
Monsieur Lecoq は Émile Gaboriau作の連載探偵小説で、パリの日刊紙Le Petit Journalに連載され、 パリの出版社 l'éditeur Dentu から 1869年に二巻本で出版された。
連載時は.
1 partie. Le Meurtre(殺人) : 27 mai – 31 juillet 1868,
2 partie. L’Honneur du nom(名前の誉れ) : 7 août – 3 décembre 1868
間に一週間の休載がある。
仏文テキストは Project Gutenberg 2008, updated 2013 を基本に、Huitième édition, Dentu, Paris 1875を参照した。
従来の邦訳は以下の通り。
🟣『世界大衆文学全集26 ルコック探偵』 田中早苗訳(改造社 1929)
🟢『世界推理小説大系第二巻 ガボリオ: ルコック探偵』永井郁訳(東都書房 1964)
🔴『ルコック探偵』松村喜雄訳(旺文社文庫 1979; グーテンベルク21 2004)
その他、少年向けリライト版のうち以下を参考にした。いずれも内容や用語から判断して改造社版を元にしている。
🟡『世界名作物語 名探偵ルコック』江戸川乱歩(講談社 1948)
🟤『少年少女世界の名作文学22 フランス編4 : ルコック探偵尾行命令』氷川瓏訳(小学館 1964)
英訳は、以下の英国ヴィゼテリー版を底本としたが、初出(どこの出版社か調べつかず)の米国版ローラ・ケンドール訳をほぼ踏襲しているようだ。Gutenberg版はVizetellyと明記していないが、少なくとも、第一巻はVizetellyと同じように思う。
🔵 "Lecoq, the Detective" [translated by Mrs. Laura E. Kendall] (Vizetelly & Co., London 1886; Gutenberg Project 2006, updated 2016, under the title "Monsieur Lecoque")
英訳は他に、"Monsieur Lecoq" (ed. E. F. Bleiler, Dover 1975) 及び "Monsieur Lecoq" (Charles Scribner's Sons, New York 1906)を参照した。Scribner's 1906は、基本的にVizetellyと同じ英語だが、段落わけや章立てをVizetellyがかなり変更しているのに比べて、Scribner'sの方は仏文テキストと合わせ、原文をもれなく翻訳しようとしている。Vizetellyの方は、全体の5%くらいの省略がある。特に第二部は省略が多い。表現もVizetellyとScribner'sで若干異なるところがあった。
【献辞】
アルフォンス・ミロー(プチ・ジュルナル編集長) 様へ
本書は、編集長に捧げるのではありません…
日常の友であるあなた、親愛なるアルフォンスに献呈するのです
心からの深い愛情の証として
あなたに忠実な
エミール・ガボリオ
* * *
ムッシュー・ルコック 第一部 捜査
I
一八…年二月二十日、日曜日、ちょうど謝肉祭の日曜日であった。夜十一時頃、 治安局所属の巡回隊が古いイタリア関所の派出所を出発した。 ≪1-1≫
※ le dimanche gras: 宗教的に正確な用語ではないと思うが「謝肉祭の日曜日」とした。皆で飲んで肉食って踊って、大騒ぎとなる日だったのだ。
※ sûreté: 詳細は素晴らしい瀬名論考https://honyakumystery.jp/23313参照。本訳では訳語を「治安局」としておく。
※ du poste de police: 分署レベルなのか派出所程度なのか。勝手な推測だが規模は小さい気がした。本訳では「派出所」とした。
※ barrière: 旧パリ市域を囲む城壁には、沢山の「関所」があった。
※ barrière d'Italie: ルイ王朝時代は農業関税の関所の一つだったようだ。≪11-1≫などではこのあたりをイタリア広場(place d'Italie)と呼んでいる。
※ 186--: なぜかVizetellyは1860年代だとしている。この小説の作中現在は「ムッシュー・ルコックへの助走2」を参考願います。
この巡回の任務は、フォンテンブローへの道からセーヌ川まで、外側大通りから始まってパリ防壁に至る広大な地区を探索することであった。 ≪1-2≫
※ Fontainebleau: 音訳は今でもフォンテーヌブローが多め?
※ boulevards extérieurs: 具体的な範囲をGeminiで調べた。内容未精査。
ア) 西側: Boulevard Auguste Blanqui 当時はここに「徴税請負人の壁」があり、そのすぐ外側がこの通り
イ) 東側: Boulevard Vincent Auriol 当時はBoulevard de la Gare
ウ) 北側(市内中心へ): Boulevard de l'Hôpital イタリア広場からセーヌ川(オステルリッツ駅方面)へ続く道
※ fortifications: 1840年代に築かれたパリ外郭の近代要塞線。旧パリ市域を囲っていた城壁の堡塁のこと。Enceinte de Thiersは1844年に完成した。一般的用語ではないので「防壁」と訳す。
この人里離れた辺境は当時、現在のアメリカ採石場のような悪名高い評判があった。≪1-3≫
※ les carrières d'Amérique: 現在のMouzaïa地区にあった石膏の採石場。アイルランド人Fitz Méraldが1810年代に開発。露天掘りで、米国ホワイトハウスの材料も此処から運ばれた、と言う(未確認の)噂もあった。1860年代には大部分が放棄された。1869年にHenry Harrisseという人が「泥棒、詐欺師、浮浪者が住み着いている」と記録している。1873年に最後の採掘場が閉鎖された。ギブスの英語でplaster of Parisだけど、パリは石膏の名産地だったんだね。
夜間に足を踏み入れるのは危険極まりない地帯とされ、休暇でパリに遊びに来る要塞の兵士たちなどは、関所で待ち合わせ、三、四人ずつ集まってから通行するよう指示されていた。 ≪1-4≫
数多くの空き地が依然として残っており、真夜中を過ぎると、そこはごろつきどもの住処となる。身寄りも隠れ場所もない、最低の宿屋の形式的な手続きさえ好まない、哀れな浮浪者どもだ。 ≪1-5≫
流浪者と前科者がそこで出会う。幸運に恵まれた日などは、店頭から盗んだ食料で宴を催した。眠気が襲うと、工場の軒下や打ち捨てられた家の瓦礫のあいだに身を潜めた。 ≪1-6≫
このような危険な住人を追い出すためあらゆる手段が講じられたが、最も強力な措置さえも無駄に終わった。 ≪1-7≫
監視され、追跡され、嫌がらせを受け、常に襲撃の脅威にさらされながらも、彼らは愚直な執念で戻ってくる。如何なる神秘的な吸引力があるのか、誰もが不思議に思っていた。 ≪1-8≫
警察がそこに巨大なネズミ捕りのような罠を仕掛けても、獲物は自ら進んで捕らえられにやって来た。 ≪1-9≫
ただ捜索さえすれば確実に成果はあがるので、派出所主任は遠ざかる部隊に揺るぎない確信を込めて叫んだ。≪1-10≫
※ le chef de poste: 第11章で再登場する。
「いつものように、常連たちの部屋を用意しておくぞ。狩を大いに楽しめ!」 ≪1-11≫
だが最後のセリフは、純然たる反語表現だった。なぜなら天候は最悪だったからだ。≪1-12≫
数日前から雪が降り積もって、それが解けはじめていた。通行量が多い道のあちこちに半ピエ(16cm)もの泥がぬかるんでいた。気温は依然として非常に低く、骨の髄まで凍るような湿った寒風が吹いていた。加えて、霧が非常に濃く、伸ばした腕の先の自分の手すら見えない。 ≪1-13≫
※ pied: 長さの単位。約30.5mmだが、当時ならメートル法以前の32.48mmのイメージが残っていただろう。
「なんて嫌な業務だ!」一人の捜査官が文句を言った。 ≪1-14≫
※ agent: 本訳では「捜査官」と翻訳して、policier(刑事)と区別した。
「ああ」と巡回隊を指揮する警部が応じた。「不労所得がたったの三万フランでもありゃ、お前は絶対ここに居ないさ」 ≪1-15≫
※ 既訳は何故かいずれも金額を微妙に間違っている(改造×20000、旺文×3000、◯30000)。下で示したように試算しないと実感が湧かないので、間違えてもスルーしちゃうよね。
※ trente mille francs: フランスの物価指数を今世紀初めや前世紀まで遡って計算出来る便利なサイトはまだ存在しないようだが、私は『マクミラン: ヨーロッパ歴史統計1750-1993』の生計費表とフランス消費者物価のサイト(inflation calculator: France 1960?年以降が有効)を使って試算した。1FRA(1850旧フラン)=34.07FRF(2025新フラン)=5.19EUR(2025)=939円(2025) 従って三万フランは約二千八百万円。
仏物価指数1850/1914で76:100、1914/1948で17:1664、1948/1961で63:138、つまり1850/1961で282.12倍(但し1960年にフランは1/100のデノミを実施しているのでFRFベースでは2.82倍)、ネット上の仏物価指数1961/2025で12.69:153.3(12.08倍) 結果1850/2025で34.07倍。
金基準で計算すると1850/1961で1.62FRFとなるので、 1850/2025で19.57FRF=2.98EUR=539円
粗野な冗談だったが周りは大いに笑った。愛想笑いではなく、部下たちは上司の明白な優位性を認めて信頼し、讃えているようだった。 ≪1-16≫
実際、この警部はパリ警視庁で最も評価の高い職員の一人であり、確かな実績を残していた。 ≪1-17≫
※ Préfecture: 一回だけ「パリ警視庁」と訳した。詳細は瀬名論考≪1-1≫参照。
洞察力はそれほど優れていないかもしれないが、仕事を奥底まで理解し、いろいろな手段や手口、策略を熟知していた。さらに現場経験から、揺るぎない落ち着きと圧倒的な自信が備わっていて、ある種の荒っぽい交渉術で、傍目には有能と見える手腕を十分に発揮していた。 ≪1-18≫
こうした長所と短所に加え、疑いようのない勇敢さも備えていた。 ≪1-19≫
最も凶悪な犯罪者の首根っこを捕らえるのも全く平気で、彼にとっては信心深い女性が聖水盤に指を浸すのと同じくらいの行動だった。 ≪1-20≫
四十六歳で、がっしりとした体格に荒々しい顔立ち、恐ろしいほどの口ひげ、もじゃもじゃの眉毛の下に小さな灰色の目をしていた。 ≪1-21≫
本名はジェヴロルだったが、皆は「将軍」と呼んだ。≪1-22≫
※ Gévrolは『ルルージュ事件』(1865) 第一章から登場する。ルコックの上司だが、ルコックは内心軽蔑しており、ジェヴロルの発言にチャチャを入れる。『ルルージュ』では Général とは呼ばれていない。
※ Généralには日本語の「大将」のような揶揄うようなニュアンスはなさそう?
このあだ名は彼の並大抵ではない虚栄心をくすぐり、部下たちもそれを承知していた。 ≪1-23≫
おそらく彼は、その称号に相応しい威厳が自身にもそれなりに備わっていると考えていたのだろう。 ≪1-24≫
「この程度で弱音を吐くのか」と彼は叱った。「じゃあこの先何て言うつもりだ?」 ≪1-25≫
実際のところ、まだ文句には早かった。 ≪1-26≫
小編成の部隊はその時、ショワジーへの道を進んでいた。歩道は比較的きれいで、立ち並ぶ呑み屋の明かりで照らされ、歩くのに困らなかった。 ≪1-27≫
※ Choisy: パリの南側Choisy-le-Roiのことだろう。北緯48.76, 東経2.41
※ les boutiques des marchands de vins: 立ち呑み屋。酒はコップ単位の販売。労働者相手の安酒場。かなり遅くまで開いていた。
すべての店がまだ開いていた。どんな濃霧や雪解けも、陽気な連中を挫くことはできない。関所外地帯のカーニバルは酒場で酔いしれ、ダンスホールで踊り狂っていた。 ≪1-28≫
※ carnaval
※ barrière: 関所外地帯には税金免れで自然発生的に安酒場などが集結し、歓楽街が出来ていた。
開いた窓からは、怒号と狂ったような音楽の塊が交互に漏れ出していた。ときどき現れるのは、千鳥足で車道をよろめき歩く酔っ払い、あるいは仮面の男。泥で汚れているのだが、人目を避ける影のように家並みの壁沿いをすり抜けていく。≪1-29≫
幾つかの店の前で、ジェヴロルは「止まれ!」と命じた。口笛を独特の調子で吹くと、ほぼ同時に男が現れた。あらかじめ潜入していた捜査官だ。報告を聞いてから、部隊は通り過ぎた。 ≪1-30≫
少しずつだが、防壁に近づいていった。明かりはまばらになり、家々の間は広く空いていた。 ≪1-31≫
「全体、左向け左!」ジェヴロルが命じた。「イヴリーへの街道に合流する。そこから最短ルートでシュヴァルレ通りへ向かう」 ≪1-32≫
※ la route d'Ivry
※ la rue du Chevaleret
この地点から、遠征は非常に困難なものとなった。 ≪1-33≫
巡回隊は、辿るのも大変な、名もない小路に差し掛かった。あちこち凹み、瓦礫が散乱していて、霧と泥と雪で危険な道を進んで行く。 ≪1-34≫
もはや明かりも酒場もなく、足音も声もなく、ただ孤独と闇と沈黙だけがあった。 ≪1-35≫
パリから千マイルも離れた地にいるようにも思われたが、大都市からは深遠で絶え間ない騒音が湧き上がり、地の底から轟く咆哮のように響いていた。 ≪1-36≫
捜査官たちは全員、ズボンを足首より上に捲り上げ、一歩一歩、足場を確かめながらゆっくりと進んでいた。まるで戦いを目前にしたインディアンのようだ。 ≪1-37≫
シャトー・デ・ランティエ通りを過ぎた頃、突然、物凄い叫び声が空間を裂いた。 ≪1-38≫
※ la rue du Château-des-Rentiers: この場面の場所は北緯 48°49'50"、東経 2°22'10"付近とGeminiが推察、ただし未確認。(グーグルマップ表記の緯度経度: 48.830556, 2.369444)
この時刻、この場所で、この叫びは恐ろしくも意味ありげであったため、男たちは一斉に足を止めた。≪1-39≫
「将軍、聞こえましたか?」と一人の捜査官が小声で尋ねた。 ≪1-40≫
「ああ、確かに近くで誰かが殺られたな…だがどこだ?静かに、耳を澄ませ」 ≪1-41≫
全員が息を殺し、耳を澄ませてじっと動かない。すると間もなく、二度目の叫び声、むしろ遠吠えのようなもの、が響き渡った。 ≪1-42≫
「おい!」 治安局警部が叫んだ。「『胡椒入れ』からだ」≪1-43≫
※ la Poivrière: ペッパーミル型の胡椒入れのことらしい。ペッパーボックス式の古式拳銃もフランス語ではpoivrièreというようだ。
この奇妙な名称は、それ自体で、どんな場所だか、普段どんな連中が出入りしているかを物語っていた。≪1-44≫
モンパルナス界隈で使われる隠語で「胡椒」とは、理性をコップの底に置いてきた酒飲みのことだ。そこから「胡椒入れの盗人」という表現が生まれた。無防備になった哀れな酔っ払いたちを狙う悪党たちのことだ。 ≪1-45≫
※ poivre: 本文に書いてあるような意味はロベール大仏和に無し。下のHayard辞書にも載っていなかった。
※ poivrier: Gutenbergで見つけた『フランス語隠語辞書』(Dictionnaire Argot-Français 1888 par Napoléon Hayard)にPoivrier.—Dévaliseur d'ivrognes.(酔っ払いの強盗)と書いてあった。
※ poivrier: 『オルシバル』でもこの単語が登場する。Les filous de Paris--la capitale de l'intelligence--en sont encore au vol à l'américaine et au vol au poivrier(知性の都パリのスリどもは、今なおアメリカ人と沈没した酔っ払いに頼っている)
その名は、しかし、捜査官たちに全然響かなかった。 ≪1-46≫
「なんと!」とジェヴロルが続けた。「右手向こうの、シュパン婆の酒場を知らないのか。駆け足、足元に気をつけろ!」 ≪1-47≫
自ら先頭に立って、彼は指示した方向へ駆け出した。部下たちも続き、一分も経たぬうちに、空き地の真ん中に建つ不気味な居酒屋に到着した。≪1-48≫
間違いなく叫び声はこの怪しい店から発せられていた。さらに新たな悲鳴が上がり、続いて銃声が二発響いた。 ≪1-49≫
店は完全に閉まっていたが、鎧戸に開けられたハート模様の隙間から、炎と思われる赤みを帯びた光が漏れていた。 ≪1-50≫
一人の捜査官が窓の一つに駆け寄り、腕の力だけで体を持ち上げ、隙間から内部の様子を覗き込もうとした。≪1-51≫
ジェヴロルの方はドアへ駆け寄った。≪1-52≫
「開けろ!…」と彼は激しく叩きながら命じた。返事はない。≪1-53≫
しかし激しいもみ合いの音、罵声、うめき声、そして時折、女の嗚咽がはっきりと聞こえた。≪1-54≫
「なんてことだ!」鎧戸にしがみついていた捜査官が叫んだ。「酷い!」≪1-55≫
この叫びでジェヴロルは決心した。≪1-56≫
「警察だ!」彼は三度叫んだ。≪1-57≫
※ Au nom de la loi: 田中訳「御用だッ」は時代がかって良いねえ。
誰の返事もなかったため、彼は一歩下がり、勢いをつけて、破城槌のような力強い肩の突きで扉を打ち破った。≪1-58≫
※ 初出紙の第1回目(1868-5-27)はここまで。
すると、鎧戸の隙間に目を押し当てていた捜査官が、恐怖で叫んだ理由が明らかになった。≪1-59≫
『胡椒入れ』の土間では、あまりに凄惨な光景が繰り広げられていた。そこにいた全ての治安局職員たち及びジェヴロル自身も、一瞬その場に釘付けになり、言い表せない恐怖に凍りついた。 ≪1-60≫
酒場内の全てのものが、熾烈な争いを物語っていた。関所外地帯の安酒場を血で染めることが多い、あの野蛮な「乱闘騒ぎ」の一幕だ。 ≪1-61≫
諍いが始まると同時に蝋燭は消えたようだが、松材の薪の明るい炎が隅々までを照らし出していた。 ≪1-62≫
テーブル、グラス、瓶、調理器具、薄剥げた腰掛け――すべてがひっくり返され、無造作に投げ捨てられ、壊され、踏みつけられ、粉々に砕かれていた。≪1-63≫
暖炉の近くでは、通路をふさいで、二人の男が倒れていた。仰向けになり、腕を左右に大きく広げ、微動だにしない。三人目は土間の真ん中に横たわっていた。≪1-64≫
右の奥、二階へ続く階段の一段目に、女がしゃがみ込んでいた。前掛けを頭にかぶり、言葉にならないうめき声をあげていた。≪1-65≫
向かい側には、奥の間への通行扉が大きく開いており、その枠の真ん中に、硬直し青ざめた一人の男がまっすぐ立っていた。その前に重厚な樫のテーブルが障害物のように置かれている。≪1-66≫
※ Scribner's版にイラストあり
年配の男で、中背、いちめん鬚だらけだった。≪1-67≫
その服装は、セーヌ川埠頭の荷役夫のようなものだったが、ぼろぼろで泥と酒と血で汚れていた。 ≪1-68≫
※ quai de la Gare: パリのセーヌ川左岸に実在する地名(13区)
これがきっと殺人犯だ。 ≪1-69≫
その顔つきは恐ろしかった。目には狂気の炎が燃え上がり、痙攣的な嘲笑が顔に張り付いている。首と頬の二か所に傷があり、血がたくさん流れ出ていた。 ≪1-70≫
格子縞のハンカチを巻いた右手に、五連発拳銃を握りしめ、銃口は捜査官たちに向けていた。 ≪1-71≫
※ un revolver à cinq coups: 1836年発表のColt Pattersonが嚆矢だろう。
「降伏しろ!」とジェヴロルが叫んだ。≪1-72≫
男の唇が動いた。ずいぶん努力していたが、一言も発することができなかった。≪1-73≫
「余計な真似をするなよ」と治安局警部は続けた。「すっかり囲んでいる。逃げられんぞ。さあ、武器を捨てろ!」≪1-74≫
「俺は無実だ」男はかすれ声で言った。≪1-75≫
「そうだろうな、だがこっちの知ったことじゃない」≪1-76≫
「俺は襲われた。あの婆さんに聞いてみろ。俺は身を守っただけだ。殺したが、正当防衛だった!」≪1-77≫
言葉に添えた身振りがとても威嚇的だったので、半分戸外に留まっていた一人の捜査官がジェヴロルを激しく引き寄せながら言った。 ≪1-78≫
「気をつけて、将軍!要注意です!…あの悪党の拳銃は五連発ですが、聞こえたのは二発だけです」≪1-79≫
しかし治安局警部は恐怖に屈せず、部下を押しのけて再び前に進み出た。そしてより穏やかな口調で続けた。≪1-80≫
「馬鹿な真似はダメだよ、にいさん。もしあんたの言い分が正しいなら、あり得ない話とは言わん…だから事を台無しにするんじゃない」≪1-81≫
男の顔に恐ろしいほどの迷いが浮かんだ。ジェヴロルの命は彼の指先次第だった。引き金を引くか? ≪1-82≫
違った。彼は激しく武器を地面に投げつけ、こう叫んだ。 ≪1-83≫
「じゃあ俺を捕まえに来い!」≪1-84≫
そして振り返ると、身を翻し、隣の部屋へ飛び込もうとした。かねて承知の裏口か何かから逃げ出そうとしたのだ。 ≪1-85≫
ジェヴロルはその動きに気づいた。彼自身も素早く動き、腕を伸ばして飛びかかろうとしたが、テーブルに阻まれた。 ≪1-86≫
「ああ!…」と叫んだ。「奴が逃げる」 ≪1-87≫
だが悪党の運命は既に決まっていた。 ≪1-88≫
ジェヴロルが話している間に、一人の捜査官--窓から見た者--が家を回り込み、裏口から侵入していた。≪1-89≫
殺人犯が勢いづいて出たとき、彼は飛びかかって相手のベルトを掴み、驚くべき力と器用さで押し返した。 ≪1-90≫
男はもがき抵抗した。だが無駄だった。バランスを崩し、防御に使っていたテーブル越しに倒れながら、周りの誰もが聞き取れるほど大きな声で吐き捨てた。≪1-91≫
「やられた!来たのはプロシア人か!」≪1-92≫
※ 原文: --Perdu! C'est les Prussiens qui arrivent.
この単純で効果的な行動は、勝利を確かなものとし、治安局警部を大いに喜ばせた。 ≪1-93≫
「いいぞ、若いの」彼はその部下に言った。「実に良い!…ああ、お前には才能がある。機会があれば、きっと偉くなれる…」≪1-94≫
彼は途中でやめた。部下全員があきらかに彼と同じように感じていると気づき、嫉妬に駆られたのだ。自らの威信が損なわれないよう、急いで付け加えた。 ≪1-95≫
「お前の考えは俺にも浮かんだ。だがあの野郎に気づかれる恐れがあったから、口に出せなかったのだ」 ≪1-96≫
この言い訳は余計だった。捜査官たちはもはや殺人犯だけに集中していた。彼を取り囲み、手足を縛った後、椅子にしっかりと括り付けた。 ≪1-97≫
彼は黙って従った。激しい興奮は過ぎ去り、過ぎた努力の後に必ず訪れる陰鬱な虚脱感が彼を支配していた。その表情はもはや人を寄せ付けない無感覚、罠にかかった猛獣の呆然とした状態を映すだけだった。明らかに彼は諦めており、身を委ねていた。 ≪1-98≫
ジェヴロルは、部下が仕事を終えたのを見ると、こう命じた。≪1-99≫
「さあ、他の連中のことを調べてみよう。暖炉がほとんど燃え尽きたから、明かりを照らしてくれ」 ≪1-100≫
治安局警部は、出入口を邪魔するように倒れている二人の男から調べ始めた。≪1-101≫
彼は二人の心臓の鼓動を確かめた。心臓はもう動いていなかった。≪1-102≫
懐中時計のガラス面を彼らの唇に近づけた。ガラスはきれいに輝いたままだ。 ≪1-103≫
「反応なし!」彼は幾度か試みた後、呟いた。「何もない。二人とも死んでいる。あの野郎はちゃんと仕留めたわけだ。司法が到着するまで、動かさずにおこう。さて三人目はどうだ」 ≪1-104≫
三人目はまだ息をしていた。 ≪1-105≫
それはごく若い男で、戦列歩兵の制服を着ていた。軍服は略装で武器もなく、灰色の大きな外套は前で広めにはだけていて、裸の胸がのぞいていた。≪1-106≫
※ l'infanterie de ligne: 戦列歩兵。19世紀フランス軍の主力となる正規の歩兵兵科
※ en petite tenue: 略装。日常勤務用の軍服、儀式用ではない。
※ capote: 外套。19世紀フランス軍の兵士が着た長い灰色の軍用のもの。
彼を慎重に持ち上げた。動かすたびに哀れな呻き声をあげたからだ。壁にもたれかかるように男を座らせた。≪1-107≫
すると、男は目を開け、かすれ声で何か飲むものを求めた。 ≪1-108≫
水を入れたカップが差し出されると、彼はうまそうに飲み干した。それから深く息を吸い、少し元気を取り戻したようだった。 ≪1-109≫
「傷はどこだ?」とジェヴロルが尋ねた。≪1-110≫
「頭だ、ほら、ここ」と彼は答え、片腕を持ち上げようとしたが、「ああ、痛い!」と叫ぶ。 ≪1-111≫
殺人犯の退路を断った例の捜査官が近づき、老練な外科医さながらの手際で、若者のうなじのちょっと上に開いた傷口を触診した。≪1-112≫
「大した傷ではない」と彼は言った。 ≪1-113≫
しかし、彼の下唇がわずかに震えたのを見れば分かる。その傷が致命的とはいかないまでも、非常に危険であると彼が判断しているのは明らかだった。≪1-114≫
「大したことないだろう」とジェヴロルは断言した。「頭を殴られても死なない程度なら、大抵一か月で治る」≪1-115≫
負傷者は悲しげに微笑んだ。 ≪1-116≫
「僕はもうダメだ」彼は呟いた。 ≪1-117≫
「何だよ!…」≪1-118≫
「ああ…否定しても無駄ですよ。僕にはわかる。だが文句は言わない。これは自業自得だ」 ≪1-119≫
その言葉を聞いて、捜査官たちは一斉に殺人犯の方を向いた。この発言を利用して、彼が再び無実を主張するつもりだろうと思ったのだ。≪1-120≫
彼らの期待は裏切られた。確かに男は聞いたはずだが、微動だにしなかった。 ≪1-121≫
「けれども」負傷者は消え入りそうな声で続けた。「あの悪党、ラシュヌールが僕を誘い込んだ」 ≪1-122≫
「ラシュヌール?…」≪1-123≫
「ああ、ジャン・ラシュヌールだ。昔は役者で、僕が金持ちだった頃の知り合いだ… 僕には昔、財産があったんだが、全部遊び尽くしてしまった… 楽しみたいだけだった… 金がないと知ってあいつが近づいてきて、また昔の生活に戻れるほどの金を約束したんだ… その言葉を信じたせいで、僕はこんな汚い場所で犬のように死ぬ! ああ!復讐してやる!」 ≪1-124≫
願いをこめるように、彼は拳を固く握りしめた。末期の脅しだ。≪1-125≫
「復讐してやる」彼は繰り返した。「僕が知っていることは、奴が思っている以上に多い…全部話してやる!」 ≪1-126≫
※ 初出紙の連載第2回目(1868-5-28)の終わり
(つづく)
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