論しなかった… 言っても無駄だね? それに、ちょうどシュパン後家が連れてこられた。 ≪12-90≫

ここまでの道中で彼女の神経も落ち着いたのか、今や羊のように穏やかになっていた。彼女は猫なで声を出し、目に涙を浮かべ、いかに自分がひどい不正にさらされているかを「お役人様」に訴えかけた。自分は警視庁でも知られた、正直女だと言う。家族が狙い撃ちにされているに違いない、現に、あんな良い子の息子ポリットまで、「挨拶泥棒」の容疑で留置されているのだから…… 彼女だけが頼りの嫁や孫のトトは、一体どうなってしまうのか!... ≪12-91≫
※ bons messieurs: お役人様
※ vol au bonjour: 「挨拶泥棒(空き巣)」とは、居住者が不在の間に、無理やり侵入することなく建物に侵入し、万が一誰かが突然現れた場合には、挨拶をして、別の人を探しているふりをすることを指す。(wikitionary.fr) この語は1830年ごろが初出? バルザックの作品や、ヴィドックの回想録にも出てくるようだ。

しかし、氏名を告げ終わって廊下に連れ出されると、忽ち生地を現わした。看守と言い争う彼女の怒鳴り声が聞こえてきた。 ≪12-92≫

「礼儀を忘れるんじゃない」と彼女は言った。「そんなんじゃチップがもらえるもんか。アタシが自由になっても、タダで一杯飲みに来てって招待しないよ」 ≪12-93≫
※ bonne pièce: 乱暴な看守をウェイターに見立てて、チップがもらえる態度じゃない、と言っているのだろう。

全部終わり、ルコックは予審判事が到着するまで自由の身となった。彼はまず廊下や部屋をさまよってみたが、どこへ行っても質問され、邪魔が入るため、建物の外へ出て、河岸に面した大門の前で休んだ。 ≪12-94≫

彼の信念は揺るがなかったが、出発点の修正を迫られていた。 ≪12-95≫

殺人犯が本来の社会的立場を隠しているという確信は、かつてないほど強まっていた。しかし、一方で、この男が刑務所とその慣習をよく知っていることが証明された。 ≪12-96≫

さらに、この被告は、想像していたよりも千倍も強い人物であることが明らかになった。 ≪12-97≫

なんという自制心、なんという完璧な演技!凄まじい試練を前にしても眉ひとつ動かさず、パリで最も鋭い鑑定眼を持つ面々を、まんまと欺いたのだ。 ≪12-98≫

若い刑事は、三時間ほど、腰を下ろした石柱と同じく微動だにせず、寒さも時間の経過も忘れていた。そこへ一台のクーペが大門の前に停まり、デスコルヴァル氏が書記官を従えて降りてきた。 ≪12-99≫
※ coupé: 四輪で二人乗りの箱馬車。wikiの画像。

彼は立ち上がって、彼らのところへ駆け寄った。息を切らし、色々聞こうとした。 ≪12-100≫

「現場での調査の結果」と判事は彼に言った。「君の見立てが正しいと確信した。新しい進展はあったか?」 ≪12-101≫

「はい、閣下、一見取るに足らない事実ですが、その重要性は...」 ≪12-102≫

「よろしい!...」と判事が口を挟んだ。「その件は後で説明してくれ。まずは被告人たちに略式の尋問を行いたい... 今日は単なる形式的な手続きだ。だから、ここで待っていてくれ...」≪12-103≫
※ 尋問時の書記官の役割 (記事「寄り道4: 予審判事マニュアル1836pt1」参照)
• 調書の作成: 判事、被告の発言を一言一句記録。
• 公証人としての機能: 判事が独断で内容を改ざんしたり、不当な圧力をかけたりしていないことを担保する監視役の側面もあった。
• 署名: 調書の最後には、判事、書記官、そして(可能であれば)被告の三者が署名することで、その記録が法的な効力を持つ。

判事は急ぐとは言ったが、ルコックは少なくとも一時間は待たされるだろうと覚悟を決めていた。しかし間違いだった。二十分も経たないうちに、デスコルヴァル殿が戻ってきた…書記官は連れてなかった。 ≪12-104≫

彼は足早に歩きながら、かなり離れたところから若い刑事に話しかけた。 ≪12-105≫

「家に戻らねばならん」彼は言った。「…今すぐに。君の話は聞けない…」 ≪12-106≫

「しかし、閣下…」 ≪12-107≫

「いいから!… 犠牲者の遺体は死体公示所に運ばれた… そちらを監視しておいてくれ。あと今夜やることは… ああ、君が必要だと思うことをやってくれ」 ≪12-108≫

「しかし、閣下、どうしたら…」 ≪12-109≫

「明日だ!… 明日!… 九時に、私の執務室で… 司法宮の…」 ≪12-110≫

ルコックはなおも訴えようとしたが、すでにデスコルヴァル殿は馬車に乗り込み、というか飛び乗り、御者は馬に鞭打っていた。≪12-111≫

「なんだ、あの判事!…」若い刑事は河岸に立ち尽くし、呆然として呟いた。「狂ってしまったのか?」 ≪12-112≫

だが、彼の頭に不吉な疑念がよぎった。 ≪12-113≫

「それとも」彼は付け加えた。「この謎の鍵を手に入れたんじゃないか?… それで僕を遠ざけようとしてるのか?」 ≪12-114≫

その疑念は、彼にとって耐え難いものだった。被告の態度から何か手がかりを得られないかと期待して、急いで引き返すと、「隔離房」の厚い扉に設けられた覗き穴に目をぎゅっと押し当てた。 ≪12-115≫

殺人犯は、扉の向かい側の粗末な寝床に横たわり、顔を壁に向けて、目元まで毛布にくるまっていた。 ≪12-116≫
※ grabat: 当時の監獄のベッドは、粗末な寝床で、藁布団一枚のような劣悪なものだった。イメージ→独房の男性囚人 19世紀 ストックイラストレーション - Getty Images

眠っている?…いや、若い刑事は奇妙な動きに気づいた。説明のつかないその動きに、彼は強く惹きつけられた。覗き穴に、今度は目の代わりに耳を押し当てると、押し殺したうめき声が聞こえた!…もう疑いの余地はない!…殺人犯は死にかけて喘いでいるのだ。 ≪12-117≫
※ râler: (以下、未確認のGemini訳註) 死に際の喘ぎ。病院などで、死に際の呼吸の描写に使われる不吉な語。

「大変だ!」ルコックは驚いて叫んだ。「助けてくれ!」 ≪12-118≫

十人の看守が駆けつけた。 ≪12-119≫

「どうした?」 ≪12-120≫

「被告だ!… あそこで…自殺しようとしている」 ≪12-121≫

扉が開けられた。間に合った。 ≪12-122≫

惨めな男は衣服を衣服を裂いて紐状にすると、首に巻きつけ、食事とともに配られた鉛のスプーンを軸に使い、自分の首を絞めていた… ≪12-123≫

急いで呼び出された監獄医が、彼に瀉血を施した。あと十分で手遅れだったろうと断じた。窒息がほぼ完成していたのだ。 ≪12-124≫
※ saigner: 瀉血。血を抜く治療法。(以下、未確認のGemini註釈) 意識不明の重体や脳出血、窒息などの際にも「血を逃がす」ことで救命しようとした。当時の医学理論では
1. うっ血の除去: 首を絞めたことで頭部に血が上り、顔が紫色に腫れ上がっています。医師は、これを「脳溢血や脳充血を起こして死に至る危険な状態」と考えた。
2. 圧力の解放: パンパンに張った頭部の血管の圧力を下げるには、腕などの静脈を切って「悪い血(充血した血)」を外に逃がしてやる。
3. 意識の回復: 刺激と血流の調整によって、ショック状態にある人間を呼び戻す効果がある。

殺人犯が意識を取り戻すと、狭い房の中を狂ったような目つきで見回した。生きていることに驚いているようだった。やがて、腫れたまぶたから大粒の涙がこぼれ落ち、頬を伝って顎ひげの中に消えた。 ≪12-125≫

彼に質問を浴びせたが… 一言も言わない。 ≪12-126≫

「こうなっては仕方ない」と医師は言った。「隔離房なので、見張りの同房者は付けられない。拘束衣を着せる必要があるな」 ≪12-127≫

被告を拘束衣で縛りつけるのを手伝った後、ルコックは深く考え込み、胸のざわつきを覚えながらその場を離れた。この事件を覆う謎めいたベールの下で、何か凄まじい悲劇が渦巻いている。 ≪12-128≫

「だが、一体何が起こった?」と彼は呟いた。この不幸な男は黙秘したのか、それとも判事にすべてを白状したのか?… なぜこのような絶望的な行為を?」 ≪12-129≫

※ 初出紙の連載第19回目(1868-6-14)の終わり

(つづく)
 
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