十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載4 (第1部第3章)

挿絵: 松野一夫 『世界名作物語 名探偵ルコック江戸川乱歩(講談社 1948) ≪1-71≫の場面

III

ジェヴロルから、『胡椒入れ』に残る捜査官を選ぶ許可を得たルコックは、同僚の中でいちばん頭の鈍そうな男に声をかけた。 ≪3-1≫

はっきり言えば、上手くいった時の成果を分け合うのが嫌だったというよりも、必要なときに自分の言うことを聞くような助手を手元に置いておきたかった。≪3-2≫

五十歳の親父で、騎兵隊を退役した後、警視庁に入った。 ≪3-3≫
※ la cavalerie: 当時の騎兵隊出身者は、退役後に警察職へ入る例が多かった。ガボリオも5e régiment de chasseur à chevalの軍歴あり。

低い地位のまま長官の交代を何度も見てきたが、今まで自分が捕まえた連中を全部集めるだけで徒刑場ひとつは満杯にできた。≪3-4≫

彼は、特に有能なわけでも、熱心なわけでもなかった。命令が下れば、それを理解した通りに、軍隊式に実行した。 ≪3-5≫

もし彼が誤解していたなら… まあ仕方ない! ≪3-6≫

彼は横を見ずに働いていた… 年老いた馬が輪を回り続け機械を回すように。 ≪3-7≫

ちょっとの自由時間と、お金が出来れば、彼は酒を飲んだ。 ≪3-8≫

ほろ酔いきげんの人生を送っていたが、度は越さず、酔っ払っても常に半分は正気を保っていた。 ≪3-9≫

昔は名前で呼ばれていたのだろうが、もう誰も本名を覚えていなかった。皆、アプサント親父と呼んだ。 ≪3-10≫
※ père: 五十歳なので「親父」としたが、当時のイメージは「爺」なんだろうなあ。
※ Absinthe: フランス語の発音は「アプサント」、日本でポピュラーな「アブサン」も捨てがたいが。

当然のことながら、この若い相棒の熱意も、成功を望む気持ちも、彼は気づかなかった。 ≪3-11≫

「いやあ、お前が俺をここに留めておいてくれてとても良かった。ありがとよ」二人きりになると彼は言った。「アイツらが雪の中を夜を通して歩き回っている間、俺の方はぐっすり眠られる」 ≪3-12≫
※ アプサント親父はルコックをtu(お前)呼ばわりしている。新人刑事を完全に舐めている。

犯罪の痕跡が生々しく、血の匂いが立ち込める現場で、まだ温かさが残る殺されたばかりの三つの死体を前にしながら、彼は眠ることを話題にしていた。≪3-13≫

彼にとって、そんなことはどうでもよかった! 今までこのような光景を何度も見てきたのだ!習慣は、必然的に職業的無関心を招くのだろう。それは、戦場の中で兵士に冷静さを与え、患者がメスの下で叫び身もだえしているときに、外科医に無表情さを与える、驚くべき現象である。 ≪3-14≫

「俺は上に行ってちょっと見てきた」と親父は続けた。「ベッドがあった。交代で一人ずつ見張番に立てばいい...」 ≪3-15≫

ルコックは毅然とした身振りで彼を遮った。 ≪3-16≫

「それはダメだよ、アプサント親父」と彼は言った。「のんびり過ごすために居残ったんじゃない。一緒に捜査を開始し、綿密に調べて、手がかりを集めるんだ…数時間後には警察署長や、医者たちや、予審判事が到着する… 僕は彼らに出す報告書を用意したいんだ」 ≪3-17≫

この提案は、老捜査官を憤慨させたようだった。 ≪3-18≫

「そいつは無駄だ!...」と彼は叫んだ。「俺は将軍を知っている。今夜のように署長を呼びに行く時は、もうこれ以上何もする事はないと確信している証拠だ。将軍が見落としたものを見つけられるとでも思ってるのか?」 ≪3-19≫

「ジェヴロルも、皆と同じように見誤ることがある。今回は、明白な事実だと見えたものに安易に頼りすぎだ。この事件は、見た目とは違うと僕は断言する。もしやってみれば、背後に隠れているものを、確実に見つけ出せるよ」 ≪3-20≫

若い刑事が熱っぽく語っても、年かさの相手には全く響かず、親父はあくびをしながらこう言った。 ≪3-21≫

「お説は伺ったよ、だが俺はベッドで寝る。邪魔しないからお前は探し続けろ。何か見つけたら、起こしてくれ」 ≪3-22≫

ルコックは苛立った様子をまったく見せず、実際、苛立ってもいなかった。彼は相手を試していた。 ≪3-23≫

「少し時間をください」と彼は続けた。「五分、時計を見ていて。その間に、僕が疑っている謎を、あなたにはっきり分からせてみせましょう」 ≪3-24≫

「五分ならまあいいか」 ≪3-25≫

「それでも納得がいかなかったら、おやじさんは勝手に過ごせばいい。ただし、僕が一人だけで発見したら、確実に得られる褒美を独り占めすることになっちゃうけどね」≪3-26≫
※ papa: 「おやじさん」と訳した。ルコックがアプサント親父を呼ぶ時の呼びかけが数種あるが、本訳では一対一対応を基本としている。

「褒美」という言葉を聞いて、老刑事の耳がピクリと動いた。彼は、自分の名前の由来である緑色のリキュールの瓶が無数に並ぶ、まばゆいばかりの光景を想像した。≪3-27≫

「そんなら、納得させてみろ」と彼は言い、腰掛けを起こして座った。 ≪3-28≫

ルコックは彼の真正面に立ったままだった。 ≪3-29≫

「まず最初に、僕らが逮捕したこの人物は」と彼は尋ねた。「あなたの考えでは何者だと思う?」 ≪3-30≫

「おそらく、船荷の荷役夫か、あるいは河の浚い屋かな」 ≪3-31≫
※ ravageur: セーヌ川などで貴金属などを川底から拾う人々のことを当時「ravageur(害虫)」と呼んでいた。当時の河川浚い屋は川底の清掃や回収を担う底辺労働者で、落し物や死体の発見に関わることも多かった。

「つまり、社会の中で最も卑しい階層で、つまり、何の教育も受けていない奴だろうというんだね」 ≪3-32≫

「その通り」≪3-33≫

ルコックは、相棒の目をじっと見つめながら話していた。真に優れた人物が皆そうであるように、彼は自分を疑っていた。そして、この頑固な老人の鈍い頭脳に自分の考えを浸透させることができれば、自分の正しさを確信できるだろうと考えていた。 ≪3-34≫

「では…!」彼は続けた。「この男が、高い教育を受けた、洗練された人物だと僕が証明したら、どうする?」 ≪3-35≫

「そりゃ驚いた、とは言うさ、言うだろうさ……だが俺は頭が悪いぞ、お前が小難しい理屈で説明しても理解できん」 ≪3-36≫

「いや、とても簡単なんだ。僕が奴を押して転ばせたとき、あの男が口にした言葉を覚えている?」 ≪3-37≫ 

「今でも耳に残っている。『来たのはプロシア人か!』と言ってた」 ≪3-38≫

「アイツが言いたかった意味がわかる?」 ≪3-39≫

「くだらん質問だなあ!...奴はプロシア人が大嫌いで、俺たちにひどい侮辱を投げつけたつもりだったんだろ」 ≪3-40≫

ルコックの期待通りの回答だった。 ≪3-41≫

「いやいや!…アプサント親父」彼は厳かに明言した。「それは違う、まったく間違ってる。この男は、その外見からは想像出来ないほど高い教養があるので、あなたのような、実にしたたかな年配の方でさえ、彼の意図も発想も汲み取ることが出来なかった。それが証拠です。この台詞は、僕にとって光明となった」≪3-42≫

プサント親父の表情は、奇妙で滑稽な困惑を示していた。それは、騙されたと気づいた後、笑うべきか怒るべきか迷っている男の表情だった。ちょっと考えてから、怒ることに決めた。 ≪3-43≫

「まだガキだな」と彼は言い出した。「俺みたいな年寄りをからかおうとするなんて。冗談も大概にしろ...」 ≪3-44≫

「ちょっと待って!」とルコックは口を挟んだ。「説明するから。あなたは、フランスにとって一番の災厄だった、あの恐ろしい戦いの話を知らないはずがない。ワーテルローの戦いのことを知ってるよね?...」 ≪3-45≫

「何の関係があるんだよ...」 ≪3-46≫

「いいから答えて」 ≪3-47≫

「ああそうかい…知ってるよ!」 ≪3-48≫

「いいぞ!それなら、おやじさん、最初はフランス側に勝利が傾いていたことを知っているでしょう。イギリス軍は弱り始めていて、皇帝は「追い詰めた!」と途中で叫んでいた。すると突然、右側、少し後ろから、前進してくる部隊が現れた。プロシア軍だ。それでワーテルローの戦いに負けたんだ!」 ≪3-49≫

立派なアプサントは、人生で今ほど理解しようと頑張ったことはなかった。それは無駄ではなかった。彼は半分立ち上がると、アルキメデスが「見つけた!」と叫んだ時のような口調で、こう叫んだ。 ≪3-50≫

「わかったぞ!... その男の台詞には裏の意味があったんだ」 ≪3-51≫

「理解していただけましたね」とルコックは同意した。「しかし、まだ終わりではない。皇帝がプロイセン軍の出現に愕然としたのは、まさにその方角から三万五千の兵を率いるグルーシ将軍を待っていたからだ。したがって、この男が裏の意味を正しく完璧に表現しているなら、男は自分を打ち倒す敵を予想していたのではなく、味方を予想していたことになる... あとはお判りでしょう」 ≪3-52≫

納得というより、強く感激して、この親父は、ついさっきまで眠気で重くなっていた目を、驚くほど大きく見開いた。 ≪3-53≫

「何と!...」彼は呟いた。「お前のその話しぶりときたら…だが待てよ、思い出したぞ。お前は鎧戸の穴から何か見たんだ」 ≪3-54≫

若い刑事は首を横に振った。 ≪3-55≫

「名誉にかけて」と彼は誓った。「殺人犯と兵士の服を着た哀れな男との争い以外は何も見ていない。僕が気づけたのは、あの台詞のおかげだ」≪3-56≫

「奇跡だ!...」老捜査官は繰り返した。「信じられん、凄すぎる!」 ≪3-57≫

「他にも、考えれば考えるほど変だと思えて仕方がない疑念がある。例えば、なぜあの男は逃げないで、僕たちを待って、あの出入口の所で粘って話し続けていたのか、不思議じゃないか」 ≪3-58≫

プサント親父は急に椅子から立ち上がった。 ≪3-59≫

「不思議だと?」と彼は口を挟んだ。「そこに共犯者がいたので、そいつらが逃げる時間を作りたかったんだよ。ああ!…すべてがわかった」 ≪3-60≫

ルコックの唇に勝利の微笑みが浮かんだ。 ≪3-61≫

「僕もそう思った」と彼は続けた。「そして今、僕たちの疑念を確かめるのは簡単だ。外には雪があったよね?...」 ≪3-62≫

それ以上は不要だった。老捜査官は明かりを掴み、店の裏口へと駆け出した。相棒も彼を追った。そこから小さな庭に出た。 ≪3-63≫

そこは風が吹き込まない場所になっていて、雪解けが遅れており、白い雪の絨毯の上に、黒い斑点を散らしたように、数多くの足跡が浮かび上がっていた。 ≪3-64≫

躊躇することなく、ルコックは膝をついて詳しく調べた。そして、すぐに立ち上がった。 ≪3-65≫

「男の靴じゃない!」と彼は言った。「この足跡をつけたのは!…ここに居たのは女たちだ!」 ≪3-66≫
※ 初出紙の連載第5回目(1868-5-31)の終わり