十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載17(第1部第12章の1)

panier à salade (サラダ籠) 出典不明。

 

XII

護送車の扉がしっかり閉じられた。御者が鞭を鳴らすと、この動く牢屋は、二頭の力強い馬に引かれ走り出した。 ≪12-1≫

ルコックは、前方の御者席へ乗り、御者と当番のパリ衛兵の間に座った。心配事が非常に大きかったため、二人の話はまったく耳に入らなかった。その会話は、とても陽気なものだったが、シュパン後家のおぞましい声に邪魔されていた。彼女は、自分の区画で逆上し、歌ったり罵詈雑言を吐き散らしたりしていた。 ≪12-2≫
※ cabriolet: 折りたたみ幌つきの二輪馬車。ここは類似構造の御者席を指しているのだろう。上のイラスト参照。
※ le garde de Paris: 「パリ衛兵」と訳した。Gendarmeは囚人護送も本務なので、ここに加わっているようだ。

若い刑事は、この殺人犯が隠している秘密を少しでも暴き出す術を掴みかけていた。この男は---首を懸けてもいい---かつて上流階級に属していたに違いない、と彼は確信していた。 ≪12-3≫

被告が食欲があるふりをし、胸が悪くなる飲み物を我慢し、文句も言わずに「区画のあるサラダ籠」に乗り込んだとしても、 それ自体は驚くべきことではない。この男は強い意志を持ち、差し迫った危機と生への執念によって、そのエネルギーを十倍にも燃え上がらせているのだろう。 ≪12-4≫

しかし、常設の留置所での屈辱的な入所手続き、時には究極の侮辱にまで至りうる手続きに服するときにも、彼は同じように自制を保てるだろうか?…  ≪12-5≫
※ La Permanence: 警察本部などの「二十四時間受付の留置窓口」を指しているようだ。

いや、ルコックにはそうは思えなかった。 ≪12-6≫

彼は確信していた。汚名を着せられる恐怖、自尊心が踏みにじられた時の激昂、そして肉体と思考が引き起こす拒絶反応が、必ずや殺人者に我を忘れさせ、捜査当局が見逃さない、正体を表す言葉を吐かせるはずだ。 ≪12-7≫

ポン・ヌフを離れオルロージュ河岸へ向かう護送車の中で、若い刑事はようやく我に返ったようだ。やがて、重い車体は建物のアーチをくぐり抜け、狭く湿り気を帯びた中庭の真ん中で停った。 ≪12-8≫

すぐにルコックは地面に飛び降りた。彼は殺人犯が入った区画の扉を開け、こう言った。 ≪12-9≫

「着いたぞ、降りるんだ」 ≪12-10≫

逃走の恐れは全くなかった。鉄門が閉じられ、少なくとも十数人の刑務官や職員が、収穫された悪党どもを見ようと好奇心で集まっていた。 ≪12-11≫

区画から解放された殺人犯は軽やかに車を降りた。 ≪12-12≫

その顔つきには、また変化があった。多くの偶然に翻弄された男の、完全な無関心だけが目についた。 ≪12-13≫

筋肉の動きを研究する解剖学者といえども、殺人犯の挙動や表情、その眼光を注視するルコックほどの情熱あふれる集中力は持ち合わせていないだろう。 ≪12-14≫

足が中庭の苔で青くなった石畳に触れると、彼は心地よさを感じたようだ。胸いっぱいに空気を吸い込み、それから大きく伸びをして、体を激しく揺すった。「サラダ籠」の狭苦しい区画で、強張っていた手足に柔軟さを取り戻そうとしているのだろう。 ≪12-15≫

それが終わると、彼はあたりを見回した。その唇には、捉えがたいほど微かな微笑が浮かんだ。 ≪12-16≫

まるでこの場所に覚えがあるようだった。煤けた高い壁、鉄格子の窓、分厚い扉、いくつもの閂、牢獄という名の陰惨な装置の全てを、この男はかつて見たことがあるのだ、と誰もが断言するだろう。 ≪12-17≫

「なんてこった!…」ルコックは戦慄を感じた。「彼はここを知っているのか!…」 ≪12-18≫

何の指示も、一言の案内も、合図もないのに、その男が、中庭に面した五、六つの扉のうちの一つへ迷わず向かうのを見て、若い刑事の不安はさらに強まった。 ≪12-19≫

彼は、苦もなく、まっすぐ、まさにその扉に向かって歩いていった。それは偶然か? ≪12-20≫

だが、その後の行動はさらに驚異的だった。殺人犯は薄暗い廊下へ入り、突き進み、左へ折れ、守衛室を通り過ぎると、右手の「猿の談話室」を横目に、そのまま書記課へと足を踏み入れた。 ≪12-21≫
※ parloir des singes: (以下、未確認のGemini註釈) 当時の隠語。檻のような格子越しに面会する様子を、見世物小屋の猿に例えた表現。未決囚が弁護士や家族と面会する場所を指す。

ジェルザレム通りで言う「戻り馬」つまり百戦錬磨の前科者でも、これ以上の振る舞いは出来ないだろう。 ≪12-22≫
※ cheval de retour: (以下、未確認のGemini註釈) 一度売られたのに元の厩舎に戻ってくる馬、つまり「何度ぶち込んでも刑務所に戻ってくる再犯者」当時の警察官なら誰でも使っていた有名な俗語。

ルコックは、背筋を冷たい汗が走るのを感じた。 ≪12-23≫

「この男は」彼は思った。「以前ここに来たことがある。勝手を知っている!」 ≪12-24≫

書記課は、かなり広い部屋だった。ほこりだらけの小さな窓から差し込む光は心細く、鋳鉄製のストーブが室内を過剰に暖めていた。 ≪12-25≫

そこには書記がいて、入所登録簿の上に新聞を広げて読んでいた。その陰鬱な簿冊には、不品行、窮乏、犯罪、一時の激情、時には不運な誤りによって、この監獄の低き門をくぐることとなった者たちの名と特徴が、全て記録されていた。 ≪12-26≫
※ Dépôt: 出廷を控えた逮捕者を留める拘置所。Palais de justice de Parisに併設されている。本訳では古めかしいが「監獄」とする。

刑務官が三、四人、交代の時間を待って、木製の長椅子でうたた寝していた。 ≪12-27≫
※ surveillants

その長椅子が数本、机が二台、粗末な椅子が数脚。部屋の調度品はそれですべてだった。 ≪12-28≫

隅には、すべての被疑者が下をくぐる身長計が見えた。人相書を仕上げるためには、身長を測らねばならないのだ。 ≪12-29≫
※ signalement(人相書): まだベルティヨン(正式採用パリ1882年以降)の時代ではない。古臭い、旧来のやり方。身長と、主観による身体特徴の記述だけか? 未調査。

被告とルコックが入ってくると、書記官は顔を上げた。 ≪12-30≫

「ああ!…護送車が到着したか?」 ≪12-31≫

「はい」と若い刑事は答えた。 ≪12-32≫

彼はデスコルヴァル殿が署名した令状を差し出し、こう付け加えた。 ≪12-33≫

「こいつの入所書類です」 ≪12-34≫

書記官は令状を受け取り、それを読んでぎょっとした。 ≪12-35≫

「おや!」と彼は声を上げた。「三重殺人犯だ、おや、おや!」 ≪12-36≫

彼は被告をより敬意を持って見つめた。彼は、並の囚人でも、薄汚い浮浪者でも、卑小なコソ泥でもないのだ。 ≪12-37≫

「予審判事は、接見禁止を命じている」と彼は続けた。「それから、奴の着衣は証拠品だから、別の服を用意させねば…… 誰かすぐに獄長殿に知らせに行け、そして他の乗客は車内で待たせておけ…… 私は、この男の収監手続きを規則通り行うから」 ≪12-38≫
※ directeur: 他にも「所長」がいるので、本訳では古風に「獄長」と訳す。

獄長は近くにいたようで、すぐに現れた。書記官は記録簿を用意していた。 ≪12-39≫

「名前は?」と被告に尋ねた。 ≪12-40≫

「メ」 ≪12-41≫
※ Mai: この綴りは「五月」である。「サツキ」と翻訳しようか、と一瞬だけ思った。有名人では古楽のテノール歌手Guy de Meysさんもいるから、そんなに奇異な苗字ではない、と思う。Last name MAI: origin and meaning - Geneanetにも数人の実在のフランス人の苗字MAIが挙げられている。

「洗礼名は?」 ≪12-42≫

「持ってない」 ≪12-43≫

※ Je n'en ai pas.: 「ジュナンネパさんか… て、持ってないんかい!」と言う乗りツッコミも浮かんだ…

「なにっ、洗礼名がないだと!」 ≪12-44≫

殺人犯は思案したように見えたが、やがて不機嫌そうに、 ≪12-45≫

「あのなあ」と言った。「俺に質問しても全く無駄だと言っておく。俺は判事にしか答えない。俺の首を落としたいんだろ?… 実に素敵な悪だくみ!… だが、その手は良く知ってる…」 ≪12-46≫

「注意したまえ」と獄長は言った。「そんな態度はあんたの立場を悪化させるだけだ……」 ≪12-47≫

「知ったことか!…… 俺は無実だ。あんたたちが陥れようとしてるから、俺は身を守っている。さあ、俺の腹から言葉を引き出せよ、できるならな!...それより、派出所で取り上げた俺の金を返せ。百三十六フラン八スー!... ここを出る時に必要だ。帳簿にちゃんと記録しとけよ…どこにある?」 ≪12-48≫
※ Cent trente-six francs huit sous: ≪1-15≫の換算で約十三万円。

その金は、派出所主任がルコックに渡したものだった。最初の身体検査で殺人犯から没収した他の所持品一式もある。彼は全部を机の上に並べた。 ≪12-49≫

「こちらが、あなたの百三十六フラン八スーです」と彼は言った。「それに、ナイフ、ハンカチ、葉巻が四本……」 ≪12-50≫

被告の顔に、大きな安堵と喜びの色が浮かんだ。 ≪12-51≫

「さて、」書記官が尋ねた。「質問に答える気になったか?」 ≪12-52≫

しかし、獄長は、これ以上強く迫っても無駄だとわかり、書記官に黙るよう合図し、男に向かって言った。 ≪12-53≫

「靴を脱げ」と指示した。 ≪12-54≫

その命令に、ルコックは殺人犯の視線が揺らぐのを見た気がした。錯覚だったか? ≪12-55≫

「何のためだ?」と彼は尋ねた。 ≪12-56≫

「身長計に乗るんだよ」書記官が答えた。「あんたの身長を記録しなければならん」 ≪12-57≫

被告人は返事をしなかった。座って、分厚い革のブーツを脱いだ。右足の踵は、内側にひどく磨り減っている。粗末な靴の中は、靴下も履かぬ素足があった。 ≪12-58≫
※ talon... tourné en dedans(かかとが内側に曲がって(磨り減って)): 安物の靴を履き潰している労働者の特徴のようだ。

「どうやら靴を履くのは日曜日だけですかね?」とルコックが尋ねた。 ≪12-59≫
※ le dimanche: (以下、未確認のGemini訳註) 当時の下層階級は、普段は木靴(サボ)などで過ごし、日曜の礼拝の時だけ革靴を履く習慣があった。

「どこを見てそんなことを?」 ≪12-60≫

「もちろん!… 足首まで、泥がこびりついていますから」 ≪12-61≫

「だから何だ!」と男は最も傲慢な口調で言った。「足が侯爵夫人のように綺麗じゃないと罪なのか?」 ≪12-62≫

「少なくとも、それはあなたの罪ではない」若い刑事はゆっくりと言った。「泥で隠しているから、私が気づかないとでも? あなたの足がどれほど白く、清潔で… 爪は手入れが行き届き、ヤスリまでかけられている」 ≪12-63≫

彼は言葉を止めた。探究の才能により、彼の頭に突然閃きがあった。 ≪12-64≫

素早く椅子を前に出し、その上に新聞を広げて殺人犯に言った。 ≪12-65≫

「そこに足を置いてください!」 ≪12-66≫

男は渋る素振りを見せた。 ≪12-67≫

「おい!…抵抗するな」と獄長は念を押した。「周りを見てみろ」 ≪12-68≫

被告は観念した。指示通りの姿勢を取ると、ルコックは小刀を手にとり、皮膚にこびりついた泥の塊を、手際よく削り落とし始めた。 ≪12-69≫
※ canif(小刀): 19世紀以降は折りたたみ式が主流。事務職や知識層なら、間違いなくポケットに忍ばせている。詳細→Canif — Wikipédia
• 羽根ペンの手入れ: 鉛筆削りのように、羽根ペンの先を削って整えるために必須。
• 身だしなみ: 爪を整えたり、ちょっとした糸のほつれを切ったりする。
• 実用: 果物を剥いたり、手紙の封を切ったりするのにも使われた。

なお≪12-50≫の「ナイフ」はcouteauで普通にイメージするナイフ。

※ 初出紙の連載第18回目(1868-6-13)の終わり


(つづく)
 
コメント欄を設けました。別ページに飛びます。
https://danjuurockandroll.hateblo.jp/entry/2026/02/05/013007
コメントは承認制です。