
だが彼が思っていたほど、力は残っていなかった。 ≪1-127≫
怒りが与えたのは一瞬の力だけで、それは残っていた脈打つ命と引き換えだったのだ。 ≪1-128≫
彼は再び叫ぼうとしたが、声は出なかった。二度、口を開けたが、喉から漏れたのは怒りに満ちた弱々しい呻きだけだった。 ≪1-129≫
彼の意識が現れたのは、それが最後だった。血の泡が唇に浮かび、ぐるりと白目を剥き、体が硬直した。そして最後にひとつ痙攣すると地面に倒れ伏した。 ≪1-130≫
「終わった」とジェヴロルは呟いた。 ≪1-131≫
「まだです」と、活躍が著しかった例の若い捜査官が応じた。「でもあと十分も持たない。哀れな奴め…もう何も話せない」≪1-132≫
治安局警部はすっと立ち上がり、まるでこの世で最もありふれた光景を目撃したかのように平静を保ちながら、ズボンの膝の埃を丁寧に払っていた。 ≪1-133≫
「何だよ!…」と彼は答えた。「それでも調べれば判ることがある。この若者は兵隊だ。外套のボタンには連隊番号がある、ほらこれだ!…」 ≪1-134≫
若い捜査官は笑いをこらえ、唇が歪んだ。 ≪1-135≫
「将軍、それは違うと思います」彼は言った。 ≪1-136≫
「しかしだな…」 ≪1-137≫
「ええ、分かっております。軍服姿を見て、あなたはそう思われた… ところが!…違います。この不幸な男は兵士ではなかった。証拠なら、その場で十でも挙げましょうか? 見てください、軍規どおりの短髪になっていますか? 肩まで髪を伸ばした兵隊を見たことがありますか?」≪1-138≫
※ 当時の一般兵士は短髪(en brosse 五分刈り)が規則だったが、口髭は一般的だった。
異論が来て、将軍は唖然としたが、すぐに立ち直った。 ≪1-139≫
「俺の目は」と荒っぽく言った。「節穴だと思ったのか?お前の指摘なんか俺も気づいていた。ただ、こう思っただけだ---こいつは休暇で床屋をサボっていただけじゃないか、とな」 ≪1-140≫
「ただ少なくとも…」≪1-141≫
だがジェヴロルは、差し出ぐちを許さなかった。≪1-142≫
「もう十分だ!」彼は、はっきり言った。「何が起こったか、すべてはこれから判る。シュパン女将、あのアマは、死んじゃいないんだからな!」≪1-143≫
そう言いながら、彼は階段に頑なにしゃがみ込んだままの老婆へと歩み寄った。巡回隊が入ってきてから、彼女は一言も発せず、身動きもせず、視線すら向けなかった。ただ、呻き声だけが途切れることなく続いていた。 ≪1-144≫
ジェヴロルは素早い動きで、老女が頭にかぶっていた前掛けを引き剥がした。すると、歳月と放蕩と貧困、そして大量の蒸留酒とカシス酒が作り上げた姿が露わになった。皺だらけで、萎びて縮み、歯は抜け落ち、声は枯れ、骨の上に残っているのは皮膚だけ。古びた羊皮紙よりも黄ばみ、乾ききっていた。 ≪1-145≫
「さあ、立て!…」と警部が言った。「ああ!お前が嘆いても、まったく胸に響かんぞ。お前に相応しいのは鞭打ち刑だ。酒に忌まわしい薬を混ぜて、酔っ払いの脳に熱狂の炎を灯してるんだからな」 ≪1-146≫
老婆は赤くなった小さな目をぐるりと部屋の中へ向け、涙声で訴えた。 ≪1-147≫
「なんて不幸だろう…!」と彼女は呻いた。「どうしたらいい? 全部が壊れた、粉々に! あたしゃ破滅だよ」 ≪1-148≫
悲しんでいたのは、食器の損失のことだけのようだ。 ≪1-149≫
「さて」とジェヴロルが尋ねた。「どうして喧嘩になった?」 ≪1-150≫
「ああ…アタシにもさっぱりわからないんです。上で息子のぼろ服を縫い直していたら、口論の声が聞こえてきて…」 ≪1-151≫
「それから?」 ≪1-152≫
「そりゃ当然、降りて行って、そこに倒れてる三人が、あんたが縛ったあの、哀れな無実の男に言いがかりをつけてるのを見たんですよ。彼は無実ですよ、アタシが正直女であるのと同じくらいホントです。もし息子のポリットがいたら、間に割って入ってくれたでしょうに。でもアタシはただの後家、何が出来るっていうんですか? 衛兵を呼ぼうと、力の限り叫んだんです…」 ≪1-153≫
※ à la garde:gardeは「衛兵」。当時のイメージなら国家憲兵(gendarmerie)のこと。武装した制服の兵士兼警察官。
彼女は証言を終えると、これで十分だと思い、再び腰を下ろした。しかしジェヴロルは乱暴に彼女を立ち上がらせた。 ≪1-154≫
「おい、まだ終わってない」と彼は言った。「もっと詳しく話せ」 ≪1-155≫
「何の事ですか、ねえ、ジェヴロルの旦那。アタシは何も見ていないんですよ」 ≪1-156≫
威張った警部の耳が、怒りでどんどん赤くなってゆく。 ≪1-157≫
「喋れ、婆あ」と彼は言った。「逮捕されたいのか?」 ≪1-158≫
「なんてひどい仕打ちでしょう」 ≪1-159≫
「黙り続けるなら、そうなっちまう。サン=ラザールの半月で、嫌でも口が軽くなるさ」 ≪1-160≫
※ Saint-Lazare: 女性収容を主目的とした刑務所で、売春婦の拘禁施設としても機能した。1794年から女性中心となった。
その名を聞くとシュパン後家は電気で撃たれたようになった。白々しい嘆きをかなぐり捨てて、立ち上がり、勇ましく両拳を腰に当て、ジェヴロルとその手下たちを罵倒し始めた。お前たちはわたしの家族を狙っている、とまくし立てる。すでに彼女の立派な息子は逮捕されていたのだ。さらに彼女は刑務所を恐れていないと断言し、むしろそこなら貧しさから解放されて生涯を終えられるので嬉しいよ、とまで言いはなった。≪1-161≫
将軍は一瞬、この嫌な性悪女を黙らせようとしたが、力ではどうにもならないと悟った。それに部下たちは皆、笑っていた。そこで将軍は彼女に背を向け、殺人犯の方へ進んだ。≪1-162≫
「お前の言い分を聞こう。拒みはせんだろうな」 ≪1-163≫
男は一瞬ためらった。 ≪1-164≫
「もう話した」ようやく彼は答えた。「言いたいことは全部言った。俺は無実だと断言した。俺の手で打ち倒され死にかけてる男と、あの老婆も俺の主張を裏付けた。これ以上何を望む? 判事の尋問なら、答えるかもしれん。それまでは、一言も期待しないでくれ」 ≪1-165≫
男の決意が揺るぎないことは明らかだった。それは老練な治安局警部にとって驚くべきことではなかった。 ≪1-166≫
犯罪者たちは往々にして、最初の段階であらゆる質問に対して絶対的な沈黙を貫く。そうした者こそ経験豊富で巧妙、予審判事に眠れない夜を用意する者たちだ。 ≪1-167≫
※ juge d'instruction: ナポレオン期(1808年)に整備されたフランス独特の司法官。刑事捜査を主導し、取調べと証拠収集を行う。検察官と裁判官の中間的な役割を持つ。
彼らは知っている、防御策は即興では出来ない。反対に、忍耐と熟考が必要で、全てが論理的に整合し連鎖していなければならない。 ≪1-168≫
現行犯逮捕の混乱の中で、いかにも取るに足らぬ返答が、捜査の過程では恐ろしい結果を招きかねない――それを知っている犯罪者は、沈黙を守り、時間を稼ぐ。 ≪1-169≫
それでもさらに、ジェヴロルが尋問しようとした時、「兵士」が息を引き取ったと告げられた。 ≪1-170≫
「そういう事なら、お前たち」と彼は言った。「隊のうち二人はここに留まり、俺は残りと戻る。警察署長を叩き起こして、事件を引き渡そう。あとは向こうの判断次第で動けばいい。いずれにせよ、これで俺はお役御免さ。さあ、お客さんの足をほどき、シュパン女将の手を軽く縛っておけ。ついでに派出所へ放り込むぞ」 ≪1-171≫
※ le commissaire de police: ≪8-30≫によると所轄の署長である。
捜査官たちは全員急いで従った。ただし最年少の、さきほど将軍から褒められた男だけは例外だった。 ≪1-172≫
彼は上司に近づき、話がしたいと合図を送ると、外へ連れ出した。 ≪1-173≫
店から数歩離れたところで、 ≪1-174≫
「何だってんだ?」とジェヴロルが尋ねた。 ≪1-175≫
「将軍がこの事件について、どうお考えなのかお伺いしたいのです」 ≪1-176≫
「お前なあ、俺はこう考えてる。この物騒な場所でチンピラが四人、偶然出会った。言い争いが暴力になり、一人が拳銃を持っていて、他の三人を殺した。話は簡単だ。犯人の前歴と被害者どもの前歴しだいで裁きが決まる。ひょっとすると社会は奴に礼を言うべきかもしれんな…」≪1-177≫
「ではこれ以上の捜査や調査は無意味だとお考えですか?」≪1-178≫
「まったく無駄だ」 ≪1-179≫
若い捜査官は考え込んでいる様だった。≪1-180≫
「しかし将軍、私にはこの事件はまだ完全には明らかではないように思えるのです。殺人犯をよくご覧になりましたか?その態度や眼差しを?… 私には、どうも気になる点がありまして…」 ≪1-181≫
「それで?」≪1-182≫
「そうですね!…間違っているかもしれませんが、つまり、表に現れているものが、真実を隠しているように思えるのです。ええ、私には違和感があります…」 ≪1-183≫
「え?…詳しく説明してみろ?」 ≪1-184≫
「猟犬の嗅覚を、どう説明したらよいでしょうか?」 ≪1-185≫
警察の中でも選り抜きの実証主義者、ジェヴロルは驚くほど大きく肩をすくめた。≪1-186≫
「簡単に言えばだな」と彼は言った。「お前はここでメロドラマを想像している…仮装した貴族たちの密会、舞台はシュパンの店『胡椒入れ』だ…アンビギュ座で上演してる様なヤツだな…じゃあ調査してみろよ、若いの、調査してみろ。俺が許す…」≪1-187≫
※ l'Ambigu: パリ10区にあった1769年創設の劇場。1830〜1860年代が最盛期。扇情的なメロドラマで人気を博した。
「えっ!…許可をいただける…?」 ≪1-188≫
「いや、俺の命令だ。お前はここに残れ。相棒は好きに選べ…そして俺が見落とした何かを見つけたら、そのときは俺にメガネを買ってくれていいぞ」≪1-189≫
※ 初出紙の連載第3回目(1868-5-29)の終わり
(つづく)
コメント欄を設けました。別ページに飛びます。
https://danjuurockandroll.hateblo.jp/entry/2026/02/05/013007
コメントは承認制です。