十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載7 (第1部第4章の3)

ドイツ語版 Das Neue Berlin 1982の表紙絵。拳銃デザインから考えて1910年代以降の絵か?古っぽい絵に似せた最近のかも。部隊が突入した≪1-60≫あたりの場面? 拳銃持ってるのは誰? ジェヴロルかルコックのつもりかなあ。

ルコックの話を聞くアプサント親父の頭の中では、おとぎ話で子供が感じるようなさまざまな感情、疑念、信頼、不安、期待が、ぶつかり合って入り乱れた。 ≪4-117≫

何を信じて、何を信じないか? 彼にはわからなかった。個々の断定は、どれも同じくらい反論の余地がないように思えるが、偽りと真実を見分けるにはどうすればよいのか? ≪4-118≫

一方、若い刑事の態度は、嘘偽りを全然感じさせない非常に真剣な様子で、冗談である可能性など全く無かった。 ≪4-119≫

やがて、彼の好奇心がうずいた。 ≪4-120≫

「ようやく女たちの登場か」と彼は言った。 ≪4-121≫

「ああ、そうだね」とルコックは答えた。「だが、確信が持てるのはここまで。ここからは証拠もなく、推測するしかない。逃亡者たちは、僕たちが叫び声で駆けつける前、乱闘が始まった直後に酒場を離れた、と見て間違いないだろう。彼女たちは何者か? 手がかりから察するしかないが、二人は同等の身分ではない、と僕は感じている。一人は女主人、もう一人はその召使いではないか。 ≪4-122≫

「確かに、二人の足と靴にはかなりの違いがある」と、老捜査官は言った。 ≪4-123≫

考え込んでいた若い刑事も、良い目の付け所だな、と思わず笑みをこぼした。 ≪4-124≫

「その違いは確かに重要だけど、僕の推測の決め手はそれじゃない。整った手足が社会的地位を決めるんなら、多くの女主人は召使いになってしまうよ。僕が注目したのは、次の点なんだ。 ≪4-125≫

この不幸な二人の女が、恐怖に震えながらシュパンの店を飛び出したときだ。小足の女は庭先へ一足飛びに駆け出し、先頭を切って、もう一人を引き離していった。この凄惨な状況、場所の卑しさ、醜聞への恐怖――そして何より、体面を守らねば、という一念が、彼女に驚異的な活力を与えた。 ≪4-126≫

「だが、繊細で神経質な女にはよくあることだが、その奮闘はほんの数秒しか続かなかった。『胡椒入れ』からここまでの道のりの半分も進まぬうちに、勢いは鈍り、足がふらついた。十歩も進むと、彼女はよろめき、つまずいた。さらに数歩進むと、彼女は倒れ込み、スカートが雪に押し付けられ、雪の上に小さな輪を描いた。 ≪4-127≫

「すると、平靴の女性が助けに来た。彼女は仲間の腰を抱き、助け起こす-----二人の足跡が混ざり合っている-----そして仲間が今にも気絶しそうだと見ると、その強靭な腕で彼女を持ち上げ、運ぶ-----それで小足の女性の足跡が途絶えた……」 ≪4-128≫

ルコックは調子に乗って作り話をしているのではないか? この光景は、想像の産物ではないのか? ≪4-129≫

深く真実な確信のみが宿し得る、現実をありありと蘇らせる絶対的な口調――。それは彼のまやかしに過ぎないのか? ≪4-130≫

プサント親父は心のどこかで信じがたい思いを抱き続けていたが、その疑念を払拭する確実な方法を思いついた。 ≪4-131≫

彼は素早くランタンを手に取ると、足跡を調べに走った。確かに自分も見たはずだ。だが何も語ってくれなかった。しかし、別の男に対しては、秘密をすべて打ち明けていたとは。 ≪4-132≫

彼はすっかり降参した。ルコックが言い当てたことは、すべてそこにあった。もつれ合った足跡、スカートの裾が描いた輪、そしてあの優雅な足跡が急に消えているのを、彼は自分の目で確かめた。 ≪4-133≫

戻ってきた彼が平静を装おうとしても、その表情は驚愕と敬意と感嘆をはっきり表していた。そして、傍目からもはっきりわかるほど決まり悪そうに、こう切り出した。 ≪4-134≫

「……この道一筋の老兵が、聖トマス同様、ちょっと疑ぐり深かったことを悪く思わんでくれ。この指で確かに触れたよ…… さあ、続きを聞かせてくれ」 ≪4-135≫
※ un vieux de la vieille: ナポレオン親衛隊の精鋭(Vieille Garde)が、激動の時代を経て、のちに得た敬称。
※ saint Thomas: イエスの復活を、自分の指で傷に触らねば信じない、と主張した使徒トマスのこと。ヨハネ福音書 20章24〜29節 (20:27またトマスに言ひ給ふ『なんぢの指をここに伸べて、わが手を見よ、汝の手をのべて、我が脅にさしいれよ、信ぜぬ者とならで信ずる者となれ: 全体を読むと、イエスはトマスの前に現れたが、トマスは触っていないように読める)

もちろん、若い刑事は彼の不信感を恨むようなことはなかった。 ≪4-136≫

「それから」と彼は続けた。「逃亡者たちの足音を聞いた共犯者が彼女たちに駆け寄り、幅広靴の女を助け、彼女の仲間を運ぶのを手伝った。その女は明らかに体調が悪かった。共犯者はすぐに帽子を脱ぎ、それで厚板の上の雪を払い落とした。それから、その場所が十分に乾いていないと感じて、外套の裾で拭いた。 ≪4-137≫

この気遣いは、純粋な紳士的行為なのか、それとも召使いとしての普通の気配りなのか?どちらだろうね。 ≪4-138≫

確かなことは、厚板の上に寝かされた小足の女が意識をとりもどすまでの間に、もう一人は共犯者を五、六歩左へ、あの巨大な岩塊まで引き連れていった。 ≪4-139≫

そこで彼女は彼に話しかけ、話を聞きながら、男は無意識に雪に覆われた岩の上に手を置き、そこに驚くほど鮮明な手形を残した... さらに会話が続き、今度は肘を雪に押し付けた... ≪4-140≫

知性の限られた人間にありがちなことだが、アプサント親父も同様に、頑なな疑心暗鬼から、唐突に根拠のない全幅の信頼へと豹変した。 ≪4-141≫

彼は、当初何も受けつけなかったのに、今では何でも受け入れた。 ≪4-142≫

人間の推論や洞察に限界があることなど思いもよらぬ彼は、同僚の推測の才には際限がないものと信じ込んでしまった。 ≪4-143≫

そこで彼は、実に真面目な気持ちで、彼に尋ねた。 ≪4-144≫

「そこで、共犯者と平底靴の女は、何を話した?」 ≪4-145≫

ルコックは、この純真さに微笑んだが、相手は気づかなかった。 ≪4-146≫

「難しい質問だね」と彼は言った。「でも、女は男に、仲間の身に降りかかっている危難がいかに甚大で、かつ差し迫っているかを説明し、二人はその状況から抜け出す方法を模索していたのだと思う。あるいは、殺人犯からの指示を伝えていたのかもしれない。確かなのは、女が最後に、共犯者に命じて、『胡椒入れ』まで走らせ、あそこで何が何が起きているか探らせたことだ。現に彼は走って行った。なにしろ、そこにある石の塊から先へ、駆け出した跡が残っているからね。 ≪4-147≫

「そういえば」と老捜査官は叫んだ。「その時、俺たちは酒場にいたんだぜ!... ジェヴロルがちょっと声をかけていれば、一味全員を逮捕できた。なんてヘマだ!なんてツキがない!」 ≪4-148≫

ルコックは無関心で、同僚の後悔には全く共感しなかった。 ≪4-149≫

むしろ、ジェヴロルの過ちに感謝していた。この事件に関していろいろな手がかりを得られたのは、その過ちのおかげなのだ。彼はこの事件をますます謎めいたものと考えるようになり、ぜひその真相を突き止めたいと願っていた。 ≪4-150≫

「結局」と彼は続けた。「共犯者はすぐにここに戻った。彼は事件を目撃し、怖くなって急いで逃げたのだ… 彼は、争いを調べた捜査官たちが空き地を探しにくるかもしれないことを恐れた。彼は小足の女性に話しかけ、逃げる必要性を説き、一分一秒が命取りになることを伝えた。彼の話で、彼女は全力を振り絞り、立ち上がって仲間の女の腕にすがって立ち去った」 ≪4-151≫

その男は女たちの道案内をしたのか、女たちは道を知っていたのか?それは後でわかるだろう。確かなのは、彼が彼女たちを見守るためにしばらく同行したということだ」 ≪4-152≫

しかし、この女二人を守るよりも、彼にはもっと大切なことがあった。それは、可能な限り共犯者を救うことだ。そこで彼は引き返し、この場所を再び通り過ぎ、シャトー・デ・ランティエ通りの方向へと遠ざかっていく最後の足跡を残した。彼は殺人犯の行方を確かめ、どこに行くのか見届けたいと思った…」 ≪4-153≫

感動的な演奏が終わるまで拍手するのを待つ、音楽愛好家のように、アプサント親父は賞賛をぐっとこらえていた。 ≪4-154≫

若い刑事が話を終えたのに気づき、ようやく彼は熱狂を爆発させた。 ≪4-155≫

「これが捜査ってもんだ!」と彼は叫んだ。「ジェブロルが優秀だなんて言うやつは、ここに来やがれ!… なあ、はっきり言ってやる。君と比べたら、将軍なんてヨハネ祭りのホタル同然、儚い光だぜ」 ≪4-156≫
※ (mouche) de la Saint-Jean: 聖ヨハネ祭(6月24)の時期に現れる「ホタル」の一種を指す。夜に光って目立つが、実際は弱々しく命が短いことから、「見かけ倒しの無能」や「取るに足らない者」を揶揄する際に使われるようだ。

そのお世辞は実に大袈裟なものだったが、心からのものであることは疑いの余地がなかった。そして、このような称賛の露がルコックの虚栄心に降り注いだのは初めてのことだった。彼は顔を輝かせた。 ≪4-157≫

「いやいや...」彼は控えめな口調で答えた。「親父さん、そいつは買いかぶりすぎです。結局、そんなにすごいことをしたかな? 男が年配だと言うのは、重く引きずるような足取りを見れば、難しくもない。身長を割り出したのも、遊びみたいなもんです!  あそこの左手にある石の塊に男が肘をついたと気づいたので、その塊の高さを測っただけだ。高さ1メートル67。ならば、そこに肘を預けられる男は、少なくとも1メートル80はあるはず。男の手形がそれを裏付けてくれた。厚板の雪が払われていたので、何を使ったのか考え、帽子だろうと踏んだ。するとつばの跡が見つかった。僕の読み通りだった」 ≪4-158≫

「最後に、外套の色や生地については、彼が濡れた木材を拭ったとき、ささくれに茶色の羊毛の微細な繊維が引っかかったんだよ。それも僕が回収したから、いずれ重要証拠として役立つはず... この程度が珍しい? 何でもないよ。ようやく事件の端緒を掴んだに過ぎない... まだ糸口を手にしただけだから、あとは最後まで手繰り寄せるだけ…さあ、前進!」  ≪4-159≫
※ En avant: 軍隊の前進命令でもある。

老刑事は興奮し、まるで山彦のように繰り返した。 ≪4-160≫

「前進!!!」 ≪4-161≫
※ 初出紙の連載第8回目(1868-6-3)の終わり

 


(つづく)
 
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