十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載8 (第1部第5章)

フランス無声映画 Monsieur Lecoq (1914) 監督Maurice Tourneur、出演Harry Baur、Maurice de Féraudy、Charles Krauss など。このショットはどのシーンだろう... 映像が観たいなあ…

V

その夜、『胡椒入れ』周辺に身を寄せていた浮浪者たちはほとんど眠れなかった。たとえ眠ったとしても、警察に急襲される恐ろしい悪夢にうなされ、何度も飛び起きるような苦痛に満ちた夜だった。 ≪5-1≫

殺人犯が放った銃声で叩き起こされた彼らは、治安局捜査官たちと仲間の誰かが衝突したのだと思い込み、その多くが立ち上がったまま警戒を解かなかった。目と耳を研ぎ澄ませ、わずかな危険の兆候でもあれば、まるでジャッカルの群れのごとく一目散に逃げ出す構えであった。 ≪5-2≫
※ chacals: ジャッカル。卑屈で貪欲。群れをなす臆病者。夜行性で不気味。

最初のうち、怪しい気配は感じ取れなかった。 ≪5-3≫

しかし、午前二時頃、霧が少し晴れてほっとひと安心だったのに、不安を再び呼び起こすような現象が目撃された。 ≪5-4≫

近辺の人々が「広場」と呼んでいたその荒地のただ中で、小さくも鋭い光が、まるで意思を持っているかのように奇妙な軌跡を描きながら動いていた。 ≪5-5≫
※ «la plaine»

その光はあてもなく、明確な方向性もなく動き回っていた。不可解なジグザグを描いたかと思えば、地面を這うように進んだり、不意に高く上がり、一瞬静止した次の瞬間には、弾丸のような速さで突き進む。 ≪5-6≫

場所と季節を考えればあり得ないのだが、ろくに教育のない悪党どもは、それを「鬼火」に違いないと思い込んだ。沼地の上に自然と湧き出し、そよ風に吹かれてゆらゆらと漂う、あの実体のない炎のことだ。 ≪5-7≫

その鬼火とは... 捜査を続ける治安局捜査官二人のランタンだった。 ≪5-8≫

名探偵が突如、最初の弟子の前に降臨した、この工事現場を去るにあたって、ルコックは長く、そして胸が苦しくなるような悩みに囚われていた。 ≪5-9≫
※ il s'était si soudainement révélé à son premier disciple: ここは聖書的イメージを込めている、と判断。≪4-135≫参照。

まだ、場数を踏んだ者だけが持つ、みごとな眼力が備わっていなかった。何よりも、過去の成功に裏打ちされた大胆不敵さや、即断即決の力に欠けていた。 ≪5-10≫

さて、彼は二つの選択肢の間で迷っていた。どちらも理屈では同等、それぞれが、選ぶに足る説得力と確実性がある。 ≪5-11≫

彼の前で足跡が二つに分かれていた。一方は女たち二人のもの、もう一方は殺人犯の共犯者のもの。 ≪5-12≫

どちらを追うべきか?……両方を同時に追いきれるなどという甘い期待は、到底持てそうになかった。 ≪5-13≫

小足の女性の体温がまだ残っているように感じる厚板の上に座り、額を手に当てながら、彼は考え、二つの勝算を秤にかけていた。 ≪5-14≫

「男を追っても、」と彼は呟いた。「今まで推測したこと以上の収穫はないだろう。男は巡回隊を待ち伏せ、遠巻きに尾行し、相棒が連行されたのを見て、派出所周りをうろついたに違いない。今さら足跡を急いで追って、追いつき、奴を捕らえられるか? いや、望み薄だ……時間が経ちすぎている」 ≪5-15≫

プサント親父は、この独り言を熱烈な信頼を寄せて聞き入っていた。その姿はまるで、失せ物を探そうと催眠占い女の元へ行き、その口から発せられる神託を固唾をのんで待ちわびている純朴な男のようだった。 ≪5-16≫
※ somnambule: 本来は「夢遊病者」だが、一七八四年にメスメルの影響を受けたピュイゼギュール侯爵が催眠状態の患者ヴィクトル・ラースに透視能力や予知能力を発見して以来、催眠による予知が流行。十九世紀フランスでは「トランス状態で予言などを行う千里眼の女占い師」を指す言葉となった。

「女たちを追って」若い刑事は続けた。「何が見つかる? 重要な発見かも。何も見つからないかも!」 ≪5-17≫

そちらは未知だ。全くの失望があるかもしれない、全くの幸運にぶつかるかもしれない。 ≪5-18≫

彼は立ち上がり、決断を下した。 ≪5-19≫

「よし!...」と彼は叫んだ。「未知を選ぶ!アプサント親父、僕らは女二人の足跡を追う。女たちが導く果てまで、突き進もう...」 ≪5-20≫

同じような熱量に突き動かされ、二人は歩き出した。踏み出した道の先には、そこだけが輝いている灯台のように、一人には褒美が、もう一人には成功の栄光が見えていた。 ≪5-21≫

彼らは大急ぎで進んだ。最初は、セーヌ川の方向へと遠ざかっていく、はっきりとした足跡を追うのは簡単なことだった。 ≪5-22≫

しかし、すぐに歩みを緩めざるを得なくなった。 ≪5-23≫

荒涼の地は終わり、彼らは文明の端までたどり着いた。そこでは、時の経過で、逃亡者たちの足跡は他の足跡と混ざり合い、溶け合い、ところどころ消えていた。 ≪5-24≫

また、あちこちで雪解けが進んでいた。日当たりや地面の状態によって、雪がすっかり消え失せた場所も広範囲に及んでいた。 ≪5-25≫

それで、足跡は途切れてしまい、再び見つけるのは、ルコックの鋭い洞察力と、年上の相棒の頑張りを出し尽くしても容易ではなかった。 ≪5-26≫

そういう時には、アプサント親父が最後に見つけた足跡の近くの地面に杖を突き刺し、ルコックと二人で、その目印の周囲を、匂跡を失った猟犬のようにうろつき、探り回った。 ≪5-27≫

その間、ランタンはとても妙に動いた。 ≪5-28≫

小足の女が特徴のある優雅なブーツを履いていなければ、彼らは十回は道に迷ったり、見当違いをしただろう。 ≪5-29≫
※  bottines(ボティーヌ): 当時流行した、紐上げやボタン留めの女性用短靴。ぬかるんだ道を歩く実用的な作業靴とは異なり、主に都市部の淑女や中流階級以上の女性が履いたエレガントな靴を指す。≪4-47≫に出てきた。

そのブーツのヒールは、驚くほど高く、細かった。そのうえ、土踏まずにかけての切り込みがあまりに独特だったため、見間違える可能性はほとんどなかった。一歩ごとに三、四センチも雪や泥に沈み込み、その特徴的な足跡は蝋印のようにくっきりと残っていた。 ≪5-30≫

このヒールのおかげで、捜査官たちは、予想に反して逃亡者二人がパタイ通りを北上しなかったことを突き止めた。おそらく、その通りは照明が強すぎて、安全ではない、と判断したのだろう。 ≪5-31≫

彼女たちはあっさりクロワ=ルージュ小道の少し下を横切ると、二軒の家の隙間を縫って、また空き地の中へと逃げ込んだ。≪5-32≫
※ la ruelle de la Croix-Rouge: パリ南端の場末(現在のモンパルナス付近)に実在した細い路地。当時は街灯も少なく、人家の途切れる寂しい一角であった。la ruelle は馬車が入れない狭さのようだ。

「確かに」とルコックは呟いた。「あの小癪な女ども、この辺に土地勘があるらしい」 ≪5-33≫

実際、女たちはこの地域をよく知っていて、パタイ通りを離れたところで、業者がレンガ用の土を掘りだして出来た大きな溝を避けるために、急に右に曲がっていた。 ≪5-34≫

それで、女たちの足跡は再びはっきり見えるようになり、シュヴァルレ通りまでその状態が続いた。 ≪5-35≫

そこで、何と、痕跡は突然途絶えた。 ≪5-36≫

ルコックは、平底靴の逃亡者の足跡を八つか十ほど確かに見つけたが、それだけだった。 ≪5-37≫

確かに、その地は、このような捜索にはあまり適していなかった。シュヴァルレ通りは交通量が多く、歩道にはまだ少し雪が残っていたものの、車道の中央は泥の川と化していた。 ≪5-38≫

「あの女ども」若い刑事は不平を漏らした。「雪のせいで足がつくとやっと気づいたのか。車道へ出たか?」 ≪5-39≫

確かに、さっきのように横断して他へ行くのは不可能だった。通りの反対側には、工場の壁がどこまでも続いていたからだ。 ≪5-40≫

「ダメだダメだ」とアプサント親父は言った。「まったくの無駄足だったな」 ≪5-41≫

しかし、ルコックは一つの失敗などで諦め、休むような男ではなかった。 ≪5-42≫

手の届くところにあったものが失われ、怒りが静かに燃えた。彼は捜索をやり直した。それが功を奏した。 ≪5-43≫

「見つけた!...」と彼は突然叫んだ。「わかった、見える!」 ≪5-44≫

プサント親父が近づいた。彼自身は何も見えず、何もわからなかったが、もう仲間を疑うことはなかった。 ≪5-45≫

「ほら、ここを見て」とルコックは言った。「何が見える?」 ≪5-46≫

「車輪の跡だ。馬車が急に向きを変えたな」 ≪5-47≫

「その通り!…おやじさん、この跡がすべてを説明している。この通りに着いたとき、逃亡者たちは遠くにパリから戻ってくる馬車の提灯を見つけた。もし空車なら大助かりだ。女たちはそれを待ち、手が届く距離まで来たところで御者に呼びかけた... 多めのチップを約束したに違いない。明らかなのは、彼が引き返すことに同意したってことだ。彼は急ハンドルを切り、女たちは馬車に乗り込んだ…だから足跡はここで終わっている」 ≪5-48≫

この説明を聞いても、親父の顔は晴れなかった。 ≪5-49≫

「それを知って」と彼は言った。「何か進展があるのか?」 ≪5-50≫

ルコックは肩をすくめるしかなかった。 ≪5-51≫

「まさか」と彼は言った。「あの女どもの足跡が、パリをずっと横切って自宅の玄関先まで案内してくれるとでも期待してたの?」 ≪5-52≫

「いや、だがな…」 ≪5-53≫

「じゃあ、これ以上、何を望むの?」とルコックは言った。「明日になれば、この御者が探し出せないとでも? 彼は客を降ろした帰り道、一日の仕事が終わったところだった。ならば、車庫はこの近辺にあるはず。シュヴァルレ通りで二人連れを乗せたことを、彼が忘れていると思う? どこで降ろしたかは教えてくれるはず。まあ、それは大した意味を持たないかもしれない。二人は自分の住所を告げないだろうから。だが御者は、二人の人相風体や服装、雰囲気、年齢、物腰までも話してくれるだろう。その話と、これまでに分かっている情報とを合わせて……」 ≪5-54≫
※ donc sa remise est dans le quartier: 辻馬車の1回の移動距離は2〜5km程度が一般的だったようだ。

彼は、もうこれ以上言うまでもなかろうと、自信満々な仕草をしてから、こう付け加えた。 ≪5-55≫

「もう、『胡椒入れ』に戻らなきゃね。さあ、急いで... それから、大先輩、もうランタンを消していいよ」 ≪5-56≫
※ 初出紙の連載第9回目(1868-6-4)の終わり


(つづく)
 
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