
英訳 Pearson New York (出版年不詳) の扉絵。≪4-63≫の場面。
VII
『胡椒入れ』からシュヴァルレ通りまでは、回り道を避け「広場」を通っても、かなりの距離がある。 ≪7-1≫
ルコックとその年上の同僚が、外で情報を集めるのにかかった時間は、四時間以上に及んだ。 ≪7-2≫
その間ずっと、シュパン後家の酒場は大きく開け放たれたまま、誰でも自由に出入りできる状態だった。 ≪7-3≫
しかし、若い刑事が戻ってきて、ごく当たり前の用心を忘れていたことに気づいたときも、彼はそれを気にかけなかった。 ≪7-4≫
ちょっと考えてみたが、この不注意が深刻な問題を引き起こすとは思えなかった。 ≪7-5≫
真夜中過ぎに、誰がこの酒場へやってくるだろう?その恐ろしい評判が、まるで見えない壁のように周囲を寄せ付けなかった。並み居る悪党どもでさえ、ここでは気が気ではなかった。下手に飲んで前後不覚にでもなったら、胡椒入れの盗人(酔っ払いを狙う泥棒)に身ぐるみ剥がされかねない。 ≪7-6≫
※ voleurs au poivrier: ≪1-45≫でガボリオが読者に説明した隠語。
それでも来るとすれば、『天弓』で夜通し遊んで帰る途中、懐にかろうじて残った数スーをたよりに、喉の渇きに任せて、ドアから漏れる明かりに引き寄せられた命知らずな御仁くらいだろう。 ≪7-7≫
※ sou: 「スー」は当時のフランスの慣習的な通貨単位。旧体制の1リーブル=20スー=240ドゥニエの名残。当時は1フラン=100サンチーム(=20スー)なので、5サンチームに相当。≪1-15≫の換算で47円。
しかし、中を一目見ただけで、最も命知らずな者であっても逃げ出すに違いない。 ≪7-8≫
一秒もかからず、若い刑事はあらゆる可能性を考えたが、アプサント親父には一言も告げなかった。 ≪7-9≫
喜びと期待に浮き足立っていた心も、次第に落ち着きを取り戻していた。いつもの冷静さに戻り、自分の振る舞いを省みると、素直に喜べない。 ≪7-10≫
見習い演説家が友人相手に弁舌を試すように、アプサント親父を相手に自分の捜査理論を試してみる。それだけなら、まだ良かった。 ≪7-11≫
ところが、彼はその優秀さで、ジェルザレム通りの古参兵を圧倒し、打ちのめした。 ≪7-12≫
立派な功績、そして稀に見る勝利!... だが親父は愚か者だった。一方、ルコックは自分が非常に賢いと思っていた... その程度のことを、威張って見せびらかせたいだろうか?... ≪7-13≫
もし、自分の実力と洞察力を結果で示したのなら、それでいい!…… だが、彼の成果とは何だ? 謎は解けたとでも? 成功は揺るがないものなのか?糸口を一つ引き出しただけで、もつれた毛糸の綛を解いたわけではない。 ≪7-14≫
その夜、刑事としての自分の行く末が決まったその時、彼は心に深く刻んだに違いない。もし、虚栄心を治せないなら、少なくともそれを隠そう、と。 ≪7-15≫
そこで彼は、非常に控えめな口調で相棒にこう言った。 ≪7-16≫
「外の仕事は終わった。次は中を片付けるのが賢明じゃないかな?… 」 ≪7-17≫
全ては、捜査官二人ががそこを離れたときと、まさに何一つ違わないままだった。一本のろうそくの煤け焦げついた芯が、黒赤い火影で、先ほどと変わらぬ無秩序と、硬直した三体の死体を浮かび上がらせていた。 ≪7-18≫
一刻の猶予も置かず、ルコックは転がった品々を一つひとつ拾い上げ、精査し始めた。中には無傷のものも混じっていたが、それはシュパン後家がタイル張りの費用を出し渋ったおかげだ。店の下のむき出しの地面が、あの客どもの足にはお似合いだよ、と彼女は思っていた。かつては農場の脱穀場のように平らだったはずのその床も、長年の月日と湿気、そして雪解けで朽ち果て、今や外の「広場」のようにぬかるんでいた。 ≪7-19≫
まず見つかったのは、野菜鉢の破片と、鉄製の大匙だった。匙は、乱闘の武器として使われたのでなければ説明がつかないほど、無残にひしゃげていた。 ≪7-20≫
おそらく、諍いの第一声が上がる直前まで、彼らは混ぜ酒を楽しんでいたのだろう。関所外地帯では定番の、水とワインと砂糖を混ぜたシロモノで「フランス風ワイン」という名で知られている。 ≪7-21≫
※ vin à la française: 1837年の用例があった。Vin sucré froid ou chaud servi dans un saladier(冷たいまたは温かい甘いワインをサラダボウルに入れて提供)。と言う事は、ここのsaladier(「野菜鉢」とした)はワイン提供用のボウルなのだろう。鉄匙は、酒を取り分けるときに使ったのか。
野菜鉢を調べ終えると、捜査官二人は質の悪い酒場のグラスを五つ集めた。どれも底が極端に厚い重たい作りで、たっぷり入りそうに見えて実は底が浅い。そのうち三つは割れており、無事だったのは二つだけだった。 ≪7-22≫
この五つのグラスにはワインが少し残っていた… 全部同じフランス風ワインだ。一目で分かったが、念のため、ルコックはそれぞれのグラスの底に残った青みがかった糖蜜のようなものに舌を触れた。 ≪7-23≫
「おや!……」彼は不安げな表情で、低く呟いた。 ≪7-24≫
すぐに彼は、ひっくり返されたテーブルの天板を次々に調べた。そのうちの一つ、暖炉と窓の間にあったテーブルには、五つのグラス、野菜鉢、そして大匙の跡がまだ湿ったまま残っていた。 ≪7-25≫
この状況は、若い刑事にとって非常に深刻なものだった。≪7-26≫
五人で和気あいあいと一つの野菜鉢の酒を空にしたことが、はっきりとした。だが、その者たちは一体誰なのか?... ≪7-27≫
「なんだ(これは)!」ルコックは声を上げた。そして今度は違う調子で繰り返した。「なんだ(そうか)!もしかすると、その二人の女は殺人犯と一緒じゃなかったのか」 ≪7-28≫
※ sur deux tons différents: 後にも使われる修辞。troisもあった。今回だけ、翻訳にちょっと内心の声を入れた。
その疑問を確かめる簡単な方法があった。違うグラスがないか、確かめるのだ。見つかったのは、他のグラスと同じ形だが、もっと小さいものが一つだけ。ブランデーを飲むのに使うものだ。 ≪7-29≫
つまり、女たちは殺人犯と一緒のテーブルではなかった。つまり、他の者たちが女たちを侮辱したから彼が戦ったわけではない。つまり... ≪7-30≫
これまでのルコックの推測はすべて水泡に帰した。自身初の大失策であり、彼は声もなく打ちひしがれていた。その時、ずっとあたりを探り続けていたアプサント親父が叫び声をあげた。 ≪7-31≫
若い刑事は振り返り、もう一人の刑事が青ざめているのを見た。≪7-32≫
「何事だ?」と彼は尋ねた。≪7-33≫
「俺たちがいない間に誰かが来てる」 ≪7-34≫
「まさか!...」 ≪7-35≫
まさかではなかった、それは事実だった。 ≪7-36≫
ジェヴロルがシュパン後家の前掛けを剥ぎ取ったとき、それを階段の段に投げ捨てたが、捜査官たちは誰もそれに触れなかった… ところが!今そのエプロンのポケットが裏返しになっている。それが証拠であり、明白な事実だった。 ≪7-37≫
若い刑事は愕然とし、その顔は引きつっていた。彼が必死に考え込んでいる様子だ。 ≪7-38≫
「いったい誰が来る?...」と彼は呟いた。「泥棒か?...それはありそうにない...」 ≪7-39≫
彼の長い沈黙にもかかわらず、老捜査官は決して口を挟まなかった。 ≪7-40≫
「ここに来た奴」と彼は声を上げた。「殺された死骸たちが番をしているこの部屋に、敢えて侵入した奴…共犯者以外の何者だと言うのか… だが、疑いだけでは足りない。確証が必要だ。確証を掴まねば。何としても、欲しい!… 」 ≪7-41≫
ああ!……彼らは長い間探し続け、一時間余りの苦労の末、ようやくジェヴロルが踏み破ったドアの前の入り乱れた無数の足跡の中から、庭を覗きに来た男のものと特徴が同じ足跡を見い出した。照合してみると、靴底の釘が描く模様が同一であることを確認した。≪7-42≫
「やはりあいつだ!」と若い刑事は言った。「僕たちを待ち伏せ、僕たちがここを離れるのを見て、奴は中に入った…しかし、なぜ?…どんな差し迫った、抗いがたい必要性が、差し迫った危険を冒す決断を奴にさせたのか?…」 ≪7-43≫
彼は相棒の手を掴み、握りつぶす勢いで強く握りしめた。 ≪7-44≫
「なぜだって?……」彼は激しく続けた。「ああ!……それは痛いほどよくわかっている。ここには、このおぞましい事件の闇を照らすはずの証拠品が、置き去りにされ、忘れられ、紛れ込んでいたのだ…… そして奴は、それを取り戻すために、奪還するために、あえて身を投じた。何ということだ、僕の落ち度、僕一人の過ちのせいで、この決定的な証拠をみすみす逃してしまった…… 自分を有能だと思い上がっていたとは!… 何という教訓だ!… ドアを閉めておくべきだった、馬鹿でも思いつくようなことなのに……」 ≪7-45≫
彼は途中でやめた。呆然と口を開けたまま立ち尽くした。その瞳は見開かれ、指は部屋の一角を指したまま震えていた。 ≪7-46≫
「どうした?」と親父は驚いて尋ねた。 ≪7-47≫
彼は答えなかった。しかし、夢遊病者のようなぎこちない動きでゆっくりと、指で指した場所へ近づき、身をかがめて、ごく小さな物体を拾い上げ、言った。 ≪7-48≫
「僕の不注意には、過ぎた報酬だ」 ≪7-49≫
※ étourderie: ≪7-5≫と同じ単語。
拾い上げたのは、宝石商がボタンと呼ぶタイプの一粒石のイヤリングだった。ダイヤモンドの大粒がひとつ、台座には、驚くほど繊細な細工が施されている…… ≪7-50≫
※ bouton: ロベール仏和にbouton d'oreille(ボタン型のイヤリング)と出ている。ググるとどうやらピアスのことらしい。
「このダイヤモンドは」しばらく観察した後、彼は言った。「少なくとも五、六千フランの価値があるはずだ」 ≪7-51≫
※ cinq ou six mille francs: ≪1-15≫の換算で五千フランは四百七十万円
「本当かい?」 ≪7-52≫
「そう断言してもいいと思う」 ≪7-53≫
数時間前なら「思う」とは付け加えないはずだ。「断言する」と言い切っていただろう。しかし、初の大失策は、彼が一生忘れてはならない教訓となった。 ≪7-54≫
「おそらく」とアプサント親父は意見を述べた。「共犯者が探しに来たのは、このイヤリングじゃないか?」 ≪7-55≫
「その推測はちょっと違うよ。そうであれば、奴はシュパンの前掛けを調べなかっただろう。それは無駄だ... いや、奴は別の何か、例えば手紙などを追い求めていたに違いない...」 ≪7-56≫
だが老刑事は話をもう聞いてはいなかった。彼はイヤリングを手に取り、じっと見つめていた。 ≪7-57≫
「すごいな」彼はダイヤモンドの輝きに魅せられ呟いた。「一万フランの宝石を耳につけた女が『胡椒入れ』に来たなんて!…誰がそんな話を信じるだろう!」 ≪7-58≫
※ dix mille francs: ≪1-15≫の換算で九百四十万円
ルコックは考え込みながらうなずいた。 ≪7-59≫
「ええ、あり得ないね」と彼は答えた。「信じがたく、理屈にも合わない…… しかし、もし僕らがこの不可解な事件のベールを剥ぐことが出来れば-----我ながら疑わしいけれど-----事態はこんなものでは済まないと思う」 ≪7-60≫
※ 初出紙の連載第11回目(1868-6-6)の終わり
(つづく)
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