十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載12 (第1部第8章の2)

米国?無声映画 Monsieur Lecoq (1915) 提供Edwin Thanhouser、出演 William Morris (ルコック)、Alphonse Ethier、Florence La Badieなど。この場面は、本日のあたりか、第九章、第十章の場面だろうか。プリントは残っていないようだ。

確かに、やって来たのは警察署長だった。彼は、自分の管轄区域で起きた三重殺人事件にそれなりに心を砕いていたが、さして深刻には捉えていなかった。 ≪8-30≫
※ commissaire de police: (以下、未確認のGemini説) 当時は、内務省の直接任命を受ける行政官であり、多くの場合、法学士(Licence en droit)の学位を持つインテリ層や、地方の裕福なブルジョワジーから選ばれていた。 

彼が動揺する必要があるだろうか? ≪8-31≫

ジェヴロルは、こうした事件では一種の権威となっており、署長を起こしに行った際には、彼を安心させるようあらかじめ配慮していた。 ≪8-32≫

「これは、『胡椒入れ』の常連客同士、つまりうちのお馴染みですな… そいつらの喧嘩に過ぎません」と彼は話した。「ああいう悪党どもが共倒れしてくれれば、我々の手間もずいぶん省けますね」 ≪8-33≫

殺人犯はすでに逮捕し、牢屋にぶち込んでおり、この事件に緊急性は全くない、とも告げていた。 ≪8-34≫

さらに、この犯罪の動機は窃盗ではない、と報告しており、間違いの可能性は全くなさそうだった。この一点は非常に重要である。この頃の警察は、身体への攻撃よりも、財産への侵害の方を、より重く懸念するようになっていた。それは当然のことだった。この時代には、情熱の力に変わって、物欲の策略が幅をきかせ、大胆な悪党は稀になり、臆病なペテン師がはびこっていたのだから。 ≪8-35≫

そういう訳で、署長は、夜明けを待ってから通り一遍の調査を行なっても、何ら差し支えはないと考えていた。 ≪8-36≫

彼はすでに殺人犯に会い、検察への通報も終え、そして今、さして急ぎもせず、帝国検事から検死のために派遣された二人の医師を伴ってやって来たのである。 ≪8-37≫
※ le parquet(検察局): (以下も未確認のGemini訳注) 原義は「床」、かつての法廷で検察官が裁判官の座る壇上(Siège)ではなく、床に立って弁論したことに由来する。ナポレオン体制下で整備された制度。警察の捜査を指揮・監督する強い権限を持つ機関。
※ le procureur impérial(帝国検事): 共和制ではProcureur de la Républiqueという。(以下も未確認のGemini訳注) その地区の parquet を代表する人物。主要な都市の各裁判所に配属されている検察局の責任者。
※ 事件に対する検事と裁判所の動き: (以下も未確認のGemini訳注) 
(1) Procureur(検事)が、警察から報告を受け、重大事件と判断すると、裁判所に対して「予審を開始せよ」という正式な要求(réquisitoire introductif)を出す。
(2) 裁判所長が、所属する判事の中から「この事件の担当は君だ」と予審判事を一人指名する。

また、軍服の死者を特定する場合を想定して、彼が要請した第五十三歩兵連隊の戦列軽歩兵である先任軍曹も同行していた。外套のボタンの数字で判断するなら、男は、当時防壁の堡塁に駐屯していた第五十三連隊所属と思われた。 ≪8-38≫
※ un sergent-major de voltigeurs du 53e de ligne: (以下も未確認のGemini訳注)
(1) Sergent-major: 「中隊先任軍曹」、中隊(約100〜150人)の中で最も上位の軍曹(Sergent)で、主に中隊の事務経理や人事を担当する、いわば「中隊の事務方トップ」。ここで登場するのは、中隊の兵士の名簿や顔をすべて把握している「身元確認に最適な人物」だからだろう。
(2) Voltigeurs: ナポレオン時代に創設された「戦列軽歩兵」、歩兵連隊の中の「エリート選抜中隊」の一つ。一般歩兵よりも小柄、敏捷、機転が利く者が選ばれ、散兵戦(最前線でのゲリラ戦のようなもの)を得意とする。
(3) 53e de ligne(第53戦列歩兵連隊): 当時の歩兵は、大きく分けて「戦列歩兵(主力)」と「軽歩兵(身軽な部隊)」に分かれる。

治安局警部の方は、署長以上に全く平気な顔だった。 ≪8-39≫

手放したことのない杖をくるくると回しながら、口笛を吹き、あの生意気な若造の無様な失敗を想像してほくそ笑んでいた。何一つ収穫など見込めない場所で、落ち穂拾いを試みた傲慢な鼻をあかしてやる。 ≪8-40≫

声の届く距離に来るなり、彼はアプサント親父に声をかけた。親父はルコックに知らせた後、戸口の柱にもたれ、パイプを規則正しく吸っては吐いて、煙を燻らすスフィンクスのようにじっと動かずにいた。 ≪8-41≫

「おい!… じいさん」ジェヴロルは叫んだ。「闇もたっぷり、謎もたっぷりの壮大なメロドラマを聞かせてくれるか?」 ≪8-42≫
※ vieux: この語での呼びかけは、ここと≪35-40≫のみ。それほど乱暴でもないようだ。 「じいさん」と訳した。

「俺の方は話すことなんて何もないよ」親父はくわえたパイプを口から離さずに答えた。「俺は頭が悪いからな、それは皆知ってる… でも、ルコック殿は、あんたがたが思いもよらないことを教えてくれるかもしれません」 ≪8-43≫
※ Monsieur: なんとMonsieurがタイトルについているこの小説で、monsieur という語は≪1-156≫(「ジェヴロルの旦那」)以外、ここまで使われていない。ここが二回目の登場なのだ。ガボリオは大事に取っておいたのだろう。本訳では、基本的に、やや古風な「殿」と訳す。

この称号「殿」は、古参の治安局捜査官が相棒を称えようと用いたものだったが、ジェヴロルはそれを非常に不快に思い、理解しようとさえしなかった。 ≪8-44≫

「そりゃ誰だ…」と彼は言った。「誰のことを言ってる?」 ≪8-45≫

「俺の相棒だよ、もちろん!… 今、報告書を仕上げているルコック殿のことだ」 ≪8-46≫

悪気などはちっともなかったのだが、親父は若い刑事の名付け親となった。この日から、敵も味方も、彼をルコック殿と呼ぶようになった。M. と略さず、一字一字綴る ムッシュー(Monsieur) である。 ≪8-47≫
※ Monsieur, en toutes lettres.: Monsieur Lecoq がブランドになった、という意味だろう、とGeminiが言っていた。未確認。

「ほ、ほう!」と警部は言った。嫌な予感にはっきり眉をひそめた。「ほう!何か見つけやがったな… 」≪8-48≫

「他の連中が嗅ぎつけられなかった真相を… ええ、将軍、まさにその通り」 ≪8-49≫

この一言で、アプサント親父は上役を完全に敵に回した。だが、彼はルコックに魅せられていた。何があろうとルコックの味方となり、誰を敵にしようとも、彼に付き従い、運命を共にする覚悟を固めていた。 ≪8-50≫

「ふん、どうだかな!」と警部は唸った。彼は心に誓った。この若造を監視下に置こう。もし成功したら、自分を脅かすライバルになりかねない。 ≪8-51≫

それ以上、言い足せなかった。案内して来た集団が到着したので、警察署長に道を譲るために身を引いた。 ≪8-52≫

この署長は、新米ではなかった。彼は、エピ・シエやキャトル・ビヤールの全盛期に、フォーブール・デュ・テンプル地区で制服警官隊を指揮していた。しかし、『胡椒入れ』の部屋に入ったとき、彼は戦慄を抑えることができなかった。 ≪8-53≫
※ officier de paix: gardien de la paix(sergents de villesと同義?1829年設立の地域の制服警官)を指導監督する職員。
※ Faubourg du Temple: 未調査。往時は最悪の治安だったようだ。
※ Épi-Scié: 調べつかず。架空の酒場か?
※ Quatre-Billards: 調べつかず。架空の酒場か?

彼に続いた第五十三連隊の先任軍曹は、勲章を授与され勤続章を付けた老兵であったが、さらに強い衝撃を受けていた。彼は、床に横たわる死体と同じほどに青ざめ、壁に寄りかかって身を支えるほかなかった。 ≪8-54≫

二人の医師だけが平然としていた。 ≪8-55≫

ルコックは報告書を手に立ち上がり、敬礼をした。そして姿勢を正して控え、質問を待った。 ≪8-56≫

「恐ろしい夜を過ごされたことでしょう」と署長は優しく言った。「でも、司法の役には立たなかった。何しろ、あらゆる調査は無用だったのだから……」 ≪8-57≫

「いえ、時間を無駄にしたとは思いません」若い刑事は外交官のように抜かりない態度で答えた。「上司の指示を遵守し、調査を進めた結果、多くのことを発見しました... たとえば、殺人犯には友人、少なくとも共犯者がいることは確かです。その特徴もほぼ把握しました... おそらく年配で、私の見立てが正しければ、柔らかい平打ち帽に、茶色の厚手のラシャのコート。ブーツについては...」 ≪8-58≫

「なんだと!」とジェヴロルは叫んだ。「じゃあ俺がさっき...」 ≪8-59≫

彼はすぐに言葉を呑み込んだ。考えるより先に思わず言葉を漏らしたので、自分の発言を撤回したくてたまらない、という様子だった。 ≪8-60≫

「で、あなたがさっき?… 」署長が尋ねた。「何のことです?」 ≪8-61≫

怒り狂っていたが、もはや引けない状況だと悟り、治安局警部は観念した。 ≪8-62≫

「事の次第はこうです」と彼は言った。「今朝、一時間ほど前、署長殿をお待ちしてイタリア関所の派出所の前にいました。そこはあの殺人犯が留置されているのですが、ふと見ると、さきほどルコックが話した特徴と、似てないこともない男が遠くからやって来ます。その男はひどく酔っ払っているようで、よろめき、つまずき、壁にぶつかって歩いていました。道路を横断しようとしましたが、真ん中に来たところで寝転んでしまい、今にも轢き殺されかねない様子でした」 ≪8-63≫

ルコックは顔を背けた。すべてを察したが、それを自分の目から読み取られたくなかった。 ≪8-64≫

「それを見て」ジェヴロルは続けた。「私は巡査二人を呼び、奴を起こすのを手伝わせました。近寄ると寝入っているようでしたが、揺さぶると男が身を起こしたので、ここにいてはいけないと諭すと、奴は突然逆上し、我々を罵り、脅し、殴ろうとしたのです…… 全く、どうも!… それでやむなく、安全な場所で酔いを覚まさせようと、派出所へ連行したのです」 ≪8-65≫

「で、その男を殺人犯と同じところに収容したんですね?」とルコックが尋ねた。 ≪8-66≫

「当たり前だ… イタリア関所の派出所には、男用と女用、二つの豚箱しかないと、お前も良く知ってるくせに。だから…」 ≪8-67≫
※ violon: 鉄格子を弦に見立てて「豚箱」のこと。

署長は考え込んだ。 ≪8-68≫

「ああ!… それはまずい」と彼は呟いた。「…もう手遅れだ」 ≪8-69≫

「失礼ですが!……手はあります」ジェヴロールが反論した。「部下を派出所へ行かせ、あの偽酔っ払いをそのまま留置しておくよう命じれば……」 ≪8-70≫

若い刑事は、身振りで彼の言葉をあえて遮った。 ≪8-71≫

「無駄です」と彼は冷たく言った。「その男が共犯者なら、もう酔いは覚めているでしょう。お静かに。今頃、とっくに遠くへ逃げています」 ≪8-72≫

「なら……どうしろと?」警部は皮肉たっぷりの口調で尋ねた。「ご意見をお伺いしてもよろしいですかな… ルコック殿?」 ≪8-73≫

「せっかくの絶好の機会を、私たちは逃してしまった。そう考えています。今はもう諦めて、次の機会を待つのが最善でしょう」 ≪8-74≫

それでも結局、ジェヴロルは意地になって部下の一人を急行させた。部下が遠ざかるまで、ルコックは報告書の読み上げを待つことになった。 ≪8-75≫

彼は淀みなく読み上げた。決定的な事実はあえて強調せず、自分だけの確信は後の取り調べのためにとっておいた。しかし、その演繹推理があまりに理路整然としていたため、署長は幾度も頷き、医師たちからは「実に見事だ!」と称賛の声が上がって、そのたびに中断されるほどだった。 ≪8-76≫
※ déductions: ここも「演繹推理」とした。本書では全部で11か所ある。なお、『ルルージュ事件』では、この語は使われていない。

ひとりジェヴロルだけが、反対意見を表明し、首が外れるほど肩をすくめ、嫉妬で顔を緑色にしていた。 ≪8-77≫
※ verdissant: 「どす黒い(Gemini案)」なのか「青白い」のか、色がよくわからない。原語の「緑」を残した。

報告が終わった。 ≪8-78≫

「お若い方」署長はルコックに言った。「この件に関しては、君だけが正しく事態を見ていたようだ… 私は間違っていた。だが、君の説明を聞いて、先ほど尋問した時の殺人犯の態度が、ようやく腑に落ちたよ。彼は、そう… 実に頑なに黙秘を貫いていた。自分の名前すら明かそうとしないのだ…」 ≪8-79≫

彼は少し黙り、数々な過去の事件を思い返しつつ、思索にふけった口調で付け加えた。 ≪8-80≫

「賭けてもいいが、これは、人間の洞察力など到底及ばない、不可解な動機を孕んだ謎の犯罪だ… 司法がけっして真相を暴けぬような、深遠な事件の一つだよ……」 ≪8-81≫

ルコックは、かすかな笑みを隠した。 ≪8-82≫

「ふうん!」と彼は思った。「今にわかりますよ!…」 ≪8-83≫

※ 初出紙の連載第13回目(1868-6-8)の終わり

 

(つづく)
 


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