十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載5 (第1部第4章の1)

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挿絵: 中村英夫 「少年少女世界の名作文学22 フランス編4 : ルコック探偵尾行命令」氷川瓏訳(小学館 1964) ≪3-64≫の場面

 

IV

プサント親父のような頑固な人たちは、初めは常に他人の意見に反発するのだが、最後にはその意見にすっかり夢中になってしまうものだ。 ≪4-1≫

一つの考えが空っぽの頭の中に入り込んでしまうと、しっかり住み着き、どんどん膨らんで、破壊するまで大きくなる。 ≪4-2≫

こうなるとジェルザレム通りの古参刑事は、若い相棒以上に、抜け目のないジェヴロルが誤ったと信じて疑わず、その見当違いを笑いものにした。 ≪4-3≫

ルコックが、『胡椒入れ』の恐ろしい現場を目撃した中に女たちがいた、と指摘するのを聞き、彼の喜びは果てしなく大きくなった。 ≪4-4≫

「いい事件だ!...」と彼は叫んだ。「素晴らしい事件だ!…」≪4-5≫

そして、キケロの昔でさえ陳腐になっていた格言を思い出し、重々しい口調で付け加えた。 ≪4-6≫

「女を掴めば、事件も掴む!」 ≪4-7≫
※ Qui tient la femme, tient la cause: 格言として、世に出回っていないようだ。たぶんガボリオの創作したなんちゃって格言。キケロギリシャ古典の代表格として言及されてるだけ。

ルコックは答える気にもならなかった。彼は戸口に立ち、背をドア枠にもたれかけ、手を額に当て、彫像のようにじっと動かなかった。 ≪4-8≫

この発見は、アプサント親父を喜ばせたが、彼自身は落胆した。それは彼の希望を打ち砕き、たった一つの言葉から想像力で築き上げた巧妙な構造を崩壊させたのだ。 ≪4-9≫

謎なんて無い、それゆえ輝かしい捜査も、一夜にして名声を得るような大成功も、全く無い! ≪4-10≫

この物騒な場所に女二人がいたことで、すべてが全く当たり前で、全く下世話に説明がつく。 ≪4-11≫

喧嘩も、シュパン後家の証言も、偽の兵士の死の床での告白も全部理解できる。 ≪4-12≫

殺人犯の行動はごく単純なものとなる。彼は二人の女が逃げ出すのを援護するために残っていた。彼女たちが捕まらないよう自ら身を捧げたのだ。それは、関所外地帯の最も卑劣なロクデナシでさえも行うはずの、フランス人に染み付いた騎士道的行動だ。 ≪4-13≫

ワーテルローの戦いへの、あまりに唐突なあの言及だけが引っかかる。しかし、今となっては、何の証明になるだろう? 全く何にもならない。 ≪4-14≫

道ならぬ情熱が、良家の男をどこまで堕落させるか、知らぬ者などいようか!……カーニヴァルは、どんな変装をも正当化してしまう…  ≪4-15≫

ルコックが頭の中であらゆる可能性を反芻している間、アプサント親父の方では焦りを感じていた。 ≪4-16≫

「ここで休んで、根を生やすまでじっとしているつもりか?」と彼は言った。「この瞬間、まさに調査が素晴らしい成果を上げているのに、ただ待っているだけか?...」 ≪4-17≫
※ reverdir: ここは慣用句に近い感じ。「苔のむすまで」と言いたくなった。

素晴らしい成果!...この言葉は、最も苦い皮肉となって、若い刑事を傷つけた。 ≪4-18≫

「ああ、放っといてくれ!」と彼は乱暴に言った。「どうして庭に入るんだよ、足跡が台無しだ」 ≪4-19≫

親父は悪態をついたが、すぐに黙った。優れた知性と強い意志という、抗いがたい影響力に屈したのだ。 ≪4-20≫

ルコックは演繹推理を再開した。 ≪4-21≫
※ déductions: 「推理」でいいんだけど、この語が探偵小説に登場する歴史的事例であることを考慮して、わざわざこう訳した。ポー「モルグ街」でも三回使われ、ドイル『緋色』第一部第二章の表題はThe Science of Deductionである。

「おそらく、こうだったのだろう」と彼は考えた。 ≪4-22≫

殺人犯は、防壁の近くにある、すぐそこの「天弓」舞踏場から出て、女二人を連れてここにやって来た... そこで三人の酒飲みに出会い、そいつらが彼をからかったり、あまりにも馴れ馴れしく振る舞ったりした... 彼は怒った... そいつらは彼を脅した。彼一人は三人に囲まれ、武器を持っていた。我を忘れ、彼は発砲した... ≪4-23≫

彼はふと我に返り、声に出して付け加えた。≪4-24≫

「だが、女たちを連れてきたのは本当に殺人犯なのか?裁判となれば、議論の焦点はこの点一つに集中するだろう…明らかにする価値はある」 ≪4-25≫

すぐに酒場を横切り、年上の同僚が相変わらず後をついてくる中、ジェヴロルが壊したドアの周囲を調べ始めた。 ≪4-26≫

無駄だった!雪はほとんど残っておらず、多くの人々が上を通って踏み荒らしていたため、何も判別できなかった。 ≪4-27≫

ずっと期待していたのに、結末がこれか! ≪4-28≫

ルコックは怒りで泣きそうだった。熱心に待ち望んでいた好機が、気まぐれで何度も先延ばしにされていると感じた。ジェヴロルの粗野な皮肉が聞こえてくるようだった。 ≪4-29≫

「仕方ない!…」彼は、聞こえないように小声で呟いた。「敗北を認めよう。将軍の言う通り、僕は愚か者だ」 ≪4-30≫

今出来るのは、月並みな犯罪の状況をせいぜいいくつか確認することだけだ、と思い込んで、警察署長を待つ間、調査など放棄して、屋内で寝ていたほうがマシではないかと考えた。 ≪4-31≫

 
しかし、アプサント親父の意見は、もはやそうではなかった。 ≪4-32≫

親父は、彼の考えが全く読めなかったので、無為を理解できず、じっとしていられなかった。 ≪4-33≫

「おい、若いの」彼は言った。「頭がおかしくなったのか?もう十分時間を無駄にしたと思うぞ。数時間後にはお偉いさんが到着する。どんな報告書を提出するつもりだ?お前がぐずぐずしているなら、俺がまず、単独で行動する…」 ≪4-34≫

おちこんでいても、若い刑事は思わず微笑んでしまった。それは、さっき自分が言っていたことだ。年寄りの方が威勢が良くなったのだ。 ≪4-35≫

「判ったよ、始めよう!」彼はため息をついた。失敗は仕方ないが、少なくとも非難だけは避けたいと思いなおした。 ≪4-36≫

しかし、ろうそくの小さな明かりは、わずかな風でも消えてしまいそうになり、夜に野外で足跡を追うのは困難だった。 ≪4-37≫

「こんな粗末な所でもランタンがないはずがない」とルコックは言った。「とにかく、それを手に入れることだ。」  ≪4-38≫

彼らは探り回って、一階にあるシュパン後家の寝室で、燃料がたっぷり入ったランタンを本当に見つけた。とても小さく、きれいで、どう考えても善良な用途には使われていないシロモノだった。 ≪4-39≫

「こいつは正真正銘、泥棒の道具だな」と、アプサント親父は大笑いしながら言った。 ≪4-40≫

実際に、その道具は便利だった。二人の捜査官が、庭に戻って系統的に調査を再開してみると、つくづくそう感じた。≪4-41≫

彼らは細心の注意を払って少しずつ前に進んだ。 ≪4-42≫

老捜査官は立ち上がり、ランタンの光を適切な場所に当て、ルコックはひざまずいて、金持ちの顧客の手から未来を読み取ろうとする手相占い師のような注意深さで、足跡を調べた。≪4-43≫

改めて確認した結果、ルコックは自分の見たものが間違いではないと確信した。明らかに二人の女性がこの出口から『胡椒入れ』を出ていったのだ。彼女たちは走って出ていった。その確信は、足跡の幅と配置から得られた。 ≪4-44≫

二人の逃亡者が残した足跡の違いは、アプサント親父の目にも明らかだった。 ≪4-45≫

「こりゃどうだ!」彼は呟いた。「こっちの元気な娘は、自分の足先が美しいことを誇りに思っているだろうね」 ≪4-46≫

彼の言う通りだった。一方の足跡は、優雅なハイヒールのブーツに包まれた、可愛らしく、細く、過度にアーチのある、可憐な足を物語っていた。 ≪4-47≫

もう一方の足跡は、太く短く、端に向かって広がっていく、頑丈で非常に平らな靴を履いた大きな足を示していた。 ≪4-48≫

大した証拠ではなかった。しかし、ルコックはすっかり希望を取り戻した。人は、自分の願望をくすぐる予感を容易に受け入れるものだ。 ≪4-49≫

期待と不安を感じながら、彼は雪の上を一メートルほど這い進み、他の痕跡を調べようと身をかがめた。すると即座に、全てを物語るような叫び声が出た。 ≪4-50≫

「どうした?何を見た?」と老刑事が鋭く尋ねた。≪4-51≫

「自分で見て、おやじさん。ほら、ここ…」≪4-52≫

親父は身をかがめた。驚きは強烈で、ランタンを落とすところだった。 ≪4-53≫

「あっ!…」彼は声を詰まらせて言った。「男の足跡だ!…」 ≪4-54≫

「まさに。しかも、こいつは立派なブーツを履いている。なんて素晴らしい足跡だ!はっきりして、混じりっけなしだ!鋲の数も数えられる」 ≪4-55≫

立派なアプサント親父は、激しく耳をかいていた。怠惰な知性を奮い立たせるための、彼のいつもの癖だった。 ≪4-56≫

「しかし、俺の見るところでは」と、ついに彼は口を開いた。「この男は、あの縁起の悪い酒場から出て来てないようだ」 ≪4-57≫

「ああそうか!…足の向きでわかるね。そう、出てきたんじゃない、そこに向かっていたんだ。ただ、僕たちがいるこの場所を通り越してはいない。つま先立ちで首を伸ばし、耳を澄ませながら進んで来て、ここに到達したとき、大騒ぎの音を聞いた…それで怖くなり逃げ出した。 ≪4-58≫

「なあおい、それとも、こいつが来たとき、女たちが外に出て来て、それで...」 ≪4-59≫

「いや。こいつが庭に入ったとき、女たちは庭の外にいた」 ≪4-60≫

その時点で、その主張は、親父にはあまりに大胆に聞こえた。 ≪4-61≫

「それは」と彼は言った。「どうだかな」 ≪4-62≫

「しかし、僕にはわかる。最も確かな跡がある。疑っているのかい、おやじさん!...あなたの目が弱くなっているからだろう。ランタンを少し近づけてみて、そうすればわかる…そう、そこだ、小足女の足跡のちょうど上から、あの男が大きなブーツで踏みつけ、足跡の四分の三を消してしまっている。 ≪4-63≫

この反論の余地のない物的証拠は、老刑事を驚愕させた。 ≪4-64≫

「さて」とルコックは続けた。「この足跡は、殺人犯が待っていた共犯者のものか?... それとも、銃声に惹かれて空き地をうろついていた誰かのものか?... それが知りたいことだ... そして僕らは知るはずだ。さあ、こちらに来て! ≪4-65≫
※ 初出紙の連載第6回目(1868-6-1)の終わり

(つづく)
 
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