十六 × 二十

本について。時々他のネタも。心臓が悪いのでコメント不可です…

ムッシュ連載3 (第1部第2章)

Henri Lanos (1859-1929)画、Boulanger版(Paris 1884)の挿絵 ≪1-51≫の場面

ジェヴロルが不要と判断した調査を引き継いだ捜査官は、「この世界」ではまだ新人だった。 ≪2-1≫
※ dans «la partie»: この稼業・業界では… というような意味らしい。

名前はルコック。≪2-2≫
※ 『ルルージュ事件』(1865) 第一章でルコックは初登場する。その時の描写。L'aide de camp de Gévrol était, ce jour-là, un ancien repris de justice réconcilié avec les lois, un gaillard habile dans son métier, fin comme l'ambre, et jaloux de son chef qu'il jugeait médiocrement fort. On le nommait Lecoq.(その日、ジェヴロルの副官は、更生した元受刑者で、その仕事に熟練しており、琥珀のように澄み切って感覚が鋭く、自分の上司を平凡だと感じて、嫉妬深い男だった。ルコックと呼ばれていた)

25、26歳の青年で、ひげはほとんどなく、青白い顔に生き生きとした唇、豊かな黒髪はウェーブがかかっていた。背は低めだが、がっしりした体格で、そのわずかな動きにも並外れた活力が見て取れた。≪2-3≫
※ pâle, avec la lèvre rouge: 青白さは室内活動の知的階級を表し、赤い唇は活力を示しているのだろう。
※ 当時のフランス人の平均身長は165〜168cmくらい。なお偉大なる「小男」ナポレオンは170cmくらいだったらしい。当時の長さの単位を誤解したのが原因のようだ。

目立つ特徴はあまりなかった。しかし、その目は、意志の力で点滅する灯台の灯りのように輝いたり消えたりする。そして、その鼻は、広く肉厚な小鼻が驚くほど自在に動いた。≪2-4≫
※ 動く小鼻のイメージは、嗅覚が優れている、という暗示か。

ノルマンディーの裕福で由緒ある家系の息子であるルコックは、良質で堅実な教育を受けていた。 ≪2-5≫

パリで法学の勉強を始めた正にその週に、父親がすっかり破産して亡くなったことを知った。そして母親がその数時間後に亡くなったことも知ったのだ。≪2-6≫

今や彼はこの世で一人きり、頼るものもない…だが、生きていかなければならない。彼は正しく自分の価値を認識した。全くのゼロだった。≪2-7≫

大学は学士号を授与するが、終身年金を与えるわけではない。何という不備だ。孤児にとって高校で学んだ知識など何の役に立つというのか?≪2-8≫

腕に覚えがあるので、勇ましく最初の雇い主の所へ赴き、「仕事をしたい」と言える者たちの人生を彼は羨んだ。 ≪2-9≫

働らく者が食うのである。≪2-10≫
※ テサロニケ人への後の書 3:10 また汝らと偕に在りしとき、人もし働くことを欲せずば食すべからずと命じたりき。

彼は、落伍者たちの宿命である木端仕事に、パンを求めた。報われない仕事だ!パリには十万人の落伍者たちがいる。≪2-11≫

構うものか!…それでも彼は奮闘した。家庭教師をし、訴訟代理人のために書類の筆写もした。ある日は流行雑貨店の売り子として働き、翌月には在庫本を抱えて戸別訪問に回った。広告の仲介人にもなり、寄宿学校の自習監督も務め、保険の飛び込み営業をし、歩合制の訪問販売員にもなった…… ≪2-12≫
※ copia des rôles pour un avoué: 裁判書類の写しを作る筆写係。法律世界の下働き。
※ débuta dans la nouveauté: 百貨店の売り子、ファッション小売。パリ的で都会的な仕事。
※ proposer à domicile des rossignols de librairie: 在庫処分本を押し売りする訪問販売員。ドアを叩いて売れない本を売る仕事。
※ courtier d’annonces: 広告ブローカー、新聞広告の仲介業。新興産業で胡散臭かった。
※ maître d’études: 寄宿学校の監督係。教師ではなく、生徒の自習監視人。
※ dénicheur d’assurances: 飛び込み保険営業。怪しくてしつこい仕事。保険も新興産業で訪問営業が盛んで、胡散臭かった。
※ placier à la commission: 歩合制セールスマン。固定給なし。
※ ここの列挙は、どんどん低い仕事に落ちていく様を描いているようだ。

最後に、彼は権威ある天文学者、モザー男爵の下で職を得た。月百フランで、莫大な計算を清書する日々を過ごしていた。≪2-13≫
※ Moser: ドイツ系と思われるので Mo-zerと発音するようだ。
※ cent francs: ≪1-15≫の換算で九万四千円。ルコックは『オルシバルの犯罪』(1867) 第十章でも天文学者の屋敷でのバイト時代のことを回想しているが、「給料は昼食付きで月額70フランだった(Mon patron me donnait soixante-dix francs par mois et le déjeuner)」と言っている。という事は昼食代が 1フラン(939円)相当だったのかも。

しかし、落胆が訪れた。五年経っても、彼の境遇は変わらなかった。希望が裏切られ、努力が無駄に終わり、侮辱に耐えてきた日々を振り返って怒りに駆られた。 ≪2-14≫

過去は悲しく、現在はほとんど耐え難く、未来は恐ろしいものになりそうだった。 ≪2-15≫

絶え間ない貧困に苛まれながら、彼は少なくとも嫌な現実から逃れ、夢に逃げ込もうとした。 ≪2-16≫

吐き気のするような労働の後、薄汚いねぐらでひとりきりになると、若者のあらゆる欲望が襲ってくる。彼は一夜にして一攫千金を手に入れる方法をあれこれ考えた。≪2-17≫

その考えに取りつかれると、想像はどこまでも走った。やがて彼は、どんな手段でも許されるのだ、と思い始めていた。 ≪2-18≫

空想にふけるうちに、彼は自分の中に、異常な創造力と、悪の本能のようなものを発見した。最も大胆で、最も巧みと評判の盗難事件でさえ、彼の目には、驚くほど不調法なものとしか映らなかった。≪2-19≫

彼は、もし自分が実行するなら…と自問した。さらに探求し、奇妙な組み合わせを見つけ出した。それは成功を約束し、必然的に処罰されぬことを保証していた。彼はその考えに取り憑かれ、一種の妄想となった。結果、この驚くほど正直な青年は、頭の中で最も忌まわしい悪行を犯し続ける日々を送ることになった。その遊びは、自分でも怖くなるほどだった。その考えを実行に移す、理論から実践へと試みるには、ほんの一時間道を外れるだけで良かった。≪2-20≫

そして、あらゆる偏執狂が経験するように、彼の頭脳を満たしていた奇妙な構想が溢れ出す時が来た。 ≪2-21≫

ある日、彼は、自分が考え、熟考した小さな計画を、雇い主に説明せずにはいられなかった。それは、ロンドンとパリの市場で五十万から六十万フランを掻っ攫うと言うものだった。二通の手紙と一通の電報で、その計画は成功する。失敗はありえず、疑われる心配もまったくなかった。 ≪2-22≫
※ cinq ou six cent mille francs: ≪1-15≫の換算で五十万フランは四億七千万円

天文学者は、その手口の単純さに驚嘆し、感心した。しかし、よく考えてみると、才気に溢れ過ぎる秘書を自分のそばに置いておくのは賢明ではないと判断した。 ≪2-23≫

そこで翌日、一か月分の給料を彼に渡し、こう言って解雇した。 ≪2-24≫

「君のような才能があり、かつ貧しい者は、有名な泥棒か、名高い刑事になるだろう。ちゃんと選べよ」 ≪2-25≫
※ policier: イメージとしては「探偵」だが、本訳では「刑事」とした。

ルコックは困惑しながら出て行ったが、天文学者の言葉が彼の心の中に根を張りつつあった。 ≪2-26≫

「そうだなあ」と彼はひとりごちた。「せっかくの助言に従ってみるのも良いのでは?」≪2-27≫

彼は警察に対して嫌悪感を抱いていたわけではない。むしろその逆だった。ジェルザレム通りに中枢があり、あらゆる場所に手を伸ばし、目に見えず耳にも聞こえないが、それにもかかわらずすべてを見聞きする、この神秘的な権力に、彼はたびたび感嘆していた。 ≪2-28≫
※ rue de Jérusalem: Préfecture de police en Parisの所在地(1816-1871)。Sûretéもここにあった。ジェルザレム通りは、現在のシテ島・司法宮周辺の辺り。警察の代名詞。

彼は、この小さな神の手足となるという見通しに魅了された。自分に与えられた特別な才能を有用で名誉ある仕事に生かすこと、情熱的な感情と闘争に満ちた人生、前代未聞の冒険、そして最終的には名声を得ることを彼は夢みた。 ≪2-29≫

結局、天職が彼を支配したのだ。 ≪2-30≫

そのため、翌週、モザー男爵の推薦状のおかげで、彼は補助職員として警視庁治安局に採用された。≪2-31≫
※ d'auxiliaire: 見習いの身分だろう。正式職員の下、のイメージ。

しかし、最初に彼を待っていたのは、かなり残酷な幻滅だった。彼は最終目標は見ていたが、その途中を見ていなかったのだ。純真な演劇愛好家が、初めて舞台裏に入り、遠くから観るとまばゆいばかりの舞台装置や仕掛けを、間近で見てしまった時の驚きを、彼も味わったのだ。 ≪2-32≫

しかし、彼は自分の道を見つけた者の情熱と熱意を持っていた。彼は、成功への欲求を偽りの謙虚さで覆い隠し、遅かれ早かれ自分の優秀さが明らかになることを信じて、忍耐強く努力を続けた。 ≪2-33≫

さて…彼は感じた。彼が切望し、何か月も待ち望んでいたチャンスが、ついに『胡椒入れ』で訪れたのだ。 ≪2-34≫

窓にぶら下がっている間、彼の野心が閃き、成功への道筋を見た。 ≪2-35≫

それは最初は単なる予感に過ぎなかった。しかし、それはすぐ仮説に変わり、そして、誰にも気づかれぬうちに彼が収集し記録していた具体的な事実に照らし合わせて、確信となった。 ≪2-36≫

運は彼に味方していた。ジェヴロルが最も基本的な手続きさえも怠り、この三つの殺人は、関所外地帯のごろつきたちの間で頻繁に起こる激しい喧嘩によるものだと断定的な口調で宣言するのを聞いて、彼は運命の風向きを知った。 ≪2-37≫

「そのまま行け」と彼は思った。「進め、その線で行け、その説に固執しろ。それ以上のことは何も見つけ出せないのだから、見かけを信じろ。新しい僕の理論が、古臭いお前の経験よりも些か優れていることを、お前に見せつけてやる」≪2-38≫

警部の色々な見過ごしを、ルコックがいちいち咎め立てして、自分の優位を示すことも可能だった。しかしそうしなかった。 ≪2-39≫

実績もないのに上司をただ非難すれば、野心が強すぎるとか仲間意識が欠けているというような非難を受けることになる。自尊心の争いが非常に激しく、傷ついた虚栄心が原因で、あらゆる種類の悪意ある仕打ちや小さな裏切りが復讐として降りかかってくるような職業では、それは深刻な結果に繋がる。 ≪2-40≫

そこで彼は、自分の考えが正しかった時に「ほら、言わんこっちゃない!」と言える程度に、だがジェヴロルの闇を照らさない程度に、ほどよく話した。≪2-41≫

彼が得た許可は、勝利の第一歩であり、実に良い兆しであった。しかし彼はそれを胸に仕舞って、いかにもさらりとした口調で、同僚の一人に、一緒に残ってくれないか、とお願いした。 ≪2-42≫

そして、他の者たちが立ち去ろうとしている間、彼はテーブルの隅に座り、まるで何が起きているのか全然理解していないふりをした。自分の喜びや、自分の野望が、表情から明らかになってしまうのではないかと心配して、あえて顔を上げようとはしなかった。 ≪2-43≫

内心では、彼は非常にいらいらしていた。殺人犯の方は、逃亡防止の念の為の措置に快く応じたが、シュパン後家は、まるで生きたまま焼かれるかのように叫びながら抵抗したため、四人がかりで手首を縛らなければならなかった。 ≪2-44≫

「さっさと済ませちまえよ!」とルコックは思った。≪2-45≫

しかし、ついに終った。ジェヴロルは出発の命令を下し、残る部下に嘲笑的な別れの言葉をかけてから、一番最後に出て行った。 ≪2-46≫

彼はそれに返事をしなかった。巡回隊が本当に遠ざかるのを確認するため、ドアの敷居まで進んだ。 ≪2-47≫

ジェヴロルが考え直し、自分の権限で事件を再調査すると主張して戻ってくるのではないかと、非常に心配していた。 ≪2-48≫

その不安は無駄だった。徐々に男たちの足音は遠ざかり、シュパン後家の叫び声は夜の中に消えていった。何も聞こえなくなった。 ≪2-49≫

そこでルコックは室内に戻った。もはや喜びを隠す必要はなく、彼の目はキラキラ輝いていた。帝国を手中に納めた征服者のように、彼は地面を踏み鳴らし、叫んだ。 ≪2-50≫

「さあ、いざ勝負だ!…」 ≪2-51≫
※ 初出紙の連載第4回目(1868-5-30)の終わり
※ Maintenant, à nous deux!: バルザックゴリオ爺さん』(1835)の最後のセリフの引用のようだ。私は未読。最後のシーンだけを確認のために読んだ。「これから(俺とパリとの)サシで大勝負をやったるでぇ!」と主人公が決意を宣言する場面。ここでは「僕と事件」の勝負という意味か? このセリフ、現代でもまだ現役で使えるらしい。

 

(つづく)

 

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