
フランス連続TVドラマ "Le habit noirs" (1967) の1エピソード "L'agence Lecoq/Monsieur Lecoq"より。実はガボリオの師Paul Féval の小説(1863-1875)の映像化。「ルコック」はそこに出てくる悪党で、ガボリオはその名を将来の名探偵につけたのだ。
VI
早く『胡椒入れ』に戻りたくて、今にも駆け出しそうなルコック。相棒に遅れまいと、アプサント親父は必死に脚を動かしていた。そのうち、彼の脳裏ににまったく新しい光が差し込んだ。 ≪6-1≫
警視庁に勤めて二十五年。この親父は、彼自身の表現を借りると、多くの同僚が自分を踏み台に出世していくのを見てきた。たった一年の勤務で、長年の献身でも届かなかった地位を、あっさりと手に入れてしまうのだ。 ≪6-2≫
そんな時、彼は決まって上司を不公平だと非難し、運の良いライバルたちを、卑劣なゴマスリで取り入ったのだと断じた。 ≪6-3≫
彼にとって、昇進で考慮する必要がある資格は、ただただ年功であり、それ以外にはなく、最も素晴らしく、最も敬意を表されるべき項目だった。 ≪6-4≫
「古参を、それも精鋭の老兵を差し置いて別の者を優遇するなど、恥ずべきことだ」そう言って、自らの信念と不満、そしてあらゆる苦渋をその言葉に凝縮させていた。 ≪6-5≫
ところが!……この夜、アプサント親父は思い知った。年功以外にも必要とされる何かがある、そして「抜擢」には正当な理由がある。非常に軽く見ていたこの新兵が、熟練のベテランである自分には真似できないやり方で、捜査の端緒を開いたことを認めざるを得なかった。 ≪6-6≫
だが、深く考えることはこの親父の得意ではなかった。すぐに自分相手の問答に飽きて、ちょうど足場の悪い場所に差し掛かって、二人の歩みが緩んだのを幸いに、ひとつ話をしようと思い立った。 ≪6-7≫
「相棒、あなたは黙ってるね」と彼は話しかけた。「失礼ながら、あなたは何やらお気に召さないご様子だ」 ≪6-8≫
この「あなた」という呼びかけは、老捜査官が考えを巡らせた末の驚くべき変化だった。もしルコックの意識が、相棒からはるか遠くを彷徨っていなければ、はっと思わず耳を疑ったことだろう。 ≪6-9≫
※ vous: アプサント親父は、今までずっとルコックをtu(お前)と呼んでいた。ここは、日本なら、タメ口にする時の緊張感。それとは真逆の方向だが…
「実際、気に入らないんだ」と彼は答えた。 ≪6-10≫
「まさか!……つい十分前までは、小鳥のようにあんなに上機嫌だったじゃないか」 ≪6-11≫
※ gai comme pinson: pinson(アトリ)は春になると綺麗な声でさえずる鳥として親しまれ「晴れやかで屈託なく楽しそうにしている」という慣用句。某Tubeで pinson des arbres chant で声が聞ける。
「あの時は、僕たちを待ち受ける最悪の事態を予想していなかったんだ」 ≪6-12≫
「最悪の事態…」 ≪6-13≫
「うん、とてつもなく深刻だ。気づかないかな、気味が悪いほど暖かい。明らかに風は南からだし。霧が晴れたのはいいが、どんよりと雲が垂れ込め、空模様が怪しい…… おそらく一時間以内に雨が降る」≪6-14≫
「もう雨粒が落ちてきてる、さっき一粒感じたよ...」 ≪6-15≫
この言葉は、まるで勢い盛んな馬に鞭をくれたかのようだった。ルコックは弾かれたように飛び出すと、さらに足早に突き進み、何度もこう繰り返した。 ≪6-16≫
「急ごう!...急ごう!...」 ≪6-17≫
親父も急ぎ出したが、若い仲間の返事に、頭は混乱していた。 ≪6-18≫
最悪の事態!南風!雨!彼には、その関連性がまったく理解できなかった。 ≪6-19≫
ひどく困惑し、漠然とした不安に襲われた彼は、なんとか問いを口にした。強行軍に必死についていくだけで、もう息も絶え絶えだったが。 ≪6-20≫
「正直、」と彼は言った。「知恵を絞っても、見当がつかん……」≪6-21≫
若い刑事は、その心細さが情けなくなった。≪6-22≫
「何だって!」と彼は走りながら遮った。「風にのる黒い雲が、捜査の成否も、僕の成功も、あなたの褒美も、全部左右するってことが、まだ分からないの!」 ≪6-23≫
「ああ...」 ≪6-24≫
「『ああ』じゃないよ、大先輩! あいにくだが、二十分の小雨で、僕らの苦労は水の泡だ。雨が降れば雪は溶け、証拠もおさらば。ああ、なんて呪わしい! もっと走れ、もっと早く! 捜査ってのは、口先以外のものを持ち帰らなきゃしょうがないでしょう!……予審判事に『足跡があった』と言っても、『どこに?』と絶対聞き返される。その時、何て答えるつもり?…… 神に誓って、男一人と女二人の足跡を確認したと言い張っても『じゃあ、それを見せてくれ』だ。その時、誰が恥をかくの?……あなたと僕だよ。その上、あのジェヴロルは、僕らが自慢し、彼を出し抜くため、嘘をついてると、いいだけ触れ回るはず……」 ≪6-25≫
「何だと!...」 ≪6-26≫
「急げ、おやじさん、急げ、怒るのは明日でいい。頼む、雨よ降らないでくれ!... きれいで、はっきりとした、疑いようもない足跡、犯人どもに有無を言わせぬあの証拠を... どう保存すればいいのか。固める手立てはないのか?.. もしそれで形が残るのなら、僕の血を注ぎ込んでもいい」 ≪6-27≫
アプサント親父は、これまでのところ、自分の協力など微々たるものだという自覚があった。 ≪6-28≫
彼はランタンを持っていただけだ。 ≪6-29≫
だが、ここらで褒美に値するだけの働きをする、そんな好機が今こそ訪れたのだと、彼は確信した。 ≪6-30≫
彼は機会を掴んだ... ≪6-31≫
「俺は知ってるぞ」と彼は宣言した。「どうやって雪の足跡を型取りして、保存するかを」 ≪6-32≫
その言葉を聞いて、若い刑事は立ち止まった。 ≪6-33≫
「あなたは方法を知っている?」と彼は口を挟んだ。 ≪6-34≫
「ああ、知ってる」と老捜査官は答えた。ようやく一矢報いた男の得意げな口調だった。「冬の十二月に起きた『メゾン・ブランシュの事件』で考案された手法なんだが……」 ≪6-35≫
※ la Maison-Blanche: パリ南端(現在の13区)の地区。1860年まではパリ市域外のジャンティイ村に属す。当時は低湿地や荒地が広がり、夜間は人通りの絶える物騒な場末という印象が強く、犯罪小説や新聞記事にしばしば登場するようだ。
「その事件は覚えてるよ」 ≪6-36≫
「いいかい!……中庭の雪の上に、とんでもなく不気味な足跡が残っていて、それが予審判事を狂喜させた。その足跡こそが事件の核心であり、それひとつで被告をさらに十年の重労働刑に追い込める価値があると言った。当然、何としても保存したい。そこで、パリから高名な化学者を呼び寄せた」 ≪6-37≫
「続けて、続けて!」 ≪6-38≫
「まあ、俺が実際にその場を自分の目で見たわけじゃないんだが、専門家が、できあがった塊を見せて、全部教えてくれた。こういう職業の俺に、勉強のためだと、わざわざ説明してくれてな……」 ≪6-39≫
ルコックは待ちきれずにそわそわしていた。 ≪6-40≫
「結局、どうやって作るの?」と彼は突然言った。 ≪6-41≫
「待ってくれ……今思い出す。まず、最高級の透明な板ゼラチンを用意して冷水に浸す。十分にふやけたら、湯煎にかけて溶かす。さらさらすぎず、どろどろすぎず、ちょうどいい加減の煮凝り状になるまで混ぜる。それを、かろうじて流れるくらいの温度まで冷ましてから、足跡の上に薄く、そっと流し込むんだ」 ≪6-42≫
ルコックは、期待が外れたあとに決まって湧き上がる、あの苛立ちに襲われた。馬鹿の話を真面目に聞いて時間を無駄にした、と悟った時のあの不快感だ。 ≪6-43≫
「もういい!」彼は冷たく遮った。「その方法はユグーランのもので、あらゆる教科書に載っている。素晴らしい手法だが、僕たちに何の役に立つ?… 今ゼラチンを持ってるの?… 」 ≪6-44≫
※ Hugoulin: 1850年に初めて雪についた足跡の立体型を取ったようだ。論文は1855年。詳細調べつかず。
「それは持ってない…」 ≪6-45≫
「僕も持ってない。なら、足跡を取るのに溶けた鉛を流し込めと助言するようなもんだ」 ≪6-46≫
二人は再び走り出し、のちの五分間は一言も言葉を交わさず、シュパン後家の酒場へと戻った。 ≪6-47≫
親父がまずやりたかったのは、座って休んで息をつくことだったろう。だが、ルコックはその余裕を与えなかった。 ≪6-48≫
「急いで、おやじさん!」と彼は命じた。「鉢、皿、どんな容器でも良いから持ってきてくれ。水もくれ。この台所にある板、箱、古い缶などを全部集めてくれ」 ≪6-49≫
相棒が命令に従っている間に、彼の方は瓶の破片をひっつかむと、『胡椒入れ』の一階を二分する仕切り壁の上塗り材を、猛烈な勢いで削り取り始めた。 ≪6-50≫
予期せぬ破局が目前に迫ってきていたので、最初のうちは調子を乱された彼の知性だったが、いまや平衡を取り戻していた。彼は考え抜き、この事態を回避するための手段を懸命に編み出した……そして、望みをつないだ。 ≪6-51≫
足元に七、八掴みほどの石膏の塵が溜まると、彼はその半分を水で溶き、極めて粘度の低い、さらさらとした液状にした。そして残りは、皿に取っておいた。 ≪6-52≫
「さあ、おやじさん、来て僕を照らして」と彼は言った。 ≪6-53≫
庭に出ると、若い刑事は最も鮮明で深い足跡を探し、その前にひざまずき、不安で胸がドキドキしながら実験に取りかかった。 ≪6-54≫
彼はまず、足跡の上に乾いた石膏の粉を薄く敷き詰めた。その上に細心の注意を払いながら水で溶いた液を少しずつ注ぎ、それに合わせて乾いた粉をたえず振りかけていった。 ≪6-55≫
なんと嬉しいことか!試みは成功した!すべてが均質な塊となって固まり、見事に足跡を写し取っていた。一時間の作業の後、彼は半ダースの型を手に入れた。鮮明さには多少欠けるかもしれないが、証拠物件として申し分のない出来栄えだった。 ≪6-56≫
ルコックの懸念は正しかった。雨が降り始めた。 ≪6-57≫
それでもなお、アプサント親父が集めてきた板や箱を使って、かなりの数の痕跡を覆うだけの時間があった。こうして彼は、少なくとも数時間の間、それらの証拠を雪解けの脅威から防ぐことが出来た…… ≪6-58≫
ようやく、彼は息をついた。予審判事がいつ来ても大丈夫だ。 ≪6-59≫
※ 初出紙の連載第10回目(1868-6-5)の終わり
(つづく)
コメント欄を設けました。別ページに飛びます。
https://danjuurockandroll.hateblo.jp/entry/2026/02/05/013007
コメントは承認制です。