
イタリア広場の古写真。年代不明だが、トラムの感じから1890年ごろか? モーター化(1887が初らしい)初期の車両に似ている。
1860 - De la porte à la place d'Italie - Paris Unplugged
トラムの参考写真→Les Tramways à Paris en 1900
XI
二十分走り、ルコックがショワジー街道の入り口に着いたとき、イタリア広場の派出所主任は、パイプをくわえたまま警備詰所の前を行ったり来たりしていた。 ≪11-1≫
※ ここは≪1-1≫「古いイタリア関所の派出所(poste de police de l'ancienne barrière d'Italie)」と同じ場所のはず。連載時の名称は「イタリア広場の派出所」に変わっていたのかも。1860年のパリ市域拡大で、関所がパリ市の内外を分けていた時代は終わったのだ。
彼の心配そうな様子、日よけ付きの小窓を絶えず不安げに見つめる様子から、通りがかりの者でも、彼が今、とても大事な鳥を檻に閉じ込めていることを察した。 ≪11-2≫
若い刑事を認めると、彼の額から皺が消え、歩き回るのをやめた。 ≪11-3≫
「良かった!…」彼は尋ねた。「知らせは何?」 ≪11-4≫
「囚人たちを警視庁へ護送する令状を持ってきました」. ≪11-5≫
するとすぐに、派出所主任は、皮膚が剥がれるほど手をこすり合わせた。 ≪11-6≫
「そいつはありがたい!…」と彼は叫んだ。「一時間もすれば護送車が通る。奴らを丁重にポイっと放り込んで、さっさと送り出そう!」 ≪11-7≫
ルコックは、彼が大喜びしているのを遮らざるを得なかった。 ≪11-8≫
「囚人は二人だけ?」と彼は尋ねた。 ≪11-9≫
「まったく二人だけだ、女はこっち、男はあっちと別々だが… この夜は静かだったよ… 謝肉祭日曜の夜なのにだぜ!… びっくりだね。まあ、狩りが中断されちまったからなあ」 ≪11-10≫
「でも、酔っ払いが一人いましたね」 ≪11-11≫
「ああ!そういえば… 今朝、明るくなった頃だ… あの哀れな野郎、ジェブロルにたっぷりお礼をしなきゃな」 ≪11-12≫
この言葉の意図しない皮肉で、ルコックはあらためて残念に思った。 ≪11-13≫
「たっぷりお礼をね... 全くです!」と彼は同意した。 ≪11-14≫
「そうだよ。あんたは面白がってるようだけど、ジェヴロルがいなければ、彼は轢かれていたね」 ≪11-15≫
※ 主任はルコック相手にvousで話している。
「で、その酔っ払いは、どうなりました?」 ≪11-16≫
派出所主任は肩をすくめた。 ≪11-17≫
「ああ!…さあて!…」と彼は答えた。「ずいぶん細かく聞くね!根は実直そうな男だったよ。友人の家で夜を明かし、表へ出た途端に冷たい空気に当てられちまったんだな。三十分ほどして酔いが覚めると、そう説明していた。いや、あんなに決まり悪そうにしている男は見たことがない。泣き出しそうになって、こう繰り返してた。『一家の主が、この年になって!……情けない!…家内は何と言うだろう!…子供たちだってどう思うだろう!…』」 ≪11-18≫
※ l'air a étourdi: (以下は未確認のGemini註釈) 酒を飲んで外の冷たい空気に触れた途端に酔いが回る、フランスでよく使われる言い訳。暖房の効いた締め切った部屋でワインを飲み、急に凍てつく冬の外気に触れると、血管の収縮や刺激で一気に酔いが回ったり、脳貧血を起こしたりするらしい。
「奥さんのことをたくさん話してた?」 ≪11-19≫
「彼女のことばかりだった… 名前も言ってたな… ユードシー、レオカディー… そんな名前を繰り返していた。かわいそうなオッサンは、罪を犯したので、刑務所に入れられると思っていた。家に使いを出してくれ、と頼まれたよ。釈放を告げたら、喜びのあまり気が狂ってしまうかと思ったほどで、俺たちの手にキスをして…そして、さっさと逃げ帰った!… そう!一目散にね!」 ≪11-20≫
※ Eudoxie, Léocadie: (以下は未確認のGemini註釈) これらは当時としても少し古風、あるいは田舎めいた、いかにも「善良な市民の妻」を連想させる名前。
※ il ne demandait pas son reste(残りをもらおうとしない) : 慣用句。意味は「状況が悪化したり、追及されたりする前に、チャンスを逃さずそそくさとその場を去る」「(厄介なことになる前に)一目散に立ち去る」「後ろをも見ずに逃げ出す」
運命は、さらに皮肉な嘲笑を用意していた。 ≪11-21≫
「そして、あなたはそいつを殺人犯と同じ房に入れたのですね?」とルコックは尋ねた。 ≪11-22≫
「当たり前じゃないか」 ≪11-23≫
「二人は話をしましたね」 ≪11-24≫
「話したって!……それどころか! オッサンは酔っていたんだ、何度も言うが、ろれつも回らないほど酔い潰れていたんだ。『パン』の一言も言えないくらいだった。豚箱に放り込んだら、バタン!……丸太棒みたいに転がった。目が覚めたら、すぐ追い出したからな… いいや、二人は話などしていない」≪11-25≫
※ dire "pain": 最も日常的に使う簡単な言葉さえ発せなかったという比喩。
若い刑事は考え込んだ。 ≪11-26≫
「そういうことか」と彼は呟いた。 ≪11-27≫
「何か言った?」 ≪11-28≫
「何も」 ≪11-29≫
ルコックは、自分の考えを派出所主任に伝えるつもりは全くなかった。決して愉快な話ではなかったからだ… ≪11-30≫
「僕にはわかっていた」と彼は思った。「この酔っ払いこそ、あの共犯者であり、大胆で冷静、そして恐ろしく巧妙な男だ。僕たちが足跡を追っている間、奴は僕たちを監視していた。僕たちが現場を離れると、あえて奴は酒場に乗り込んだ。そしてここで捕まるよう仕向けた。子供騙しの単純な上手いトリックを使って、殺人犯と話すことになんとか成功した。自分の役を完璧に演じきったんだ!... 酔っ払いを知り尽くしているパリの警官さえも騙した!... だが、奴が芝居をしたと分かっただけでも、何かにはなる… 言った事をすべて逆に取るべきだろう… 家族、妻、子供たちの話をした…つまり、奴には子供も妻も家族もいないのだ…」 ≪11-31≫
※ sergents de ville: (以下は未確認のGemini訳註)1829年に創設された、パリ市独自の制服警官。兵士ではなく、文民の警官。二角帽子に、サーベルを腰に下げた紺色の軍服風コートが特徴で、夜間はランタンを持ってパトロールを行っていた。1870年にGarde de la paixに名称変更する。対して、Gendarmeは国防省に所属する国家憲兵。身分は軍人。主に地方や街道の警備、軍隊の規律維持を担う。
そこで思考をやめ、我に返った。今は憶測にふける時ではない。 ≪11-32≫
「ところで」と彼は声を上げた。「その酔っ払いはどんな様子でした?」 ≪11-33≫
「背が高く、太ったおやじで、赤ら顔、白いもみあげ、でかい顔、小さな目、獅子鼻、間抜けだが陽気そうな…… ジョクリス(お人好しの阿呆)みたいな感じだった。 ≪11-34≫
※ Jocrisse: 16-17世紀の古典演劇や人形劇の登場人物。お人好しで、愚鈍で、不器用な使用人のイメージ。外見はだらしなく、いつも口を半開きにしているような、いわゆる「愛すべきバカ」として描かれる。画像はこちら→French Vocabulary Illustrated: jocrisse
「何歳くらいでした?」 ≪11-35≫
「四十から五十歳の間だな」 ≪11-36≫
「その男の職業は見当がつきますか?」 ≪11-37≫
「さあてな!……鳥打帽をかぶって、茶色の大きなマクファーレン・コートを羽織ったオッサンだったから、小商いか、さもなきゃ事務員ってところか」 ≪11-38≫
※ mac-farlane: 以下のサイトでこの語の初出はフランス1859年とあった。とするとココは結構早い用例である。袖がなく、肩にケープが付いた外套。インヴァネス(1870年ごろロンドンで流行)に似ている。スコットランドのマクファーレンが考案したようだ。画像もあり→Nomenclatura del traje y la moda: MACFARLANE / ULSTER / INVERNESS | VESTUARIO ESCÉNICO
※ employé(事務員): (以下は未確認のGemini訳註)固定給の職員のニュアンス。あまり偉くない事務員、公務員の末端など、中産階級の下層(プチ・ブルジョワ)を指すことが多い。
このかなり正確な人相風体が得られたことは、ひとまずの収穫だ。ルコックはそのまま警備詰所に入ろうとしたが、ある考えで足が止まった。 ≪11-39≫
「少なくとも」と彼は言った。「あの酔っ払いがシュパン婆と連絡を取ってなくて良かった!…」 ≪11-40≫
派出所主任は爆笑した。 ≪11-41≫
「おいおい!… そんなことできるかい!…」と彼は返した。「あの婆さんは自分の牢獄にいた!… 全く、あの性悪女!大変だったぜ。叫んだり罵ったりをやめたのは、ほんの一時間前だ。いや!... あんなおぞましい、忌まわしい罵詈雑言は、今まで聞いたことがない。派出所の石畳だって赤面するよ。あの酔っ払いも、度を失って、覗き窓から女に黙るよう言ってたくらいだ...」 ≪11-42≫
※ judas(覗き窓): 牢屋の扉にある小さな監視窓。裏切り者ユダに由来。
若い刑事の凄まじい身振りで、派出所主任は急に話をやめた。 ≪11-43≫
「どうした一体?」と彼は口ごもった。「怒っているのか… 何だよ?」 ≪11-44≫
「それは」ルコックは激しい怒りで震えた。「それは…」 ≪11-45≫
怒りの本当の理由を吐き出したくなかったので、囚人を見に行くと言って派出所に入った。 ≪11-46≫
一人残された派出所主任は、今度は自分が毒づく番だった。 ≪11-47≫
「 治安局の『未熟もの』はあんなのばっかりだ」と彼はうなった。「あいつらは質問し、聞きたいことを何でも聞き出す。でも、こっちが何か尋ねると『何も』『それは』としか答えない!… ふざけやがって! … 奴らは恵まれていて、それで傲慢になっている。警備も制服もなくて自由だ… だが、あいつめ、どこへ行った?」 ≪11-48≫
※ cocos(未熟もの): 語源はcoque(殻)らしい。 ≪11-48≫
警備の者が囚人を監視するために使う覗き窓に目をくっつけて、ルコックは殺人犯を貪るように観察した。 ≪11-49≫
数時間前に『胡椒入れ』で見たのと同じ人物なのかと疑うほどだった。あの時は、連絡通路のの敷居に立ちはだかって巡回隊を威圧し、憎悪の炎を燃やし、誇り高く額を上げ、目を輝かせ、唇を震わせていたというのに… ≪11-50≫
今、彼の全身から感じられるのは、見るも無惨な虚脱、自暴自棄、思考の混濁、放心、そして絶望だった。 ≪11-51≫
彼は、覗き窓の正面の粗末なベンチに座り、両肘を膝につき、あごを手に乗せ、目一点を凝視したまま、口元を垂らしていた。 ≪11-52≫
「いや」ルコックは呟いた。「いや、この男を見た目で判断してはいけない」 ≪11-53≫
観察は十分に済んだ。次は話しかけたくなった。彼が房に入ると、男は顔を上げ、感情の無い目で彼を見つめたが、一言も発しなかった。 ≪11-54≫
「さて!…」若い刑事が尋ねた。「どんな調子?」 ≪11-55≫
「俺は無実だ!」男は嗄れた声で答えた。 ≪11-56≫
「そうだといいね…でもそれは判事が決めることだ。僕は、何か必要なものはないか聞きに来たんだ」 ≪11-57≫
「無い!」 ≪11-58≫
その瞬間、殺人犯は考え直した。 ≪11-59≫
「やっぱり」と彼は付け加えた。「何か少し食べて、ついでにワインを一杯飲みたい」 ≪11-60≫
「すぐに持ってくる」とルコックは答えた。 ≪11-61≫
早速、彼は外に出た。近所で食料を買いに走る間も、ルコックはある考えを確信していた。一度は拒絶しながら改めて飲み物を求めたのは、自分が演じようとしている役柄に、より「それっぽさ」を持たせるための計算ではないか… ≪11-62≫
いずれにせよ、殺人犯は実においしそうに食事をした。それから大きなグラスにワインを注き、ゆっくりと飲み干して、言った。 ≪11-63≫
「うまい!… 五臓六腑にしみわたる」 ≪11-64≫
※ Ça fait du bien où ça passe. それが通る場所(喉や胃)が気持ちよくなる、という表現。いかにも庶民・労働者が使う感じ。
満足している様子は、若い刑事を大いに落胆させた。この男を試すために、関所外地帯で造られている、青ざめて濁り、濃厚で悪臭を放つ、あの忌まわしい代物のひとつを選んでいた。たぶん殺人犯は吐き気を催すのでは、と期待していたのだ... ≪11-65≫
だが全然だめだった!…しかし、この事から結論を導いている暇はなかった。外で車輪がガタガタいう音がして、警視庁の馬車の到着を知らせた。陰鬱な車両で「水切り用サラダ籠(区画付き)」というあだ名で呼ばれていた。 ≪11-66≫
※ panier à salade à compartiments: 水切りのためのサラダ籠、それに仕切りがついたイメージだろう。水切り用サラダ籠(panier à salade)の画像を見つけた。

そこへ、シュパン後家を運び入れねばならなかった。彼女はあらん限りの力で暴れまわり、「ひとごろし!」と絶叫した。続いて、殺人犯も乗り込むよう促された。 ≪11-67≫
ここで、男が少なくとも何らかの嫌悪を示すだろうと、若い刑事は期待し、注目していた…… しかし、何の反応もない。その男はごく自然に、その忌まわしい馬車に乗り込み、慣れた様子で自分の収容区画に陣取った。内部を把握していて、狭い空間でどの位置が良いかを知っている態度だった。 ≪11-68≫
「まったく!こいつは手強い!…」と、ルコックは悔しそうに呟いた。「次は警視庁だ。そこで奴と決着だ」 ≪11-69≫
※ 初出紙の連載第17回目(1868-6-12)の終わり
(つづく)
コメント欄を設けました。別ページに飛びます。
https://danjuurockandroll.hateblo.jp/entry/2026/02/05/013007
コメントは承認制です。