十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載15 (第1部第10章)

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Alcide Babert de Juillé, circa 1860, juge d'instruction à Niort. (1860年ごろ、ニオールの予審判事) 予審判事の服装である黒いローブ、帽子(Toque)、首元の白い掛け襟(Rabat)が写っている。

X

『胡椒入れ』にいた者で、到着した予審判事の顔に見覚えがない者はいなかった。パリ司法宮の古株であるジェヴロルは、その名を呟いた。
「モーリス・デスコルヴァル殿だ」 ≪10-1≫
※ Palais de Justice: パリ・シテ島に位置する、フランス司法の総本山。中世の王宮を転用・拡張した巨大建築群。Palaisを「司法宮」と訳す。

彼は、一八一五年に帝国への献身ゆえに命を落としかけた、かの有名なデスコルヴァル男爵---ナポレオンがセントヘレナ島で、次のような見事な賛辞を贈った人物---の息子であった。 ≪10-2≫

「彼ほど誠実な男は他にもいるだろう。だが、彼以上に誠実な男は存在しない」 ≪10-3≫

若くして司法界に入り、卓越した才能に恵まれたデスコルヴァル殿は、最高の地位への出世が約束されているかに見えた。しかし、彼は、セーヌ県裁判所で地味ながらも有益な職務に留まるため、提供されたあらゆる地位を頑なに拒否し続け、周囲の予想を裏切った。 ≪10-4≫
※ セーヌ県裁判所(Tribunal de la Seine):  パレ・ド・ジュスティス内に置かれていた、当時世界で最も多忙と言われた第一審裁判所。パリ市および周辺(旧セーヌ県)の全案件を管轄し、民事・刑事の両方を扱った。

彼はその固辞の理由を、羨望の的となる昇進よりも、パリ生活の継続を望んでいるからだと説明していたが、その情熱はあまり理解されなかった。実際、長兄の死以来、輝かしい人脈と莫大な財産を手にしていたにもかかわらず、彼は世俗を離れた極めて静かな暮らしを送っていた。私生活を隠していて、黙々と仕事に打ち込む姿と、周囲へ施す善行によってのみ、その存在を知らしめていた。 ≪10-5≫

当時四十二歳の彼は、額のあたりが薄くなってきていたものの、実年齢より若く見えた。 ≪10-6≫
※ 「ルコックへの助走: 2. ルコック年代記(私案)」参照。

不気味なほど無表情で、薄すぎる唇の端には皮肉な皺が刻まれ、そして淡い青色の瞳は陰鬱だった。それらさえ無ければ、人々はその容貌を賞賛しただろう。 ≪10-7≫

彼を冷静沈着で厳格だと言うだけでは、不正確であり、不十分すぎた。彼は厳格さと冷徹さそのものであり、他人を見くだす高慢な態度さえ感じられた。 ≪10-8≫

酒場の敷居で、凄まじい光景に気圧され、デスコルヴァル殿は医師たちと署長だけに、辛うじて儀礼的な挨拶をした。彼にとって、他の者たちは重要ではなかった。 ≪10-9≫

すでに彼の全感覚が働いていた。彼は、細部の重みと外部の状況が持つ雄弁さを知り抜いた判事特有の鋭い洞察力で、些細な品々のひとつひとつに眼を止め、現場を精査していた。 ≪10-10≫

「これは重大だ!……」ついに彼は言った。「極めて重大だ!……」 ≪10-11≫

警察署長は、その答えとして、天に向かって両手をあげた。その身振りは、彼の心中を物語っていた。≪10-12≫

「おっしゃる通りです!…」 ≪10-13≫

事実、この二時間、真面目な署長は自分の責任の重さにひどく苦しんでおり、その責任から解放してくれる司法官の到着に心から安堵していた。 ≪10-14≫

「帝国検事殿は一緒に来られなかった」と、デスコルヴァル氏は続けた。「忙しいのに、彼には遍在の才が無くてね。こちらに来るのは難しそうだ。待たずに捜査を始めよう...」≪10-15≫
※ le don d'ubiquité: どこにでも現れる、という神の能力。文学的には「多忙な公人」を揶揄するインテリの気取ったセリフ。

その時まで、居並ぶ人々は好奇心でいっぱいだったが、報われていなかった。それで署長は皆の気持ちを代弁してこう言った。 ≪10-16≫

「予審判事殿はきっと犯人を尋問したはずで、何かご存知と思いますが…」 ≪10-17≫

「何も知らんよ」その質問がとても心外だと言う様子で、デスコルヴァル殿は相手の発言を遮った。 ≪10-18≫

そう言い捨てると、彼は椅子に腰を下ろした。書記官が現場検証調書の前文を書き留めている間、彼はルコックの書き上げた報告書に目を通し始めた。 ≪10-19≫

暗がりに身を潜めた若い刑事は、顔を蒼白にし、興奮に身を震わせながら、司法官の冷徹な仮面の下に、報告書が与える微かな印象を読み取ろうと必死に目を凝らしていた。 ≪10-20≫

今、彼の将来が決まるのだ。肯定か否定か、その反応に懸かっていた。 ≪10-21≫

だが、今回の相手は、アプサント親父のような鈍い知性ではなく、卓越した洞察力であった。 ≪10-22≫

「せめて」と彼は思った。「自分の言葉で弁明できれば!…… 書かれた文章など、声に出し、身振りを添え、語る者の感情と確信が脈打つ生きた言葉に比べれば、一体何ほどになるだろう……」 ≪10-23≫

だが、間もなく彼は安堵した。 ≪10-24≫

予審判事の表情は相変わらず動かなかったが、同意を示すように何度か頷き、他よりも独創的な細部の指摘に、ときおり、思わず感嘆を漏らしていた。「悪くない!……実に見事だ!……」 ≪10-25≫

読み終わると、≪10-26≫

「このすべては」彼はそこで署長に言った。「今朝のあなたの報告書とは似ても似つかない。あれは、この不可解な事件を、しがない浮浪者同士の小競り合いのように片付けていた」 ≪10-27≫

その指摘は実に的を射ていた。署長は暖かなベッドに留まり、すべてをジェヴロルに任せてしまったことを後悔していた。 ≪10-28≫

「今朝のは」彼は言葉を濁しながら答えた。「最初の印象をまとめただけでした...その後の調査によって事態が変わりまして...」 ≪10-29≫

「おっと、」判事は遮った。「何もあなたを責めているわけではない。それどころか、称賛の言葉しか見当たらない。これ以上なく迅速かつ見事な行動だ。この報告書には深い洞察が満ちており、何よりその結果が、稀に見る明快さと正確さで記述されている」 ≪10-30≫

ルコックは、まばゆい光で目がくらみ、昇天した。 ≪10-31≫

一方、署長は一瞬ためらった。 ≪10-32≫

その称賛を自分の手柄にしたいという誘惑に駆られたのだ。 ≪10-33≫

それを退けたのは、彼自身が誠実な男だったからだろう。加えて、増長したジェヴロルの軽率さを懲らしめるために、一泡吹かせてやりたいという思いもあったろう。 ≪10-34≫

「白状せねばなりません」彼はついに言った。「この調査の功績は、私にあるのではないのです」 ≪10-35≫

「では、誰の功績だろう、 治安局所属の警部以外に考えられないが…」 ≪10-36≫

デスコルヴァル殿はそう考えたが、少なからず驚いた。以前ジェヴロルを仕事で使ったことがあったので、この報告書に見られる独創性、とりわけその文体が、あの男から生まれるなどとは全く思えなかったのだ。 ≪10-37≫

「ならば、この事件を」と彼は警部に尋ねた。「これほど鮮やかに指揮したのは、君だったのか?」 ≪10-38≫

「とんでもない!……」警視庁の男は答えた。「そこまでの知恵はありませんよ!……私は見つけたら、そのまま報告して、『ほら、これだ』と言うだけです。この報告書にある妄想の数々が、書いた本人の脳みその外に実在するなら、喜んで首を吊られましょう…… 全く、ふざけたオハナシだ!」 ≪10-39≫

おそらく、彼は本気でそう思っていた。自尊心で盲目となり、証拠で目が破裂しても、なお事実を否定せずにはいられない類の人間だったのだ。 ≪10-40≫

「しかしだね」判事は言葉を重ねた。「ここに足跡が残っている女たちは、確かに存在した!… 梁に羊毛の繊維を残した共犯者も、実在だ…… このイヤリングも、厳然と残る、形ある証拠だ…」 ≪10-41≫

ジェヴロルは肩をすくめないよう必死に耐えた。 ≪10-42≫
※ hausser les épaules(肩をすくめる): 相手の意見を「話にならない」「くだらない」と軽んじる際に見せる仕草。

「全部説明がつきます」彼は言った。「14時に12時を探す(わざわざ物事を複雑に考える)必要はないんです。人殺しに共犯者がいた……それはあり得るでしょう。女たちがいたのも当然です。悪党がいれば、決まってそこに女泥棒もいる。ダイヤは何の証明でしょう? 奴らが一仕事終えて、盗品を分配しようとした。だが、その分け前を巡って喧嘩が始まった…… ただそれだけのことです」 ≪10-43≫
※ chercher midi à quatorze heures: 「14時に12時を探す」有名な慣用句で「明白なことをわざわざ難しく考える」「深読みしすぎる」という意味。

それは一つの説明ではあった。しかも妙に説得力があったため、デスコルヴァル氏は沈黙し、決断を下す前に自らの考えを整理した。 ≪10-44≫

「やはり」と彼はついに宣言した。「私は報告書の説を採用する...  作成者は誰だ?」 ≪10-45≫

怒りでジェヴロルはオマール海老のように真っ赤になっていた。 ≪10-46≫

「作成者は」と彼は言った。「ここにいる部下の一人、有能で如才ないルコック殿です!…さあ、知恵者、こっちへ来て、みんなに顔を見せてやれ...」 ≪10-47≫

若い刑事は、俗に「ハート型の口」と呼ばれる、満足げな微笑みを浮かべて、唇を引き締めて前に進んだ。 ≪10-48≫
※ la bouche en coeur: (以下、未確認のGemini註釈) 当時は「お褒めに預かって、悦に浸っている顔」「得意げに口をすぼめた顔」を指す。

「閣下、私の報告書は概略に過ぎません」彼は口を開いた。「他にもいくつか確信していることがありまして…」 ≪10-49≫

「君は私が尋ねた時だけ答えればいい」と判事は遮った。 ≪10-50≫

そして、ルコックの落胆を気にもかけず、書記官の書類入れから二枚の書式を取り出し、記入してジェヴロルに手渡しながら言った。 ≪10-51≫

「ここに二通の勾留状がある。現在拘束されている派出所から、被疑者とこの酒場の女将を引き取り、警視庁へ連行せよ。そこで両名を接見禁止に付すのだ」 ≪10-52≫
※ mandat de dépôt(勾留状): 逮捕された者を刑務所や拘置所に留めるための正式な令状。
※ au secret(接見禁止/外部遮断): 外部との連絡を一切絶ち、独房に入れること。共犯者との口裏合わせを防ぐための強力な措置。

命令を下すと、デスコルヴァル殿はすぐ医師たちの方へ向き直った。そこへ若い刑事が、再び冷たくあしらわれるのを覚悟の上で、割って入った。 ≪10-53≫

「判事殿、恐れいります」と彼は問いかけた。「その任務を私にお任せいただけないでしょうか?」 ≪10-54≫

「無理だ。君はここで必要になるかもしれない」 ≪10-55≫

「ですが閣下、ある手がかりを掴むために、二度とない機会を逃したくないのです…」 ≪10-56≫

予審判事は、若い捜査官の真意を察したようであった。 ≪10-57≫

「ならば行け」と彼は答えた。「ただしその場合、私がここの検証を終え、警視庁へ向かうまでそこで待機しているのだ。……さあ、行け!」 ≪10-58≫

ルコックは許可を二度と言わせなかった。令状をひっ掴むと、戸外へと飛び出した。 ≪10-59≫

彼は走っていたのではない、荒れ地を飛んでいた。夜の疲れは、もはやまったく感じなかった。これほど体が軽快で、精神が明晰で、頭が冴えていると感じたことはかつてなかった。 ≪10-60≫

彼は希望に燃え、自信を深めていた。もし、相手が全く違う予審判事であったなら、この上ない幸福に浸っていただろう。 ≪10-61≫

デスコルヴァル殿は彼を気後れさせ、凍りつかせ、その能力を麻痺させかけた。ついさっき彼の仕事を称賛したばかりなのに、なんと軽蔑的な態度で彼を見下ろし、なんと命令的な口調で彼に沈黙を命じたことか。 ≪10-62≫

「まあ、いいさ!…」と彼は自分に言い聞かせた。「この世に完璧な喜びなど存在しない!」 ≪10-63≫

そして彼は走り続けた... ≪10-64≫

※ 初出紙の連載第16回目(1868-6-11)の終わり

(つづく)
 
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